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3 精霊の日に③


 イルメンガルトは尻もちをついて、床に倒れた。恐れをなしたように後ずさる。


「コップの中に、虫が……!」


 ひび割れたコップが床に転がる。


 奥からのそりと這い出してきたのは、八本足の大きな蜘蛛だった。


「イルメンガルト様!」


 血相を変えた年長の取り巻きが素早くイルメンガルトを抱きかかえる。


「誰か、医者を!」

「おのれ、姫様に毒蜘蛛をけしかけるとは!」

「知らない! 僕じゃない!」


 叫び声が飛び交う中、リネットはいち早く動いた。


「見せていただけますか?」


 イルメンガルトはぐったりとした状態で、苦しそうに胸へと手をやっていた。


「胸が苦しいのですか? 何かのどにつかえたのでしょうか。見せていただけますか――」


 リネットはてきぱきと介抱を進めていった。


 王太子のシグベルトも、すかさずカルムに問いただす。


「あれはなんの蜘蛛? 毒を持っていたの?」

「だから、知らない!」


 呆然と立ち尽くしながら、みっともなくわめいて無実を主張するカルムに、シグベルトは微笑みを向ける。しかしその目は決して笑っていなかった。


 床にこぼれた液体は紛れもなく水だった。大きな蜘蛛が潜んでいれば絶対に気がつく。カルムが意図的に見過ごしたのだろうと、シグベルトは判断した。


「今すぐに白状すれば、さほど重い罪には問わないでおいてあげるよ」


 シグベルトの言葉はあくまで優しかったが、カルムはほとんど真っ青になっていた。


 穏やかな声で話していても、人を焦らせ、惑わせるのが、王太子の得意とする話術だった。


「軽いいたずらのつもりだったんだろう? 分かるよ。でも、ちょっとやり方がまずかったね。よその国の王女を傷つけたら、死罪にまで発展してもおかしくない」

「僕じゃないって言ってるだろ!」


 上擦る声には本気の怯えがにじんでいた。彼の嫉妬心は、何をやっても王太子に敵わないと無意識に感じているからこその裏返し。内心では深く恐れている。だからシグベルトに脅しかけられれば、たやすく震え上がるのである。


 シグベルトは小さくため息をついた。実は彼も、カルムが誰かの毒殺などという大それたことを計画できるとは思っていない。ただ、この不出来ないとこはいつも後先を考えずに軽率な行動を繰り返すので、きっと今回も出来心で悪事を企んだのだろうと見当をつけていた。


「とぼけるつもり? それとも、何の蜘蛛かも知らずに突っ込んだのかな。残念だよ。こうなっては君を牢に入れるしかない」

「カルム様は無実です」


 小さく凛とした声は、足元のリネットから発せられた。彼女は一通り診終えたイルメンガルトを私室に下がらせるよう取り巻きに伝えて、すっと立ち上がった。


「わたくしはずっとカルム様がコップに水を注ぐところを拝見しておりましたが、何かを入れている様子はございませんでした」


 そう言って、リネットは真っ青なカルムに微笑みかけた。


「まずはクモを詳しく調べてみましょう」


 リネットがカルムの前を通り過ぎ、背を向ける。


「お前がやったんだ」


 カルムの絞り出すような声に、リネットは驚いて振り返った。




「お前がやったんだろう、そうに違いない! お前は僕に気があるから、イルメンガルトが邪魔になったんだ!」

「へ……?」


 リネットがぽかんとすると、口元が緩んで、少々かわいらしい半開きになった。


 カルムは言葉を失っているリネットに構わず、なおも喚きたてる。


「僕に変な手紙を送ってきただろう? 内容は、確かこうだ――」


 カルムがそらで唱えた詩は、古い時代の言葉だった。


 その格調高い調べから、『星の言葉』と呼ばれ、今でも宮廷貴族は詩を書くときなどにこの言葉を使う。


“星の女神が紡ぐ運命の糸は今や無残にも引きちぎられてしまった。あなたは冥い地の底に囚われている。わたしは最果ての地から蜘蛛の糸を紡ぎ、あなたを手繰り寄せよう。”


 カルムが話した内容は、現代語にすると謎めいた愛の告白のようになった。


 シグベルトはこのときまでカルムが犯人だと確信していたが、初めて疑念を持った。


(見事な詩だ。『星の言葉』は大きく分けて五世代あるが、もっとも美しかったとされる四世代目の文法と語彙できちんと統一されている……)


 カルムは『星の言葉』の成績も悪い。文才も皆無の彼が、でたらめで紡げるような詩ではなかった。


 かくいうシグベルト自身も、これほど見事な詩は作れない。では作者は、と考え、シグベルトはついリネットを目で追った。


 リネットは子どものような丸い瞳を、さらに丸くしている。かわいらしくゆるんだ口もまた、驚きと油断を示していた。


 まるで小動物のような愛らしい姿に毒気を抜かれ、一瞬でも犯人だと考えたことがバカバカしくなる。


「何かの間違いだろう。ひとまず事実関係を調査してみようか。その手紙は今どこに?」


 カルムが答えるより早く、再び悲鳴が上がった。


「あっ、あっ、あれ……!」


 参加者の少女が指さした先に、革袋が落ちている。


 その中から、今しも蜘蛛やムカデが這い出してくるところだった。


 王女を害する目的で、大量の毒虫が持ち込まれている――そう悟った誰かが叫んだ。


「咬まれたら大変だわ!」


 少年少女の恐怖心は最高潮に達した。


 散り散りに逃げていこうとする彼らに、イルメンガルトの取り巻きが金切声をあげる。


「ちょっと、どちらに行こうというの!? いやしくも王女が殺されかけたのですよ!? 勝手な逃亡は共犯とみなします!」


 パニックがパニックを呼び、王太子のそばに控えていた側近の少年も彼を戸口へを押しやる。


「殿下、ここは危険です。一度ご退室なさるべきかと」


 王太子の身に何かあっては一大事と、有無を言わさず連れ去ろうとする側近を冷ややかな目つきで牽制する。


 彼はリネットの保護を優先させようと、彼女に微笑みかけた。


「聞いたかい? ここは別の者たちに任せて、一度避難しよう」


 この混乱の中でも、リネットだけは側から放したくなかった。他の人間、特にカルムなどはどうなっても構わないが、彼女が毒虫にやられるのだけは避けたい。


 シグベルトの思惑は、周囲にもにじみ出てしまっていたようだ。


「そいつはダメだ、連れていくな!」


 カルムが急にしゃしゃり出てきた。


「イルメンガルトの容体が急変したらどうする? つきっきりで看病するべきだろう!」

「そんなものは医者の仕事だ。さあ、リネット」


 リネットは戸惑った様子を見せつつも、連れて行こうとするシグベルトの手をやんわりと押しとどめた。


 子どもっぽい印象の瞳をきりりと引き締め、リネットがまっすぐにシグベルトを見る。


「わたくしも聖女のはしくれでございます。患者様がいらっしゃるなら、診させてくださいませ」


 透徹した表情は、彼女を実際の大人以上に大人っぽく見せていた。


「そうだ。お前は怪しいからな。せいぜい働いて、無実を証明するんだ」


 調子に乗っているカルムにシグベルトはうんざりしたが、重ねて何かを言う前に、側近に阻まれた。


「殿下も、急いでください!」


 側近だけではなく、騒ぎを聞きつけた衛兵たちもシグベルトを連行しようとするので、それ以上リネットを追うこともできなかった。


 シグベルトとリネットは引き裂かれ、彼女はカルムのあとに付き従って、イルメンガルトの部屋に向かっていった。



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