はにかみ屋の溺愛
私の婚約者は滅多に笑わない人だ。
「このお茶、とっても美味しいわ」
彼の屋敷に招かれて庭でティーカップを傾ける。花壇は艶やかな季節の植物で飾られ、近くの木にとまった小鳥は高い声でさえずっていた。
「私ね、今度新しいドレスを作るのよ。完成したら見せてあげるわ。それを着て、一緒にどこかに出かけたいの。馬車で行けるところ……海か高原あたりがいいかしら? ……ああ、心配しないで。おしゃれだけど、動きやすいデザインだから」
小さな丸テーブルの向かい側に座る婚約者は、私の話を黙って聞いている。彼は笑わないだけじゃなくて寡黙だ。いつも物静かでゆったりと構えていた。
そんな彼の関心を引きたくて、私はいつも色々な話を振ってみる。でも、彼がそれに食いついてくることはほとんどない。
だからだろう。友だちからは「あんなのと一緒にいて楽しいの?」とよく言われてしまう。
だけど、皆は知らないのだ。彼が本当はどういう人なのかを。
「お弁当も持っていきましょうね。後、お菓子も。実は私、料理を習ってみようかなって……」
庭木の間を心地よい風が吹き抜け、梢を揺らす。枝から離れた一枚の木の葉が、風になびく私の髪に舞い落ちた。
「……ついてる」
彼が手を伸ばし、葉っぱを取ってくれる。そのついでなのか、乱れた私の髪も直してくれた。
その指先が耳に触れる。私はくすぐったくて頬を緩めた。体がほんのりと熱くなる。
「ありがとう」
「……どういたしまして」
婚約者の目元が和らいだ。口角が少し上がっている。照れを含んだようなその笑みに、私の胸は高鳴った。
体の火照りを冷ますように紅茶を一口含み、囁く。
「嬉しいわ」
あなたの笑顔が見られて。
私の婚約者は滅多に笑わない人だ。そう、全く、ではないのだ。
そのことを皆は知らない。彼の笑顔は私だけの秘密の表情だ。
私はティーカップをソーサーに置いた。今度はどんなきっかけがあれば、またあんなふうに笑ってくれるかしら、と考えながら。
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僕の婚約者はよく笑う人だ。
「このお茶、とっても美味しいわ」
今日だって、自宅に彼女を招いて茶会を開いた時から、ずっと彼女は笑いっぱなしだった。出したのは普通の紅茶なのに、こんなに素敵なものは飲んだことがない、とでも言いたげに早速破顔している。
「私ね、今度新しいドレスを作るのよ。完成したら見せてあげるわ。それを着て、一緒にどこかに出かけたいの。馬車で行けるところ……海か高原あたりがいいかしら? ……ああ、心配しないで。おしゃれだけど、動きやすいデザインだから」
それだけではなく、彼女はお喋りだった。いつだって些細な話題を引っ提げて、あれこれと僕に話しかけてくる。
話している時の彼女はいつも楽しそうだ。大げさな身振り手振りを交えることもある。まるで、私はここにいるわ! と自己主張する鮮やかな花のように。
僕はそんな彼女を見ているのが好きだった。だから、彼女のお喋りはいつも黙って聞くようにしている。その方が彼女の一挙手一投足をじっくりと観察できるから。
「お弁当も持っていきましょうね。後、お菓子も。実は私、料理を習ってみようかなって……」
庭木を揺らすそよ風が吹いて、彼女の亜麻色の髪が揺れた。どこからか飛んできた木の葉が、その頭に落ちる。
「……ついてる」
せっかくの楽しいお喋りの途中だったけれど、僕は反射的に腰を浮かして葉を取った。そして、崩れてしまった彼女の髪も直そうと、後れ毛をその小さな耳にかけてやる。
そうすると、腰を下ろす頃には、いつもとは違う彼女の笑顔がそこにあった。
「ありがとう」
わずかに頬を染め、少し呼吸が速くなっている。潤んだ目から、恥じらいに近い感情が見て取れた。
先ほどまでの笑みが大輪の花なら、この表情は咲くのをためらう蕾のようだ。
「……どういたしまして」
つられて照れ笑いを浮かべてしまう。ありがとうと言いたいのはこちらの方なのに。
「嬉しいわ」
彼女がそう呟くのが聞こえる。僕も同じ気持ちだった。
僕の婚約者はよく笑う人だ。けれど、特別な笑顔は滅多に見られない。
彼女はそのことを知っているのだろうか。……いや、多分気付いていないだろう。あのはにかんだような表情が、どれだけ魅力的なのかということに。
僕は再び口を閉ざし、彼女の観察を続ける。次はいつあの笑顔が見られるだろう、と期待しながら。