7 リネットの過去
薄ら寒くなるような声が途絶えたあと。
リネットはもうろうとする意識で、誰かに運ばれているのをうっすらと感じ取った。ずいぶん長い道のりを背に揺られ、ドサリと降ろされる。
冷たい土の上だと、ぼんやり感じ取った。
「ちゃんと帰れるんだろうな?」
「入り口から縄でつながっているそうだ」
どこか遠くで男性ふたりのそんな会話が聞こえ、あたりはしんと静かになった。
リネットは周囲を探ろうと、渾身の力を振り絞って目を開こうとした。
(……暗い……草いきれが……弱くなった……)
夜目が利かないせいでよく見えないが、どうやら夜の森に放置されているようだとぼんやり思う。なんと危険なことだろう。下手をすればすぐにでも狼か熊が寄ってきて、食べられてしまうかもしれない。
危険だと感じたら、だんだん意識がはっきりしてきた。
(なんとか……しないと……)
しかしリネットは指一本たりとも動かすことができなかった。
身体の自由はきかないのに、耳は冴えている。
――遠くで獣の雄叫びがする。
◇◇◇
イルメンガルトを乗せた馬車は四人乗りだった。ベルタたちは乗り心地のよくない鈍行の馬車で、後追いをしている。換えの馬もイルメンガルトたちが優先なので、既に一日分は遅れていた。
(馬鹿な娘ね、リネットは)
他の同行者の少女たちと同じ荷馬車にぎゅうぎゅうづめになりながら、ベルタはつらつらとリネットのことを考えていた。
なんといってもリネットは毒殺未遂の疑いがある娘だ。国王夫妻はイルメンガルトをそれはもう深く愛しているから、断固たる態度で処分を申し渡すだろう。
処刑されにいくようなものなのに、まるで危機感がない。もしかしたら、向こうでも王太子の加護が働いて、自分だけは助かると思い込んでいるのかもしれない。呆れるほどの考えなしだ。
ベルタにはどうにもリネットが幼稚で、危なっかしく思えるのだった。
(そもそも、リネットは本当に犯人なのかしら)
少なくとも、詰問したときはまったくそのように見えなかった。頬を叩いて犯人だと決めつけたのに、彼女は怒るでもなく、逆にイルメンガルトたちを気遣ってくれた。極めつけに、こうしてのこのことついてきているのである。
この度外れたお人好し。これは計算づくだったらできない行動のように思える。
(やはり犯人は、カルム)
底意地の悪そうな顔を思い出して、ベルタは胸が悪くなった。あの嫌な男なら何をしてきてもおかしくはない。リネットには王女を狙う動機が薄いが、婚約者ともなれば邪魔に感じることはあるだろう。
問題は、リネット本人が巻き込まれていることに、気づいているのかどうかだ。
(逃げるのは今のうちだと、警告してやるべきかしら?)
少なくともそれでリネットは助かるだろう。
ベルタとて、無駄に人の血が流れるところは見たくない。大切なイルメンガルトを傷つけたカルムには憎悪を覚えるが、それと同じだけ、イルメンガルトに親切を施してくれたリネットには、かすかな感謝を感じていた。
それだけに、あの脳天気さは薄気味が悪い。あんな頭の回転が鈍そうな小娘、恩人でなければ口も利きたくはなかった。
(なぜ、あんな娘にうちのイルメンガルト様が負けてしまったのかしら)
どう見てもイルメンガルトの方が優れているのに、シグベルトは歯牙にもかけなかった。見る目がなかったとしか思えない。
ベルタは伯爵家の娘で、イルメンガルトの幼馴染みだ。長い付き合いなので、彼女のことなら何でも知っている。
いつも微笑んでいる少女だった。美しい容姿もあいまって、彼女の愛らしい仕草は見る者をたちまち魅了した。ぜひともこの子を守ってあげなければという使命感にかられる者は後をたたなかったが、イルメンガルトが見た目通りの儚げな貴族令嬢でないことを知る者は少ない。
誰よりも芯が強いイルメンガルトは、突然、隣国に行けと言われても、決して弱音など吐かなかった。
「『希望の国』は、年中暖かくて過ごしやすいと聞いたわ。とても楽しみね」
かの国とは非常に難しい関係で、だからこそ彼女の融和的な和平結婚が重要だった。失敗が許されない中、イルメンガルトは王太子とも仲良くなろうと努力した。
大国の『影の国』の王女が、膝を折って丁寧に交流を乞うのを、冷たい微笑みであしらうシグベルトは一体何様であったのか。
リネットなどという、片田舎から来た娘にばかりかまけているのは、イルメンガルトへの――ひいては『影の国』への当てつけのようでもあった。
あの娘は何か。なぜわが国の王女をさしおき王太子に侍らせるのか。
同伴した貴族令嬢たちが憤激してリネットの陰口を叩いているときも、イルメンガルトはさすがに矜恃が違った。王女らしい寛容さを示し、絶対に彼女を悪く言ったりはしなかったのである。ベルタたちは謙虚で慈悲深いイルメンガルトに尊敬の感情を抱きつつ、もどかしい思いをすることになった。
『イルメンガルト様は甘すぎる。王族がそんなことでは示しがつかないのではないか』
身の程知らずの田舎娘には躾が必要だ。
イルメンガルト以外の令嬢たちは全員がそう考えていたのである。
そこで、ベルタを中心として、『影の国』の貴族令嬢たちが一致団結して行動に出ることにした。
蜂の巣を置く、針を刺された呪いの人形を届ける――などの嫌がらせは、すべて警告であった。皆そのような荒事には慣れていなかったが、これは面子をかけた女の戦いなのである。仕置きは徹底的に行われた。
しかしリネットは、ベルタたちよりもしたたかだった。雑草のような根性をしているとでもいうのか、何をされても動じない。当てつけをするのがうまいので、いつの間にかベルタたちが悪者であるかのように周囲へと印象づけてしまうのである。
一度など、こんなことがあった。
ベルタたちはその日、リネットの部屋から聖女の特別衣装を拝借し、水に晒した。重厚な刺繍ときらびやかな宝石がさんざめく上等の絹織物は、水を吸ってたちまち傷んでしまった。
台無しになった衣装を見ればリネットも、自分がいかに敵を多く作っているか、これ以上王太子に近づけば嫌がらせがどんな風にエスカレートするかを悟って、震え上がるだろう。ベルタたちはそう考えていたが、結果は違った。
リネットは何食わぬ顔でその衣装を着て、普段通りの日常を過ごしていたのである。
ぎょっとした人々から聞かれたリネットは、笑顔でこう答えていた。
「どなたかがわたくしの衣装を洗濯しようとしてくれたみたいなんです。でも、絹織物を水につけたらいけないって、知らなかったんでしょうね」
見るも無惨に生地がよれてしわしわになってしまった衣装を見て激怒したのはシグベルトの方だった。
誰が犯人かを徹底的に洗い出そうとする彼を、リネットはあくまで慈善者の顔で一生懸命に押しとどめた。
「どうか犯人捜しなどなさらないでくださいませ。きっとその方は絹織物に触れたことがなかったのですわ。服を台無しにしてしまって、今頃恐ろしくて震えているに違いありません。悪気があったのなら、こんな回りくどいことをせず、宝石をすべて盗んでいったはずですものね」
貴族令嬢たちは窃盗などという犯罪と無縁だったので、そこには考えが及ばなかった。
リネットはくすくすと意地悪くあざ笑う。
「かわいらしい失敗に目くじらを立てる必要などございません」
ベルタはカッと頬が焼けるような思いがした。あれほど悔しい思いをしたのは生まれて初めてだった。それも、あんな子どものような娘に辱められるなんて。
小柄な少女なので、ベルタの視点からはリネットの長い銀髪と、そのつむじを反射的に思い出してしまう。子どものような丸い頬に、ぱっちりとした瞳。貴族社会という魔物の巣窟には、リネットのようにあどけない顔をした怪物はたくさんいるのである。