1章
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「何見てるの?」
小学校の卒業アルバムから顔を上げて後ろを振り返ると、トイレに行っていた健太郎が部屋に戻っていた。ふすまを閉めるその手は、まだ水で濡れている。
「ちょっと!手を洗ったらちゃんと拭きなさいっていつも言ってるでしょ!洗面所にタオル置いてあるんだから」
「ごめんごめん。他人ん家の物って勝手に使うのなんか申し訳なくてさ」
健太郎が後ろからアルバムを覗き込み、おお懐かしい、と声を上げる。
「床が濡れてる、って前にお父さんも不審がってたよ。その時はごまかしておいたけど、本当のこと言いつけちゃおうかなあ」
「また殴られるのは嫌だなあ。あの時は怖かった。俺にその恐怖を思い出させたくてアルバム出してきたの?」
もちろん冗談だろうが、半分本当に怖がっているのだろうか、若干顔がひきつっている。
「まさか。ただ単に見たくなっただけ」
だよなあ、と安堵して健太郎が私の隣に腰かけた。
健太郎とは4年ほど前から付き合っている。小学校六年生のときに私をいじめ、そしてお父さんにボコボコにされたのはまぎれもなくこの男である。
健太郎とは幼稚園、小学校、中学校が同じだった上、中学では三年間ずっと同じクラスだった。しかし例の事件以来健太郎は私と全く関わろうとしなくなり、私の方も話しかけづらかったというのもあって、ほとんど会話らしい会話のないまま中学校を卒業した。
健太郎は県でもかなり上のレベルの高校に、私はこれといった特徴のない中堅の高校に進学した。高校時代は地元の駅でたまに姿を見かけたが、お互いに話しかけることはしなかった。
お父さんによって断たれた私たちの関係が急激に修復、さらには恋愛という形にまで発展するようになったきっかけは、成人式の後のクラス会だった。
成人式で久しぶりに中学校時代の友達と再会し、式の後三年生の時のクラスでクラス会が催されることになった。一次会は地元の居酒屋で行われ、くじで席が決められた。その時私の隣に座ったのが健太郎だったのである。
隣どうしである以上話さないわけにもいかず、私たちは七、八年ぶりにまともな会話をするはめになった。
まずはお互いに近況を報告しあったが、これがどうにも盛り上がらない。私は高校卒業後すぐに郵便局に就職したのに対し、健太郎は大学に進学していたのである。私は大学生の事情なんてよく知らないからどんな話を振れば盛り上がるのかわからないし、向こうも社会人的な会話というものを心得ていなかった。
「大学でどんな勉強をしているの?」
「高校の英語の先生になりたいからそのための勉強をしているよ。いわゆる教職課程ってやつ」
「へえ〜」
「郵便局員ってどんな仕事?」
「事務とか受付とか。普通のOLとそんなに変わらないよ」
「へえ〜」
共通の話題というものがなく、どちらか一方の話を聞いて「へえ〜」と言うだけの繰り返しだった。
濡れた雑巾を絞っているうちに滴る水滴がだんだん少なくなり、やがて全く水滴が落ちなくなるように、すぐに私も健太郎も考え付くだけの話題を絞りきってしまった。
そういえば「へえ〜」と言うボタンを押しまくるテレビ番組が昔あったな、と私がぼんやり考えていると、彼が恐る恐るといった感じで口を開いた。
「あの……お父さん元気?」
お父さんに関する話題は彼にとって地雷のようなものだと思っていた私は、「まさか自ら地雷を踏むとは」という驚きを隠しきれず、すぐに返事を返せなかった。
「えっまさか…何かあったの?」
「ううん、元気元気!もう困っちゃうくらい元気だよ」
「それならよかった。すごく元気だったもんね、鈴木さんのお父さん」
「ま、まあね。ていうか…お父さんの話題大丈夫だったの?」
「大丈夫って?」
「いや、だから…私はてっきり、五十嵐くんに私のお父さんの話題を振ったら昔の傷が疼きだして、それでもってアレルギー症状みたいなのが出てくるかなと思ってたんだけど…」
健太郎は私の顔を見て一瞬ぽかんとすると、次の瞬間お腹を抱えて笑いだした。
「疼くって…アレルギーって…何だよそれ!鈴木さん面白いね」
盛大に笑われ、私は耳が熱くなってくるのを感じた。健太郎の笑い声に反応してこちらを見てくる人もいる。
「いや、あの…私てっきりお父さんと一緒に五十嵐君に恨まれてるんじゃないかと思ってたんだけど…」
「いくらなんでも俺はそこまで執念深くないよ。それに悪いのはこっちだし」
「でもあれはやりすぎだったよ。今更遅すぎるかもしれないけど本当にごめん」
健太郎は急いでかぶりを振った。
「そんなに謝らないで。こちらこそひどいこと言ったりしてごめん。俺も鈴木さんがまだ俺のこと怒ってるんじゃないかと思ってた」
「私だってそんなに執念深くないわよ」
それからというものの、地雷が取り除かれた草原を自由に走り出したように、私たちの会話は弾みに弾んだ。まるでそれまでの時間を取り戻そうとするかのように、お互いのことを話し合った。気づくと一次会の終わる時間が来ていた。
「鈴木さん二次会行く?」
少し離れた所から、二次会はカラオケに行きまーす、という幹事の声が聞こえる。
「私歌下手だしいいや。それに帰りが遅くなるとお父さんがうるさそうだし。五十嵐君は?」
「俺も行かない。明日の朝早いんだ。それにしても今日は鈴木さんと話せて楽しかったよ。ありがとう。」
「私も楽しかった。正直言って五十嵐君がこんなに話しやすいとは思わなかったよ」
「マジで?そんなこと言われたことないから嬉しいな」
久しぶりに沈黙が私たちの間に横たわる。幹事がまだつまらない挨拶を続けている。元クラスメートたちのほとんどがそれに耳を傾けていた。中には野次を入れている人もいる。しかし私はそんなものを聞いてはいなかった。たぶん、健太郎も。
「あのさ、携帯のアドレスと番号教えてくれない?まだ話し足りないからさ、また今度ご飯でも食べに行こうよ」
幹事のスピーチが終わり、みんなが店を出始めたとき、健太郎が早口で言った。
「うん、いいよ」
ちょっと待って、とバッグから携帯電話を取り出そうとしたが、バッグに携帯がない。その時になってようやく、だいぶ前から待ち構えるように携帯を握りしめていたことに気づいた。私は急いで赤外線通信の画面を呼び出した。
その日家に帰ってからというもの、私は携帯をちらちら見たり、受信メールを無駄に多くチェックするようになった。食事に行こうというのは社交辞令だったのではないかという考えが頭をもたげる度、仕事でミスをしそうになった。
成人式から一週間後、ようやく初めて食事に誘われた。ひょっとして成人式のときのように会話が盛り上がらないのではないかと不安にもなったが、それは杞憂に終わった。
それからもたびたび遊びに行ったり食事に行ったりして、五度目のデートの時に告白されて付き合い始めた。付き合い始めてから四年以上経つが、健太郎と一緒にいて退屈に感じたことはない。喧嘩も何度かしたが、たいてい二、三日もすれば仲直りしてしまう。なんとなく、私たちはずっと一緒にいるんだろうな、と思うことがあった。健太郎と付き合うまでに三人の男と付き合ったが、そんな風に思えるのは健太郎が初めてだった。