第0話 冒頭
魂よ、謎を解くことはお前には出来ない。
さかしい知者の立場になることは出来ない。
せめては酒と盃でこの世に楽土をひらこう。
あの世でお前が楽土に行けるときまってはいない
オマル・ハイヤーム
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新宿御苑はやわらかな風が吹き、爽快な青空が広がっていた。パリッとした芝生には恋人・夫婦・家族・友人が思い思いに寝そべっていた。それぞれの顔にはほぐれた表情を浮かべており、にぎやかな声が周りに広がっていた。季節は緑萌ゆる初夏。絶好のピクニック日和だ。
日本人たちが優雅に過ごしている中、私たちアメリカ人もくつろいで過ごしていた。スヤスヤと寝ている孫。その孫を揺らしている娘。二人の写真を撮っている娘婿。その三人をのんびりと眺めている妻が座っていた。絵に描いたような幸せな家庭が広がっている。みんながみんなリラックスした表情を浮かべている。
「ジョン、よく知ってたわね。東京のど真ん中にこんな公園があるなんて」
妻が感心つつ口にした。大都会のイメージが強いこの街で、自然あふれる場所があるなんて思いもしないだろう。
「仕事の息抜きにたまに行くんだよ。東京はコンクリートだらけだから緑が欲しくなってね」
日本出張のたびにいつも自分一人で訪れている。娘夫婦もちょうど来ていたから妻も呼んで家族で集まってみたが、どうやら正解のようだ。家内は異国の地でありながら伸び伸びと羽を広げ、興味深く周りを眺めていた。大黒柱としてのタスクをなんとか果たせたみたいである。心の中で達成感をかみしめていると、
「ちっ。またバカ大統領がアホなこと言ってやがる」
娘婿がスマホを見つつ、露骨に顔をしかめ始めた。バカンスの時ぐらい俗世間から離れればいいのにと思いつつ、
「なにかあったのかい?」
義理の息子に聞いてみた。つぶやいた内容からするに胸躍る話ではないと思うが、国際関係の仕事の都合により無視しない訳にはいかなかった。すぐに婿殿は申し訳なさそうな顔をして、
「いえ、お義父さん。大したことじゃないです……」
と弁解しつつも、自分のスマホを見せてくれた。パッと目にすると祖国の大統領様の写真と、扇情的な見出しが目に映った。
『イランが日本のタンカーを攻撃!』
すぐに暗澹たる気持ちが湧き上がってきた。イランはいつも何かしらのトラブルが起きているな。娘婿からスマホを借りて本文に目を通すと、
「本日現地時間の早朝、ホルムズ海峡で日本の海運会社の所有するタンカーが攻撃された。吸着型水雷もしくは飛来物によるものとみられ、同船にて火災が発生した。我が国の大統領は、
『あいつらイランがやったに決まってる。なんたって奴らはテロリストの国だからな』
と述べている。現在、日本の首相はイランの最高指導者と会談している最中であり、イラン政治に大きな動揺が走っていると見られる」
あくまで淡々と事実を書いているふりをして、暗にイランの犯行であるように見せつけている。我が国のおなじみのジャーナリズムである。もう見慣れた描きっぷりだが、それでも若さが残る娘婿は憤慨しており、
「クソがっ! どこの国が友好国の来訪中に爆破事件なんか起こすんだよ! ムチャクチャ嘘臭えわ」
すでに妻子がいる身とは言え、生真面目な正義感を発露していた。親戚ながら微笑ましく思える。とはいえ、おそらく彼みたいな感覚を持つ人はアメリカでは少数派だろう。現に彼の妻である我が娘は、
「でも……。事件が起きたのはあのイランでしょ? イスラーム原理主義の彼らならやりかねない気があるけど……」
と口にしていた。彼女の偏見に対して心の中では残念な気持ちが芽生えているが、理性的に考えると無理もないと判断する。祖国では十人に九人が彼の国を嫌っている現状では、娘の感覚は一般的なものだろう。我が妻も、
「イランは私たちのことが大嫌いだから、日本のことも嫌いでしょうね。昔アメリカ人のことを人質に取って立て籠ったこともあったし、爆撃ぐらいなんてことないでしょ」
敵意を剥き出しにした発言をしていた。もうバケーションの空気は薄らいでしまったな。若干人ごとのようなことを気にしていると、
「現にお父さんも一年間くらい拘束されたのよ。私たちにとっても敵なのよ敵」
さらりと付け加えた。母の言葉を聞いて娘は、
「ああ、前に聞いことある……。外交官として仕事している時に、大使館の中に監禁されちゃったって。ちょうどイランの駐在官だったときに。本当に怖いよね……」
同情めいた表情を浮かべつつ、私の方に顔を向けた。
「まあ、そうだな。大変だったな」
私は言葉少なめに口にした。優しい娘婿はフォローするように、
「でも、どんな国にも光と影があるはずですよ。お義父さんは数年間は滞在していたんですよね? なんかないんですか、楽しかった思い出とか?」
他意もないように聞いてくる。少しの時間、考えるフリをして、
「……うん、まあ。そうだな……。だいぶ昔のことだから、もう覚えてないな……」
この場では答えづらいことなので、今度はあからさまに濁した。察してくれた娘は旦那に肘鉄砲を当てて、コンコンと注意してくれた。慌てたように婿殿は私にペコペコとした。すまないね。人には話したくないことが一つや二つあるんだ。
「さあ、そろそろ出ようか。早くしないと浅草寺が混んでしまうよ」
皆を次の目的に促すことで、この話題を断ち切らせようとした。家族達は特段疑いもなく片付けの作業を始めたので、内心ほっとしていた。緊張した心を沈めるためにも、原っぱの景色を見渡した。
公園内に目を向けると興味深い事実がわかった。世界に名だたる国際都市・東京だけあって、さまざまな地域の人たちがシートを広げて談笑していた。日本の隣国である韓国や中国の人たち、近年交流を深めているベトナムなど東南アジア出身と見られる人たち、ヨーロッパ系の顔立ちの人々。さまざまなバッうグラウンドを持つ人たちが入り混じっていた。
中でも目に入ったのが、シートを広げつつ手にサンドイッチと紅茶を持って談笑している人々。女性たちはスカーフを巻いていることから、たぶんイスラーム教徒の人たちだろう。アメリカでは肩身が狭そうにしている彼らも、日本ではリラックスしているように見受けられる。日本に過ごしてみて思うことは、表面上は大きな宗教対立がないのはいいことだ。アメリカのぴりぴりした空気は時おり居心地の悪さを覚える。そんなもの思いにふけてると、
「お父さん。早く行くよ」
娘に急かされた。気づくとビニールシートやらなんやらは仕舞われており、あとは出発するだけとなっていた。急かした自分が置いてかれるのは間が悪いと思い、駆け出すように歩き始めた。突然動いたためにすれ違った人にぶつかりそうになった。
「すみません!」
反射的に頭を下げた。日本で暮らす中での習慣が出た。
「いいえ、こちらこそすみません!」
先方も恐縮した声を上げた。顔を上げると濃い紫色のヒジャブをかぶっていた。顔に刻まれたシワを見るに、たぶん年齢は私と同じ六十ぐらいだろう。服装から察するにこの人もムスリムだろう。
すぐに視線を逸らして立ち去るのがマナーにあたるが、反射的にジッと観察してしまった。どこか見覚えがある。特にキリッとした自信に溢れる瞳がどこか胸をざわつかせる。全くの面識はないが昔どこかで会ったような印象を受ける。
先方も同様であり、私に対してまっすぐ目を向け、何かを思い出そうとしていた。お互い視線をぶつけたまま、2~3秒くらい互いに固まっていた。すると彼女の背後にいた男性が、
「どうした? 知り合いか?」
と声をかけた。容貌から推察すると、私と同じ世代の日本人だろう。女性は慌てて目を逸らし、
「ううん。なんでもない」
後ろの男性に声をかけつつ、改めて私の方に向き直り、申し訳なさそうに会釈した。こちらも二度三度とおじぎをした。彼女の方は名残惜しそうにしつつ、夫と見られる男性と一緒に公園の奥の方へと足を向けた。
私も歩みを始めるも、なおも気になり背後の女性に半分視線を向けていた。そんな私に対して妻が急かすように、
「ジョン! 早く!」
と声をかけてきた。他の人たちはすでに歩を進めており、だいぶ離れたところに見えた。
「ソーリー、ソーリー!」
早足がてらに向かおうとした。先導役がいなきゃ話にならないなと思っていると、
「待って! あなたジョン? ジョン・バートン!?」
フルネームで呼びかけられた。振り返ると先ほどのムスリムが驚愕した表情で私を見つめていた。まるで数十年ぶりの懐かしい人物と再会したかのように。ふと一人の顔が頭の中に浮かんだ。
「もしかしてファティ!?」
相手の反応から正解を引き当てたことを直感した。同時にだいぶ色褪せていた記憶が急速に彩を取り戻した。猥雑したバザール、美しきブルーのモスク、殺気だったデモの群衆。そして自信に溢れた様子でベースを弾いていた女の子。酒場で語り合った時間、イスファハーンを旅した思い出、大使館の中で冷めた顔をした彼女。
「……久しぶりだね」
40年前に途切れた時間が不意につながった。自分が背を向けた最初のキャリアが突如目の前に現れた。忘れかけていた様々な記憶と感覚が走馬灯のように蘇るも、あれから随分と時間が経ったのかと感慨深げに思った。一から遡るように、最初にテヘランに降り立った時のことに思いを馳せた。