第1話 イラン着
初めてパフラヴィー朝イランに降り立ったときの印象は『暑いようで暑くないようでやっぱり暑い国』であった。国務省の研修ではニューヨークのように蒸し蒸しした空気がないから意外と涼しいとの話だったが、実際の大地に立つと日差しが強い。砂漠の国のイメージはあながち間違っていなかった。
周りを見渡すと、男性はTシャツにジーンズ、女性はショートヘアにミニスカートといったラフな格好で歩いていた。ターバンやヒジャブといったイスラーム教っぽい姿は見当たらない。国務省の研修の中で、イランにはアメリカ文化が浸透していると聞いていたが肌で実感した。自分達とよく似た異国の空気を味わっていると、
「おーい、君がジョン・バートン君かい?」
髪を短くして四角い眼鏡をかけた人がいた。流暢なアメリカ英語からすると、たぶん同郷の方だろう。
「はい、そうです。えっと、コリン・スペンサーさんですか?」
事前書類にて俺のアテンド人と案内されていた名前を口にした。目の前の男性は相好を崩して、
「イエス! パフラヴィー朝イランへようこそ!」
アメリカ人らしくバンバンと肩を叩いた。うん、やっぱり同国の人だ。
「まあ、長旅で疲れたろう。積もる話はドライブしつつ話そうか」
と、奥に置いてある黄色のフォード車を指した。こちらも早く羽を広げたい気持ちがあり、言われるままにトランクに荷物を載せ、助手席に乗り込んだ。コリンさんは流れるように出発させた。クリーム色の建物達を流し見していると、
「さて、とりあえずイランに来た感想は?」
テヘラン空港を降り立ってから一時間も経っていないのだが。二~三個ほど頭に単語を思い浮かべて、
「……暑いです」
「ははは!! 確かに!!」
何もそこまでというくらい大爆笑をされた。いや、普通に暑いでしょ。
「まさか外交官たるものの第一声が素朴な感想とは! はは、素直でよろしい!」
どうやら俺はバカにされているようだ。貴重な新人に対していかがなものか。ムスッとした目を向けると先方は少しボリュームを下げて、
「失敬失敬。いやいや全くバカにしているわけじゃない。中東エリアっていうは好みが分かれるから。迎え入れる方もナイーブになりがちなのさ。だから単細胞な反応をしてくれて逆に安心したのさ」
やっぱりバカにしているじゃないかと思いつつ、もう大学を卒業した「大人」なのでクールに受け流すことにした。先輩はひとしきり笑った後、
「ちなみに、採用時に専門語学の希望を書かされたと思うが、一番は何語だったんだ? 絶対にペルシャ語じゃないだろ?」
プロから見るとお見通しか。隠していても仕方がないので正直に、
「……。日本語です」
と答えた。先輩は抑えるように笑みを浮かべ、バンバンと扉を叩いた。すみませんが安全運転でお願いします集中してくださいお願いします。
「なるほど! ハズレ当選という訳か! 名誉あることだ!」
本当によく笑う人だな。気難しい人の下で働くよりはいいことか。
「うんうん。まあ、素直でよろしい。こういうご時世だから、上層部も君みたいな人を寄越したんだろう」
一人頷いていた。コリンさんがさらりと口にしていた言葉が気になり、
「こういうご時世って。イランにはなんかあるんですか?」
軽い気持ちで聞いてみると、
「……」
眉一本変えずに無言を貫いた。いやこの静かな車内で聞き逃すってことないよな。明らかにこの人無視したよな。わずかに気味の悪さを覚えると、
「今は政治に興味を持つより、まずは現地の社会の風を感じる必要があるな。ちょっと観光しよう」
車を停めるとササッと外に出た。慌てて俺も後を追うと、目の前には通りに小さな店がぎっしり詰まっていた。人だかりができて活気がここまで伝わってくる。察するにバザールと呼ばれる商店街だろう。
「すごい……!」
研修のときに写真で見たが、やはり生で眺めると熱量が全然違う。ぴりっとした香辛料のにおいや色とりどり衣服、多種多様な食物が洪水のように流れてくる。
「おーし、じゃあ早速だから買い物を体験してもらうか。ちゃんと両替したか?」
「あ、はい。空港でドルをリヤルに交換しました」
まずは現地のお金がないと話にならないので、いの一番で対応した。紙幣に現・国王の肖像が載っており、今の元首の強さを実感した。
「オーケイ。んじゃ、あの婆さんの店で俺宛にお土産を買ってきてくれ。せっかくだからチェシェナザールを」
と言って、青い石の中に水色の石が埋まっている目玉のようなアクセサリーを示した。確か魔除けのためのアイテムだっけか。
「はあ、わかりました」
なんで現地の人のためにお土産を買う必要があるのかと疑問に思いつつ、指定された店へと足を運んだ。店主の方はすぐに俺に気づき、
「いらっしゃい」
ニコニコと相好を崩して、迎え入れてくれた。店内には深紫のペルシャ絨毯の上に、所狭しと雑貨が並べられていた。
「あの、なんか青い目玉みたいなアクセサリーありますか?」
慣れないペルシャ語を駆使して伝えた。婆ちゃんは俺の拙い言葉を根気強く聞いた後に軽く頷き、
「ああ、さっきあんたとボスが話しているのが見えたよ。チェシェナザールのことだろ? あれさ」
そう口にして一つの列を指差した。そこには先輩が見せてくれた目玉がぎっしりと置かれていた。
「そうでそうです! これください!」
お目当てのアイテムゲット。よくわからんが簡単なミッションだったな。
「お兄ちゃん、アメリカの人?」
商品を袋に包みつつ話しかけてきた。アメリカでは遭遇しない場面だなと思いつつも、
「ええ、そうです。今日ちょうど来ました」
「はえー。遠い所からよくぞいらっしゃった。どうじゃ、イランは面白いじゃろ」
「ええ。活気があっていいですね」
現地の人と現地の言葉で会話することで、遅ればせながらやっと外国に来たワクワク感を覚え始めていた。これぞ海外に出る醍醐味だ。
「おおきにおおきに。他にもたくさん楽しいところがあるから是非テヘランを満喫しておいで」
「はい、ありがとうございます」
感じのいい人でよかったな。駐在生活のスタートダッシュができたや。
「商品はこちら。お代はこれぐらいねえ」
ものを受け取りつつ、言われるがままにリヤルを手渡した。初めてのことなので特にドル換算はしなかった。
「どうもありがとう。また来てねえ」
店主の方に手を振りつつ、コリンさんの方へと戻った。彼はニヤニヤしつつ俺の方を眺めていた。なんか癪に触る顔だなと思いつつ、
「お待たせしました。ご依頼のものを買ってきました」
「おお。そうかそうか。大義であった。んで? 初めてのおつかいはちゃんとできたかな?」
子どもをあやすようなイラっとする言葉は右から左に流しておきつつ、
「はい、こちらになります」
大統領に渡すかのような恭しい態度で差し出した。先輩は手渡された小物をしげしげと眺めつつ、
「そうかそうかありがとうありがとう。んで、チェシェナザールはいくらくらいした?」
「はあ、そうですねえ」
と、払ったリヤルをそのまま口にした。見る見るうちに先輩は呆れた顔をして、
「おいおい。いくらなんでもぼったくられ過ぎだ。相場の十倍だぞ」
「……え?」
唐突に研修を思い出した。イランの買い物は値段交渉が基本であるいこと、特にアメリカ人は富裕層とみられて高めの値段でふっかけられること、そのため鵜呑みにせずに安くできないか粘る必要ががあること。アメリカでは話半分で聞き流していたが、いま自分ごととして跳ね返ってきた。
「いやあ、たいていは五倍くらいふっかけられるんだが、まさか十倍とは。婆ちゃん随分強気に出たなあ」
なぜかコリンさんは感心している風だった。着いたばかりなので金銭的ダメージは少ないが、俺は謎の敗北感に打ちひしがれていると、
「まあまあ。素直でいい子ちゃんなところはジョンの短所であるが長所でもある。ぜひそのままの君のいてくれ!」
グッと親指を立てた。バカにしているようで、褒めているようで、やっぱりバカにしているお言葉を頂戴した。先輩は大層愉快そうであった。
「ではウェルカム祝いということでプレゼントを差し上げよう。イランでは有名なお守りで、世間の邪視から守ってくれる。これから活躍する君が嫉妬を買わないように飾っておけ」
と、チェシェナザールを手渡された。俺が買ったやつじゃないですかい。内心のツッコミは胸の奥に仕舞い込んだ。……俺は今日この日の屈辱を絶対忘れないぞ。本格的な外交官デビューは塩辛い気持ちが詰まっていた。