2章
健太郎は小学校のアルバムだけでなく、中学と高校の卒業アルバムも見たいと言い出した。中学校は同じだったので特に隠す意味もないが、高校のアルバムを見せるのは少し恥ずかしかった。知っている人がほとんどいないにもかかわらず、健太郎は私よりも熱心に高校のアルバムを見ている。
卒業アルバムには一人ずつの顔写真が三年生の時のクラスごとに載っており、一つのクラスにつき二ページが与えられている。このページに載っている写真と一緒に大学受験や就職活動用の写真も撮ったので、みんなおとなしい髪形や化粧をしている。私もその例外ではない。といっても私は今も昔も特に目立たないファッションや髪形なので、今と大して変わらない。口に出しては言わないが、私は二十五歳にして今も超ナチュラルメイクでいられることをひそかに自慢に思っている。トイレでファンデーションや口紅をこれでもかと塗りたくっている人を見るとああかわいそうにと思う。
健太郎は顔写真を一人ずつ丁寧に見ては、「あっこの子かわいい」とか「こいつモテたでしょ?」などとコメントを添えている。あまりにも高校生の写真をじっくり見ているので、この人年下好きなのかしらと少し心配になる。
ようやくすべてのクラスを見終えると、健太郎はアルバムを閉じた。
「でもあれだな、写真見ると結構かわいい子いるけど、やっぱり智美が一番だな」
健太郎がこんなくさいセリフを吐くことは今までになかったので、私は少し狼狽した。
「なにそれ。私よりかわいい子なんていくらでもいるでしょう。おだてても何も出ないよ」
うろたえているのを覚られないよう、できるだけおどけた調子で返す。
「誰も顔だけになんて限ってねえよ」
「えっ」
今までに見たこともないような目で健太郎は私の目をまっすぐに見つめてくる。いつもなら冗談でも言って目を伏せるところだが、今はそうはいかない。ドラマ撮影の本番が始まったかのように、さっきまでとは部屋の空気が違っている。健太郎の視線はなかなか私の目を解放してくれない。
「俺にとってはすべての面でお前が一番だって言ったんだ」
「と、突然どうしたの…」
「結婚しよう」
健太郎が緊張しているのがわかる。耳を澄ませれば彼の心臓の鼓動まで聞こえてきそうだ。だが実際に聞こえるのは、初夏のまだ控えめな蝉の鳴き声だけである。
「……智美?」
「えっ、あっ」
名前を呼ばれ、ようやく私は思考が停止していたことに気づいた。あまりにも突然なパスを受け、私はボールをキャッチし損ねていた。
事態を察知してようやく心臓が速く動き出し、少し遅れて脳が「プロポーズ」という単語をはじき出した。
「なんで、そんな突然」
ずっと真剣な顔をしていた健太郎が、久しぶりに白い歯をのぞかせた。
「ごめんごめん。まさかそこまで驚かれるとは思わなかったよ。でも」
健太郎はふう、と息をついで続ける。すでに真剣な面持ちに戻っている。
「俺にとっては結構我慢したつもりだよ。もう五年近くも付き合ってるわけだし、ずっと前から感じてたんだ。ああ、きっと結婚ってこういう人とするんだなって」
私は言葉を差し挟むことができない。次を促すようにただ軽く頷いた。
「普通プロポーズって、凝ったサプライズとか給料の三カ月分の指輪とかを用意して、お互いの記念日にするものなのかもしれない。でもそういうことはどうでもいいっていうか…ただ俺はずっと智美のそばにいたいだけなんだ。そう思ってたら我慢できなくて…普通の準備とかせずにプロポーズしちゃった。だからもう少し待ってくれって智美が言うなら俺は待つし、OKしてくれるなら今すぐにでも指輪を買いに行く」
健太郎は息を呑んで私の返事を待っている。私はようやく正常な思考回路が復活し、どうしようかと考え始めていた。
考えずとも結論はわかっている。私は健太郎と結婚したい。言われたのが唐突すぎたために初めは混乱していたが、今はすでに健太郎のさっきの言葉が私の心に沁み込んでいる。健太郎と同じように私も、この人とずっと一緒にいるのだろうなと感じたことが幾度となくある。私の場合はたまたま結婚という単語とは結び付かなかったが、結婚と言われてみると「そうそう、私もそう思っていたの」と合点がいく感じがする。
健太郎は高校の教師をしており、決して多くはないが安定した収入がある。もし私が結婚によって今の仕事を辞めることになっても、二人分の生活くらいには困らないだろう。
二人の気持ちもOK、金銭面もOKときたらあとはプロポーズを承諾して抱擁のひとつでも交わすのが普通だろう。だが私には一つだけ気がかりなことがあった。
「あの…」
私が言葉を発するのを待ち構えていた健太郎は、若干前のめりになって一言も聞き漏らすまいと耳を傾ける。
「私も健太郎と同じ気持ちよ。健太郎と結婚するだろうなって前から感じてたし、健太郎がそう言ってくれるなら今すぐにでも結婚して一緒に暮らしたい」
健太郎がほっとしたように頬を緩める。
「でも」
幸せそうな顔を見せていた健太郎は、えっまだ続きがあるの、と言いたげな表情に一変した。
「一つだけ心配なことがあるの。自分で言うのもなんだけど、私ってずっとお父さんに大事に育てられてきたでしょう。今もまだ一緒に暮らしているし。お父さんはたぶん私のことをまだ子供扱いしているし、溺愛していると思うの。ボコボコにされた健太郎ならわかると思うけど」
昔お父さんの親バカぶりを身をもって経験した少年は、小刻みに何度も頷いている。
「私が心配なのは、そんなお父さんが結婚を許してくれるかってこと。あと、結婚は許してくれても二人で住むのを許してくれるかどうかもね。私はせっかく結婚するなら二人で暮らしたいし。私たちはハタチ越えてるからお父さんが許可しなくても一応結婚できるんだろうけど、私はきちんとお父さんに納得してもらいたいの。なんだかんだで今まで散々お世話になったからいい加減にはできないわ。だから、お父さんにまず会ってもらって、それからでないとプロポーズの答えは出せない」
表情がコロコロ変わっていた健太郎は私の話を聞き終え、プロポーズ時の真剣な顔に再び戻って言った。
「そうだな。親父さんにしてみたら智美は大切な一人娘なんだし、納得もしてもらわずに勝手に結婚するんじゃあ親不孝だよな。とりあえず今度親父さん…じゃなくてお義父さんに時間作ってもらって、きちんと挨拶しよう」
「よかった」
「何が?」
「あなたがお父さんのことをいい加減に扱わない人で。これでもし、うるせえ親父なんか関係ねえ、駆け落ちするぞなんて言われてたら別れてるところだったわ」
「今時そんな奴いるかよ」
健太郎はようやくいつものようにどっと笑った。
男はそれくらい強引な方がいいって子もいるのよ、とひとしきり笑いあった後、健太郎は続けた。
「でもごめんな。普通親に挨拶するなんて当たり前なのに、俺それすら忘れちゃってた。ほんと俺頭悪い。でも頭悪いなりにきちんと挨拶して、お義父さんに納得してもらうまで絶対諦めないから。たとえ何度ボコボコにされてもな」
言って、少し恥ずかしそうにしながら健太郎はにこっと笑った。
私はやっと気づいた。今までこの笑顔を見るたびに私はますますこのひとを好きになり、ずっと一緒にいたいと感じていたのだ。きっとこれからもそれは変わらない。
「あっ」
「なによ?」
「じゃあ指輪もお義父さんの許しが出てからでいいよな?実はまだ金貯めてる最中なんだ」
申し訳なさそうに健太郎が言う。
「なによ、さっきは今すぐにでも買いに行くとか言ってたくせに」
ふたりで声を上げて笑った。