side ■の話
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某所。
「お帰りなさいませ、お嬢様。…御一人、でしょうか?」
「まぁね。兄さんはなんか学校の授業だってさ。今日は一人」
「左様で御座いますか。すぐにお夕飯の準備を」
「要らない。それより父さんは?」
「当主様なら、いつもの様にアトリエかと思われますが」
「そう、ありがとうね」
少女は一人、仄暗い廊下を進む。
光と影、陰と陽。明と暗。対極に位置する両者が境を曖昧に共存する美しい廊下だった。
古い邸宅だ。しかし廃れた様な雰囲気ではなく、どこか郷愁を感じさせる様な、或いは何か厳かな雰囲気を纏っている様な不思議な空気が流れている。
少女はこの雰囲気が懐かしい。当然と言えば、当然なのかもしれない。
少し前までは此処に住んでいたのだから。寧ろ懐かしいと感じる自分に、少女は少し驚く。
「お嬢様お帰りでしたか!良ければ調子を見て行かれますか?」
「ありがと。でもまた今度にする」
「ではお食事だけでも」
「…持って帰るから詰めといて」
「おや、お嬢様!もしかして補修にいらっしゃったのでしょうか?」
「それもしたいけど、また今度」
屋敷の中には何人もの人間が居た。
その多くは、この家の使用人に過ぎない。
しかしもう何年も彼女や、彼女の家族の面倒を見て来た者達だ。
ともすれば、少女の家族よりも少女の事を知っている。
そして少女が足を止めたのは、ある襖の前だった。
たいして飾り付けがされている訳でも、何かが描かれている訳でも無い。至って普通の襖。
だけれども、少女は知っている。この襖が境界線である事を。
神社における鳥居の様に、或いはもっと身近に扉の様に、これは一つの境界線なのだ。
「……玉記です。父さん」
襖の前で、少女は己の名を告げる。
そうして一瞬遅れ、入りなさい、と優しい声が聞こえた。
少女が襖を開く。
瞬間、漏れ出てくるのは静かな匂い。紙が集まった匂い、時にはインクの匂いとも形容される独特の匂い。明らかにイメージ出来る程の本の匂いが、そこには充満していた。
「お帰り、玉記。一人で帰って来るのは珍しいね」
「電話でも話したけど、兄さんは今来られないの。だから、しょうがないから私が来ただけ」
「それは寂しい事を言うね。もうこの家に愛着は無くなってしまったのかい?ほら、君が作った廊下はそのままにしてあるというのに。君がいつ帰って来ても良いようにね」
落ち着いた男性の声だった。静かで、優しく、柔らかな声。
悪意なんてこれっぽっちも持ち合わせていない、童話の世界の住人の様な声。
「そうだね。でもやっぱり灯りも劣化するから、暫く見ない間に駄目になってた」
「そうか。なら今度からはもっと頻繁に帰って来ると良い。手直ししたいだろう?」
「…………そうだね」
少女はこの男が苦手だった。
どれだけ話しても、全て彼の思うがままに進む感覚。いつの間にか、彼の思う筋書きの様に動いている様な、そんな気味が悪い感覚に襲われるのだ。
現に今も話を逸らされ、調子を狂わされ始めている。
「まぁ良いさ。そうだね、来てくれてありがとう玉記。父さんは嬉しいよ。でもどうしようか、この話を聞くのは君では余り意味が無いんだよ」
「何それ、どういう意味?」
「折角来てくれた所、悪いんだけどね。話はまた今度にしよう。ほら、君は明日も学校だろう?」
「ちょっと、態々急いで来たのにそれは無いんじゃないの」
ふーむ、と男が言う。
少女とて来たくてこの場所に来たのではない。訪れたくて訪れたのではない。
男が言う様に少女には明日も学校があり、どうせ今晩中には戻らなければいけないのだ。
にも関わらず、何も教えて貰えないというのは納得が出来ない話である。
「でも、聞いたってしょうがない事だよ?特に君が何か出来る、という訳じゃ無いしね。なら今日はゆっくり過ごしていった方が良いと思うけどね」
「………だから、それがどういう意味かって聞いてるんだけど?」
少女の影が、揺れる。
いや影自身が動いたのではない。影を生み出していた灯りが動いたのだ。
部屋という空間を照らしていた電球が、ちかちかと発光する。
机の下にあった影が一層色を濃くし、逆に少女を照らす光は強まる。淡く輝く少女の周囲、そして影の線引きが明確に生まれる。
明らかに、異常な景色だった。
「ふぅ、ごめんごめん。参った、降参だよ。父さんが悪かった。父さんだって君と喧嘩したい訳じゃ無いし、それに喧嘩する様な事でも無いからね」
「じゃあ教えて、用って何」
「君は僕に似たのか、母さんに似たのか分からないね。これが反抗期の娘なのかな?僕は反抗期とか無かったから、なんだか新鮮だよ」
「そういうの、いいから!!!」
怒気を込めた言葉も、彼には届いていないのだろう。
負けを認められたにも関わらず、やはり主導権を握れない。
実の父親に対して、少女が苦手意識を抱くのはこうした雰囲気が原因なのだ。
「うん。本当になんて事は無いんだよ、ただあの子が学校で倒れたと聞いてね。しかもここ一週間で二度も。父親として彼の体調が大丈夫かどうか気になっただけだよ」
「………は?それだけ?」
「うん。それだけ。だから君が聞いたってしょうがないって言ったじゃないか」
「じゃあ何で最初っからそう言ってくれないのよ」
「言ったけど、君がムキになってるみたいだったからね」
確かにそうだ。
この男は最初からそう言っていた。ただ自分では意味がない、というのは少女が違う意味に受け取っただけであり、おとこの言動は一貫している。
こういう話は、言わないと分からない部分があるので仕方がないのだが、それでも思わせぶりな態度が少女を惑わせたのだ。ある種のバイアスがかかっていたという理由もあるにしても。
「『また近く顔を見せに来るように』なんて電話越しで言われたら、また何かの用なのかと思うに決まってるじゃない。変な事言わないで」
「それの何がおかしいんだい?」
「今までがそうだったから、普通過ぎておかしいの」
「ふーむ…父親というのは難しいね」
本気でそう思っているのだから、この男は恐ろしい。
人は誰しもその内を隠すものだ。心の中、というものは究極の個人空間であると言ってもいい。
特に異能力者にとって、精神をどうにかされるというのは致命的な事だ。異能とは異能力者のパーソナル、精神の異能への影響は計り知れない。
なのに、この男は何も無い。
素直だとか、そういう話じゃない。何も考えていないのでもない。
ただ、そうなのだ。
「おや、どうかしたのかい?」
「………何でもない」
彼はただそうしているだけ。周囲が勝手に勘違いし、周囲が勝手に彼を思う。
彼という物語を、人間は勝手に見ているだけ。
「じゃあ用も済んだみたいだし、帰る」
「母さんには会っていかないのかい?もうすぐ帰って来る頃だと思うけどね」
「早く帰らないと明日の準備が出来ないし、やらなきゃいけない事もあるから」
「じゃあ食卓だけでも囲んでいかないかい?そろそろ夕飯だし」
「いいよ、急だったから家にもう作り置きがあるし」
今日は平日だ。彼女は彼女のルーチン通りに既に食事の用意をしている。
先程は使用人の手前持って帰ると言ったが、小食気味の彼女はそこまで食べられない。
当然、家に作っている分も彼女が腹八分目で食べられる量だけだ。
「そうか………残念だ」
「母さんが帰って来るまで待ったげなよ」
「うん、そうしようかな。じゃあ、気を付けて帰るんだよ。最近物騒だしね」
「………じゃあ、ありがと」
少女はこの男が、父が苦手だった。
愛には様々な形がある。
中でも家族愛というものは厄介だ、逃げられない鎖に似ている。
いくら少女が父を苦手としていても、それでも家族という繋がりは残る。
少女も、父が嫌いな訳では無い。
好きか嫌いかで言えば好きな方だろう。ただ苦手なものは苦手なのだ。
「ああ、そうそう」
「何?」
アトリエから出る為に襖に手を当てた直後、背中から声がかかった。
「近々、草日の子も荒日学園に転入するらしいね」
「………は?」
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