9 シグベルトの回想
カルムもいなくなったと聞くから、これで昨日の毒蜘蛛事件の関係者が全員いなくなったことになる。
イルメンガルトからは詫び状が届いた。
慌てて書いたのだろう、書き損じが何カ所か存在している。文章も感情的に乱れているが、総合するとおよそこのような内容だった。
――突然の出立で申し訳ないが、命を狙われて恐ろしくなった。ふたりはあらぬ疑いをかけられたにもかかわらず親身になってイルメンガルトを心配してくれ、帰国に付き添ってくれると申し出てくれた。カルムは婚約者で、リネットは聖女だから、ふたりに毒味をしてもらえれば安心して旅をすることができる。殿下とはしばらく会えないが、達者に暮らしてほしい。
(リネットが毒味だって?)
犯人候補の筆頭であるふたりに毒味など任せられるものだろうか。それができるなら、そもそも命が狙われて恐ろしいなどと思ってもいないということだ。それとも、もう犯人が誰だか分かっている?
(……イルメンガルト。君は何を考えている?)
短い付き合いの中での観察にすぎないが、シグベルトは彼女にいい印象を持っていなかった。
(あれは――そう。人の形をした『影法師』だ)
話している言葉が空っぽで、とにかく中身が伴っていないかのような、ふわふわしたつかみどころのなさを感じていた。
断片的な印象だけを並べるのならば――
微笑んでいても微笑んでいない。
表面では喜んでみせても、内心空しさを感じている。
何でもないふりをしているが、実は倦みきっていて、心をここに残していない。
他人に寛容なようでいて、怒るだけの価値もないと突き放している。
複雑な劣等感に悩むカルムに対し、親身になって相談に乗っているようで、『でも、そんなに健康だなんて羨ましい』と、さりげなく追い詰めるようなことを言う。
それでもシグベルトは、彼女を話せば分かる相手だと評価していた。
それは彼女が情よりも理屈を重んじるからだ。人のことに異常な冷淡さを示すのと同じぐらいの無頓着さで、自分の感情も軽視している。常人ならば情緒を乱してしまうような出来事があっても、まったくけろりとしているのである。
そもそもの『希望の国』訪問からが異常だった。シグベルトもよく覚えている。
シグベルトの両親――国王夫妻は初め、『影の国』からの突然の来訪者に仰天した。
「婚約? 聞いていないぞ、そんなことは」
かの国は何の前触れもなく、いきなりイルメンガルト姫をよこしたのである。
婚約など一度も協議したことがないのだから、彼女の処遇は国王夫妻の手に余る。だからとにかく丁重にお引き取りを願った。『影の国』の王に、まずは話し合いを提案する書を送ったのである。
イルメンガルトには仮の住まいを宛てがい、留学にやってきたということにした。
国王陛下は彼女に対して好意的でなかったようだが、王太子たる彼はもっと露骨だったはずだ。
ところが彼女たちはそれすら無視した。婚約を吹聴してまわり、正式に話が進んでいると周囲に思わせてしまった。
それだけでは飽き足らず、イルメンガルトも、衆人環視の大きな宴会で、丁寧に膝を折って挨拶をした。
――イルメンガルトでございます。今宵の宴を楽しみにしておりました。
彼女は美しい王女だ。鮮やかな色彩のブロケードと、その重みで潰れてしまいそうなほど細い肢体、優雅でたおやかな歩き方は、闇夜にひらひらと舞うアゲハ蝶を思わせた。
大注目の最中でイルメンガルトは驚愕の言葉を放った。
――先日の『婚約の儀』ではご無礼をいたしました。殿下のお気持ちを損ねるようなことをしてしまったようで、心よりお詫びいたします。
シグベルトはざらりとした不快感を覚えた。
(この間はお前のワガママで婚約が流れたが、ひとまず謝ってやる――とでも言いたいのかな?)
誓ってそんな事実はないが、まるでイルメンガルトが余裕を見せつけたかのように印象づけたのである。
これはしたたかで油断のならない女だと思ったのもつかの間で、彼女の言葉が文字通りだと知ったのは、その直後だった。
彼女はとにかく、人の情緒に頓着をしない。
――殿下にはすでに心に決めた方がおありだと噂でうかがいました。わたくしは特に気にしませんわ。なんでしたら、ベルタや、他の令嬢たちもいかがですか?
シグベルトは「そういうことじゃない」ときちんと説明した。影の国との婚姻関係には様々な条件をすりあわせる必要がある。たとえば、現在はざまの位置にある領土がどちらのものかを確定するだとか、戦争のときにどちらがどのくらい兵を出し合うことにするだとか。
そうした前交渉なしに婚約を結べないのはもう説明するまでもない話だったが、とにかく伝えた。
するとイルメンガルトは「知らなかった」と述べ、さらにこう付け加えた。
――では、婚約のことはいったん抜きで、わたくしたちをおそばに招いてくださいませ。どれでも好きな娘を差し上げます。
犬や猫の子どもではないのだから、あんまりな言い草だ。
唖然としていると、イルメンガルトはさらにこう付け加えた。
――ああでも、わたくしが言っていたことは内緒にしてくださいませ。反抗をされても困りますから。
シグベルトが「本人の了承はないの?」と問うと、イルメンガルトは何でもないことのようにうなずいた。
――ええ、でも、きちんと黙らせますからご心配なく。ブタだって、屠殺されると知ると暴れるでしょう? 直前まで何も知らせないのが一番なのですわ。
まさかとは思いつつ、この使節団は初めから贈り物として用意されているのかと問うと、彼女は不思議そうにした。
――若い娘を大勢連れてきたのですもの、それ以外に何かございますか? まさか、お気づきでなかったから、これまで何もなさらなかったの?
とんでもない娘ではあったが、話せば一応、シグベルトがそういう相手は探していないということも理解してくれた。
儚げな見た目に反して、豪胆で、悪魔的。
そう、シグベルトの知るイルメンガルトは、毒蜘蛛をコップに入れられたくらいで大騒ぎするような女性ではなかったのである。
(……これは一杯食わされたかな)
シグベルトは苦い事実を噛みしめる。
彼女は大人しい顔をしてカルムとの婚約を受け入れつつ、仕返しの機会を窺っていたのかもしれない。予想すらしなかったことで、シグベルトは悔しかった。
油断はなかったと思う。リネットへのすさまじい嫌がらせの数々も、慎重に調査をした結果、本当にイルメンガルトは関与していないという結論が出ていた。突飛ではあっても悪事には手を染めていない。それどころか、侍女を諫めているところも何度となく目撃されていた。
(見せかけだったのだろうね)
取り巻き筆頭のベルタが少々暴走しているのだと周囲にも思われていたが、本当はイルメンガルトが巧みに誘導しつつ、表向き善人ぶっていたのが真相だったのである。
(何にせよ、今回は彼女にしてやられた)
敗北の味をなんとかやり過ごし、シグベルトは従者を呼び戻した。
「大至急後を追う。釈明もしないとならない」
「しかし、国王並びに王妃両陛下ご不在の今、勝手に宮殿を空にしては……」
「私などものの数に入らないよ。今いる父の重臣たちでうまく回っている」
「お言葉ですが、殿下、罠なのでは?」
シグベルトもその可能性は考えた。シグベルトがリネットに固執していることは向こうにもバレている。利用しておびき出そうと考えてもおかしくはない。