プロローグ
プロローグ
小学校低学年の時に、
「お父さんやお母さん、お兄ちゃんやおねえちゃんなど、家族のだれかについて作文をかきましょう。」
という宿題を出されたことがあった。そして書いた作文は、授業参観の日に保護者たちの前で一人ずつ朗読しなければならなかった。
私以外の女の子はほとんどがお母さんについて書いていたが、私はお父さんのことを書いた。
それは特別お父さんが大好きだったからではなく、私にとって「家族」とはお父さんしかいなかったからだ。
お母さんのことは、うっすらとしか記憶に残っていない。私が幼稚園で無邪気に遊んでいた頃に両親は離婚し、お父さんが私を引き取った。お母さんについて憶えていることといったら、四歳の誕生日に珍しく家族全員で夕食を食べたことくらいだ。その日、私はもちろんお母さんも、そしてお父さんすらも、とにかく笑ってばかりいたことが今でも目に焼き付いている。
離婚まで私の面倒を見ていたのは専らお母さんだったのに、私の中の「お母さん」はなぜか四歳の誕生日にしか存在しない。その時以外の記憶を掘り起こそうと、お母さんについてお父さんに訊ねても、お父さんは機嫌が悪くなるだけで何も喋ろうとはしなかった。
さて、お父さんについて書いた私の作文だが、これが先生に大絶賛されたのだ。確か、〈自分にはお母さんがいないが、別に寂しくはない。なぜなら、お父さんがいつもそばにいてくれるからだ〉というふうなことを書いた気がする。
私の朗読を聞いた後、お父さんを大切にしてね、と言って先生は私の頭をそっとなでた。いかにも子供を好きそうな、中年のその女の先生は、涙すら目に浮かべていた。その先生がよっぽど涙もろかったのか、それとも私が大人の心をくすぐるのが上手かったのかはよくわからない。
先生に褒められ、まんざらでもないという気持ちで家に帰った私を待っていたのは、私以上に上機嫌なお父さんだった。
お父さんは他の子のお父さんよりもずっと年上で、それがなんとなく恥ずかしかったから授業参観のことはお父さんに秘密にしていた。だがお父さんは机の下に隠していた〈授業参観のお知らせ〉をめざとく見つけ、仕事を休んでまで授業を見に来たのだった。
帰宅した私を見るなりお父さんは私の頭を掴み、
「今日の作文、よかったぞ。どれ、もう一回見せてみろ」
と笑顔で私に迫った。こんなに嬉々としたお父さんを見たことがほとんどなかったので、私はきょとんとして、素直に作文を渡してしまった。
その晩、お父さんは普段あまり飲まないビールをたくさん飲んだ。私はあまり親しくない親戚のおじさんを見るような目で、赤くなった頬を眺めていた。するとお父さんは誰に言うでもなくぽつりと呟いた。
「智美にそう言ってもらえるようになったのは、あいつと別れたおかげかもな」
聞いてはいけないことを聞いてしまった気がして、私は喉を鳴らしてオレンジジュースを飲みほした。
お父さんが私の面倒を一生懸命見てくれたのは、もちろん私に好かれるためではなかっただろう。むしろ時としてこちらが迷惑に感じるほど、お父さんは必要以上にいろいろとしてくれた。
「健康な身体はいい食事からだ」
とかなんとか言って、栄養バランスのいい食事を毎日作ってくれた。中学校からは給食ではなくてお弁当だったので、見た目・栄養・味の三拍子揃ったお弁当を作って私に持たせた。
お弁当の時間、
「これお父さんが作ってくれたんでしょ?すごーい」
と友達に言われる度に、私は嬉しいような恥ずかしいような、何とも言えない気分になった。
ある日夕食を食べているときに何気なく、
「今日のお弁当すごくおいしかったよ。友達からの評判もよかったし。色あいとかもきれいだった」
と言ったことがあった。
それを聞いたお父さんは、くぐもった声で
「そうか」
とだけ答えた。だが私は、お父さんが顎に生えた髭を手でなでているのを見逃さなかった。お父さんが、照れたときに見せる癖だ。
次の日、さあお昼だと弁当箱を開けると、おせち料理顔負けの超豪華な料理が弁当箱狭しと詰め込まれていた。昨日褒めてくれた友達もそれを見て、
「きょ、今日もすごいね・・・」
と苦笑いするほかなかった。
それ以来、私は二度とお弁当のことでお父さんを褒めないことにした。
お父さんは以前高校の英語教師をしていたが、離婚してしばらく経ってからは県の教育委員会で教師の卵を指導するようになった。お父さんの話によると、高校で教えていたころの方が断然忙しかったらしい。給料のことはよく知らないが、
「今も昔も安月給だ」
とよくこぼしていたので、私はできるだけ家計に響くようなことはしないように気をつけた。
家事などは二人で分担してやっていたし、授業参観や運動会には必ず仕事を休んで駆けつけてくれた。他人に言わせれば「とてもいいお父さん」だ。しかし私にしてみれば、必ずしも良い面ばかりではなかった。
小六のころ、両親が離婚したことやお父さんが他の子のお父さんよりも老けているという理由で、クラスの男子にいじめられたことがあった。私はお父さんを心配させたくなくて黙っていたが、担任の先生がお父さんに電話でいじめのことを話してしまったのだった。
電話を切ると、お父さんは
「誰にいじめられているんだ?」
と低い声で私に訊いた。いつになく真剣なお父さんに圧倒され、私は主犯の男の子の名前を告白してしまった。その子は幼稚園も一緒だった子で、お父さんも名前だけは知っていた。
「あいつか…」
と鬼の形相でつぶやき、お父さんは卒園アルバムでその子の家の住所を調べるとすぐに家を飛び出していった。
お父さんがただならぬ殺気を漂わせていたので心配になり、私も少し遅れて家を出た。
幸いその子の家はそう遠くなく、昔何度か遊びに行ったこともあったので、私はすぐにお父さんに追いつけるだろうと思っていた。だが私がその子の家に着いたときは時すでに遅く、お父さんにボコボコにされた男の子が地面に転がっていた。
人形のようになってしまったいじめっ子の両親が、まだ鼻息を荒くしているお父さんを必死で抑えつけていた。
「お父さん!一体何してるのよ!」
開口一番私が怒鳴ると、
「おう、智美。こいつにもお前の痛みを思い知らせてやろうと思ってな」
と大真面目な顔をしてお父さんは答えた。
こんな奴が教師を育てているからきっと日本の教育はだめなのだろう、と幼かった私は悟った。私は馬鹿な男から視線を外し、男の子の両親に謝って事情を説明した。すると今度は彼らが男の子を怒り始めた。男の子のお父さんは、女の子をいじめるとは何事だと怒鳴り、お母さんは泣きながらその子をビンタした。男の子の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
結局男の子は私のお父さんにやられたせいで入院一日、全治一週間の怪我を負った。しかし私とお父さんはその子の両親にひたすら謝られ、うちは治療費もほとんど払わずに済んだ。
後日両親だけでなく、いじめていた男の子も私に謝りに来た。むしろこっちが謝りたい気分だったが、お父さんは
「俺はまだお前を許したわけじゃないからな」とわけのわからないことを言っていた。
それから私に対するいじめはなくなったが、代わりに
「あいつの親父は恐ろしい」
という噂が私の学年じゅうに流れ、みんな私に対してなんとなくよそよそしい態度をとるようになってしまった。
確かにあんなに怒ってくれたのは少し嬉しかったが、それにしてももう少し大人らしい対応はなかったものかと今でも思う。
中学、高校を経ても過保護なバカ親っぷりは変わらず、何度も私を困らせてくれた。父親が厄介を起こす上にお母さんがいないという家庭環境で、よくグレなかったものだなと自分で自分を褒めてあげたいくらいである。
変な父親に育てられた哀れな私だが、私自身は至って真面目な、普通の人間に育つことができた。単に自覚がないだけとかではない、と思う。
とりあえず今まで生きてこられたことに関してはお父さんに感謝している。