第2話 業務開始
さてさて。大使館というのは一概には言えないが、基本的に豪奢に作られていられる。理由はさまざまだが、一つには駐在国に舐められないよう威厳を保つためだという。アメリカという国がいかに富み、いかにパワーがあり、いかに栄えているかを顕示するという目的がある。
だが、個人的に思うのが大使館で働いている人たちを癒すという目的もあるのではなかろうか。外交官によっては言語・文化・慣習が全く異なる国に赴き、場合によっては国運を左右するタフな交渉が強いられる。ストレスが溜まりがちな職員を労う意味も込められているのではないか。なぜそんなことを思うのかというと、
「このソファ。ふかふかだなあ」
休憩スペースに置かれたソファは光沢のある革が張られ、座り心地のいい綿が詰められていた。これだけで難しい試験をパスしてよかったと思った。値段について想像するだに怖いので、とりあえずは目の前の書類のことについて集中することにした。
「さてと。まあ、今日もらった研修書類を振り返りますか」
本国できっちりイランのことについて詰め込まれたが、現場で仕事するにあたって改めて確認する形となった。ポイントとしては六点ぐらいになる。
その一
イランは親米国家であること。特に現在の国家元首であるモハンマド・レザー・シャー王の時に欧米との関係を深め、現在は『アメリカの憲兵』と呼ばれるまでになったこと。産業の特徴としては世界有数の石油産出国であり、イラン経済の根幹を支えている。現在の王になってから『白色革命』と呼ばれる改革政策が採られている。GDPは年々上昇し、市民たちの権利も逐次拡大されている。
その二
今でこそ地域大国と呼ばれる国であるが、かつては大帝国を築いていた。アケメネス朝ペルシアやササン朝ペルシアをはじめとして二千五百年ほどの歴史を持ち、マケドニアのアレキサンダー大王や共和制ローマのクラッスス将軍、東ローマ帝国のユスティアヌス一世らと争ってきた。イラン人たちは大帝国の末裔であることを自認し、誇りに思っている。
その三
宗教はイスラーム教であること。イスラーム教はスンナ派とシーア派に分かれ、9割方はスンナ派にあたる。イランは数少ないシーア派に属する。元々はアラビア半島で勃興した宗教であり、ペルシア領域ではゾロアスター教が信仰されていた。しかしササン朝時代にイスラーム帝国によって滅ぼされ、以後はイスラーム教が国教となる。現在でも住民の大多数がイスラーム教徒である。
その四
表面上、国内の情勢は落ち着いている。以前は反政府デモが頻発していたが、ここ最近は見られない
……ここに関しての資料が少ないことが気になるが、他にも勉強することがあるから先に進める
その五
これは特に重要なことだが『ペルシャはアラブではない』。両者は言語や文化が異なる。前述のようにイランはペルシャ文化に特に誇りに思っているため、十分な注意が必要である。また、イランではイスラーム教がベースとなっているが、同時並行で古代から綿々と続くペルシャ文化もベースとなっており、相互に影響を及ぼし合っている。本点も同様に注意が必要である。
と、こんな感じかな。
「ふう」
大量の情報を一気に読み返したため、肩の筋肉が張っていた。自分でコリをほぐしつつ振り返ると、改めて『難しい国』という印象を抱いた。複数の文化が流入して交わることで、重層的な国となっていると感じる。腕をぐるぐると回していると、
「おつかれさん」
ドンドンと肩を叩かれた。ビクッとして振り返ると、コリンさんが楽しそうな顔で立っていた。手には飲みかけの缶コーヒーが握られていた。
「社会人の先輩として一つアドバイスすると、業務時間後は仕事しないのをお勧めするよ。給料でないしメリハリもつかなくなる」
そう口にしつつも顔には柔らかな微笑が浮かんでいた。初々しい新人に対して温かく見守ってくれているような。
「すみません。研修が終わった後はすぐ帰るつもりだったのですが。軽く見直していたらついつい時間が経っちゃって」
向こうはそこまで怒ってはないようだが、念のため謝罪の気持ちを示した。先輩はというと『わっはっは』と楽しそうに笑った後、
「そうだな。最初のうちはやる気に満ち溢れているから、仕方がないと言えば仕方ないか。俺も覚えがあるし」
一人で合点した後、
「そんなジョン君にコリン先輩からご褒美を授けよう。業務が終わった後に時間って、空いている?」
「はい、特に予定はないですが……」
いぶかしながら答えると、
「今日、俺の家でホームパーティーをやるんだ。大使館やイラン人の友人たちとか集まるんだが、せっかくだから君も来ないかい? 歓迎会も兼ねて」
パーティってこの年齢にもなってか。アメリカの学生時代にはバンバン開催されていて、俺も何度か参加していたが。社会人にもなってしかも遠い異国でも開かれているとは。数秒逡巡したところ、まだ職場以外に知人がいない身分としては非常にありがたいので、
「はい。是非参加させてください」
二つ返事で承諾した。先輩はニッと頬を緩ませ、
「オッケー! じゃあ、七時に俺の家でやるから来てくれ。地図はこれな」
小さな紙を渡された。自宅から歩いて十五分くらいのところか。まず注意することは迷わないように早めに出ること。それから手土産を買っておくことだな。