困ったひとだな・・・
日暮れが近づき街並みが橙色に染まっていく。それを横目に見ながら私は追加の注文をした。
「すいません、アイスコーヒーをもう一つお願いします」
「大丈夫かい?そんなに飲んでも?」
向かいに座る初老の男性が思わず口を挟む。
もちろん大丈夫な訳がない。微かに胃がキリキリとしてきているのが分かる。だが、それ以上に緊張で口が乾いてしまい飲み物を口に運ぶペースが速くなってしまう。
オフィスが立ち並ぶビル群の真ん中にあるごく普通の喫茶店。店内は立地のせいもありスーツ姿のビジネスマン達で賑わっていた。そんな中、例に漏れず私は直属の上司である部長と男二人で膝を突き合わせて座っていた。
「それで相談したいことと言うのは?」
「…部長には私がこの部署に来て以来大変お世話になっており実の父親の様に慕ってもいます。だからこそ社内で一番最初に相談したいと思っておりました…」
「ちょっと待った!」
そう言って部長は私の言葉を遮る。
「そんな重苦しい雰囲気だとこっちまで息苦しくなるからもっと砕いた感じで良いよ、君がこの部署に来て早二年、別に俺もそういう雰囲気は得意じゃないってよく知ってるでしょ」
「であれば、単刀直入に言います。仕事辞めようと思ってます」
遂に言ってしまった。これから何を言われるのか怖くなり届いたアイスコーヒーを半分程飲んでしまう。
部長の方を見ると小さく頷いていた。
「まあそういう事だろうと思ってたよ。それで辞めてからの事は決まってるのかい?」
意外な反応だった。思えば新卒で現在の文房具会社に入社してから商品開発部として順調に仕事をこなしプライベートも同僚の紹介で知り合った女性と結婚の話を進めており、一般的に見れば社会人として順風満帆な生活を送れているのだと感じていた。そんな私に現在所属する営業部への異動辞令が出たのでは入社後三年目の春。同僚や当時の部署の人達からはあの部署は忙しいやらメンタルに来ると冷やかされたが自分のキャリアアップの為にと思い辞令を受け入れたのだった。異動後、すぐに私は皆の言っていたことが冷やかしなどでは無かったのだと実感した。自社の出した不良商品の為、聞いたことすらない会社に出向き頭を下げる日々。そして今向かいに座っている部長からも数々の叱責を受けておりとても厳格な人なんだろうと考えていた。そんな部長がすんなり受け入れることは無いと読んでいたがこれは誤算だった。
「まだ具体的には…。でも妻とどこか田舎の方に引っ越して静かに暮らそうと考えています。」
「え?そうか…。ちなみに辞める理由とか聞きたいんだけども」
「やはり、私自身慣れない業務に疲れてしまったようで最近感情のコントロールが上手くいかない事があるんですよね」
「まあ、それに関しては俺も思ってたよ。ちなみに少しの間休養をとってみるという手もあるけどどうかな?」
「それについても考えましたが、都会の競争社会というんですかねそういうのにはもう懲り懲りしています。なのできっぱりと辞めようという決断に至りました。」
「そうか、それは残念だ…。ちなみに辞めて田舎の方に引っ越すことに関して相談はしているのかい?」
分かりきっている事なのにどうしてそんな事を聴くのだろうかと疑問に感じたが確認の意味もあるのだろう私はすぐに言葉を返した。
「妻にですよね…?実はまだ相談出来ていなくて…」
そう言うと部長は小さくため息をついてから言葉を続けた。
「だろうと思った。君はいつもそうだよな。自分の行いが正しいと思っているから誰にも相談せずに自分一人で物事を進めて取り返しがつかなくなってしまう。そうなって初めて誰かに相談を行う。非常に社会人としては致命的だ。」
不用意な事を答えてしまったことで部長に思わぬ形で欠点を突かれてしまう。一瞬怒りを覚えたがそれ以上に自分の社会人としての不相応さを思い知り冷静になる。
黙っていると部長も言い過ぎてしまったと気付いたのか慌ててフォローする。
「…ついカッとなってしまった、失敬。本来ならそういった事を指導しつつ君のメンタルを思いやれれば良かったんだが…。私こそ情けないな、申し訳ない」
今度は部長が私に謝っている。部長自身も非がない訳とは思っていない様子だった。
だが、私はそんな事よりも謝罪するべき事があると考えていた。
「…部長、それ以上に謝ってほしい事があります。先日の妻のことです。私はあの件以来一層メンタルが落ち込んでいてまともに眠ることすら難しくなってきています。」
「その事も話をしたかったんだ、この際だから…」
部長の言葉を強引に遮る。
「いい加減、妻を返してください!人の妻をたぶらかして奪おうなんて人のやっていいことじゃないですよ!」
つい声に感情がこもってしまい力強くなってしまう。
つい1週間前のことだ。家から帰ってくると妻が荷物をまとめて居なくなっていた。
『しばらく距離を置かせて下さい。』
と一言だけ書かれた書き置きが水やりを怠って枯れ果てた一輪のマーガレットと共に置かれていた。
すかさず妻に電話をかけると部長が電話に出た。こいつが元凶だと気付くのにに時間はかからなかった。この時、とりあえず部長としての貴方に相談があると持ち掛けて今こうして向かい合っていた。
「奥さんは十年前に病気で亡くなり今はローンを組んで買った一軒家で今は独り。道理は分かりますが今更別にあてがうのは違うんじゃないですか?」
つい感情的になってしまいとどめていた考えを口に出してしまう。
「…あのな、俺は…君を責めたいと思っている訳じゃないんだ。君にもこうなるに至った訳があるんだろうと思い何か解決の糸口を見つけることが出来ないか探っていこうとしていたんだ。…なのにそれは酷いんじゃないか!」
ついに耐えきれなくなったのか部長から怒号が飛ぶ。
「いや、そもそもおかしいと思ってたんです。半年くらい前でしたよね、部長と二人でやっとの思いで大手と契約を結べたからといってその夜、妻も交えて私達の家に上がって三人で夕食を囲んだ時、妻と部長二人でだいぶ話が盛り上がってたじゃないですか!」
「君はさっきから何を言っているんだ?」
部長がすかさず口を挟むが私は止まらなかった。
「それからですよ、妻はちょくちょく出掛けるようになりました。結婚を機に専業主婦になってからというものあまり外に出ることが無くなっていたんです。それなのに部長を家に誘って以来一人で何処かに出かける様になりました。これって明らかに部長が関係していますよね!?」
ついまくし立てるように一方的に喋ってしまった。
「君は俺をどんな奴だと思ってるんだ?あのな…いくら寂しいからといってな実の娘をあてがう訳がないだろ!君も知っているだろう!」
今度は逆に部長の方が勢いづく。
「そもそもあの日夕食を囲みたいと提案したのは実家を出た娘の様子を久々に見たかったからだ。そりゃ久しぶりに会えたんだ、話の一つや二つくらい盛り上がるだろう!それに娘が出かけるようになったのは君のせいでもあるんだ、君の束縛が段々強くなってきていると相談を受けたからな。だから家での君の様子を定期的に報告するように娘に言ったんだ。君にはきつく当たってしまう事があったのは事実だ。しかし、マンガ喫茶で時間を潰してそれを経費で落とそうとしていたのも事実だ。一度や二度ではなかったはずだ。それにさっきの話で思い出したんだが、まるで娘が外出しなくなったように君は言っていたな。娘からは君が娘を外出させないように常日頃きつく言い聞かせ、もし外に出ようものなら手を出していたと聞いたぞ!」
私は部長の話を聞く側で手元に目を配るすっかり氷が溶けたアイスコーヒーがあったことを思い出し、一気に飲み干す。冷えてはいたが氷が溶けだした分、味は薄かった。
「一応言いますが、私は妻を何があるか分からない外の驚異から守ろうとしていたんです。外出は控えるように口酸っぱく言っていましたが、結局はそれで外出するかどうかなんてその人の自由ですからね。手を出したと言いますがそれは一度だけ、しかもあんなの事故ですよ。」
私が弁明をしていると部長はおもむろに立ち上がる。
「…もういい、娘もすっかり気が滅入ってしまっている。そんな状態なんだあまり一人にはしたくないんだ。君がそこまでおかしな奴だとは思っていなかったよ。」
そう言うと会計伝票を持ってレジへと歩み始める。
「困ったひとだな…。」
私に向けてだろう、すれ違い様小声ながらも怒りに満ちた言葉が伝わってきた。
それから五分くらい呆然としていた。自分の中で妻を取り戻せなかった脱力感と義父という立場を利用して私から妻を遠ざけようとしているあの男への怒りがせめぎ合っていた。
ふと外に視線を向けると橙色だった街並みはすっかりと黒く染まりきっていることに気付く。今度は家に直接上がり込もうかと考えながら立ち上がる。すると、待っていたかのように周りの席に座っていたスーツ姿のビジネスマンも五人程立ち上がりゾロゾロとこちらに向かってくる。一人の客がこちらに近づくと手帳を広げてこう言った。
「すいません、警察の者です。ご同行お願いできますでしょうか?」
そういえばこの店で待ち合わせるというのはあちらからの提案だったのを思い出す。
私はつい小声で呟く。
「困ったひとだな…。」




