6 悪女の追放
◇◇◇
旅は何事もなく一週間が経過した。
(もうすぐ国境でしょうか)
移動ばかりの毎日なので、これといって真新しいことはないが、リネットは『影の国』に行ったことがない。そのため少し期待していた。
(『影の国』とは、どんなところなのでしょうか)
噂でなら少し聞いたことがある。『希望の国』の北西に位置する国で、北側の国がみんなそうであるように、雪と氷の多い地だということだ。昼でも薄暗い日が多く、よその土地に比べて影法師が長いので、『影の国』という名前がついた。
(あちらの森は雪と氷がびっしりと降り積もって薄青く、とても美しくて幻想的だと聞きました。今は夏ですが、いつか見てみたいですね)
外の景色にも変化がないかと、つい目がいってしまう。
(今のところはうちの国とほとんど変わりません)
お昼の休憩中、リネットが木陰で本を読んでいると、イルメンガルトがやってきた。カルムも一緒だ。
「リネット様。お店で包んでいただいたのですが、パイはお好き?」
「大好きですわ!」
マルメロの甘いコンポートが乗ったパイだった。八つ切りにされており、断面からたくさんの果実が見える。甘酸っぱい香りが漂ってくるようだ。
「いただきます」
一口食べると、幸せな甘さが口の中に広がる。サクサクしたパイ生地も美味だし、何より焼き立ての香りが素晴らしい。
喜んで取り分けられた分を食べていると、カルムが呆れたような声をあげた。
「まだ食べないといけないのか?」
自分に言われたのかと思って振り返ると、ちょうどイルメンガルトがカルムにパイを食べさせているところだった。
「自分で食えよ。お前の分なくなるぞ」
自分のパイをカルムに半分以上食べさせてしまっている。
「カルム様はわたくしの毒見係だもの」
「毒見なんかいらないくせに、何を言ってるんだ」
「それに、カルム様がおいしそうに食べているところを見るのが好きなの」
「……いらねぇって」
「美味しいから食べてみて? はいあーん」
「……」
カルムは無言でそれを口に入れていた。
「どう? おいしいでしょう?」
「別に……」
そう言いながらも、心なしか口元が緩んでいるように見える。
リネットはふたりの邪魔をしないよう口元を手で押さえつつ、身悶えていた。
(こんなに仲良しだったんですね!)
馬車の中でも、実はそれほど話題が弾んでいたわけではなかった。イルメンガルトがぽつぽつと話しかけるのだが、カルムがいつもぶっきらぼうに話を終えてしまうのである。そのぶった切り感は嫌われているのかと相手に錯覚させそうなほどだった。
リネットもしょっちゅうカルムから睨まれ、何でもないことで怒られていたが、シグベルトが『誰に対してもああいうやつだから』と言うので、気にしたことはなかった。
イルメンガルトもまた、カルムの少し素直になれない性格を理解していたのなら、彼にとってこれ以上のことはないだろう。
にこにこしながらパイを食べているうちに、何か違和感を感じた。
(あら? ここだけちょっと苦い? ……お砂糖が焦げている……にしても、ちょっと……あら?)
薬くさい、と感じて、リネットはパイを吐き出した。
「カルム様、お召し上がりにならないでくださいませ! 何かが混入しています!」
警告したちょうどそのとき、カルムはぐったりと倒れてしまった。
「カルム様!」
慌てて駆け寄り、とにかく吐かせようと懐から嘔吐剤の薬包を探していると、イルメンガルトが「ねえ」と声をかけてきた。
「リネット様。わたくし、道中でよく考えてみたの」
リネットは「はい、ええと?」と生返事をしつつ、カルムの頬を叩いて嘔吐剤を口に突っ込んだ。はっきり言ってお喋りどころではない。
えずき、野原に吐き出そうとするカルムの背中ごしに、イルメンガルトが目に入る。
彼女は穏やかな微笑みを浮かべていた。
美しいのに、どこか常軌を逸している。
「わたくしはリネット様とカルム様が毒蜘蛛をけしかけただなんて思ってはいないけれど、本国のお父様やお母様がこのことを知ったらどうなるかしら? ――と」
にこりと笑うその顔からは感情が読み取れない。
気になりはしたが、カルムの容体が心配で、会話を続けられなかった。
十分に吐かせたあと、水を飲ませようとしたが、カルムは意識がほとんどなくなっていた。
(なんて強力な毒……わたくしも少し口にしてしまいました。このままだと危ないかも……)
解毒をしようにも、手がかりが少なすぎた。
(甘いお菓子に混ぜる毒、それも焦がした砂糖に味が紛れる毒は……)
砂糖を煮立たせても無毒化しないのなら生薬ではなさそうだとあたりをつける。
「きっと、お父様もお母様も、『希望の国』に兵をけしかけるわ。そしておそらく、兵で囲まれれば、シグベルト様は人身御供としてカルム様を差し出す――もしかしたら、リネット様も」
イルメンガルトのおしゃべりは、右から左に流れていった。
抱きしめたカルムの頬が発熱したように熱い。急激な発熱作用のある毒だ。
(加熱に耐える、甘い味の、発熱作用がある毒……!)
リネットはピンときた。
(もしもあの毒なら、人が死ぬことはないはず……)
というよりも、他の毒であればどんな手を打ってももう無駄だ。死なないことにかけるしかない。
リネットは一縷の望みをかけて解毒剤の包みを開き、カルムに用量通り飲ませた。
リネットの頬もカッと熱い。急いで薬を流し込み、力を使い果たして、カルムの隣に倒れ込んだ。
遠くでイルメンガルトの声がする。
「わたくしの愛するカルム様が目の前で死んでしまうのは辛いわ。ですからわたくし、おふたりを追放刑にしようと思うの」
追放刑――重罪を犯した人に課せられる処刑法だ。裸一貫で森の奥に放り出されるという残酷極まりないもので、たいていは道に迷って狼に食われるか、無残に飢え死にするか、どちらかの末路を辿る。
「リネット様はカルム様をそそのかして、わたくしを殺害し、自分を妻とするよう迫った。カルム様はまんまとその誘いに乗ってしまった……恐ろしい企みを知ってしまったわたくしは、ふたりをその場で追放した――という筋書きなの」
カルムが小さく呻く。まだ意識があるのだろうか。
リネットは、近くなったり遠くなったりするイルメンガルトの声を必死に追いかけていた。
「ねえ、カルム様。あなたのいつも一生懸命なところが大好きだったわ。不格好で生き汚くて、でも、誰より感情的で、ギラギラした炎が心に燃えている――そんなところが、人間らしくて大好きだったの」
イルメンガルトの声は楽しげでさえあった。
「わたくしの国の人間はダメね。冷たい雪と影に閉ざされて、心まで冷たくなってしまっているの。死と隣り合わせの豪雪に晒されているからなのかしら、わたくしも人が死ぬことにもまったく感動を覚えなくなってしまっていたけれど、カルム様はわたくしに、人の血が温かいと言うことを久しぶりに思い出させてくれたわ。カルム様が死んでしまったら、きっと悲しくなってしまう。だから――」
イルメンガルトの声が急に近く、大きくなる。
「わたくしの見えないところで死んでちょうだい」