その五(完)
このまま帰ろうか。
そんな事も考えていた時に、ふと門の向こう、重たげなドアの開く音が聞こえて、思わず身を縮こまらせた。
あら。健くん?久し振りじゃない!どうしたの!
しょっちゅう遊びに行っていたY子の家の優しい美人のお母さんが、微笑を湛えて私を見ていた。
やった!
覚えていてくれた!
その表情には一切の嫌悪も困惑もなく、まるで昨日の今日会ったみたいに、私を受け入れてくれていた。その微笑みはまさに菩薩のようにたおやかで優しかった。
私も自然と笑みがこぼれて、ついさっきまで考えていた作り話を口にした。
おばさん久し振りです!
隣の市に住む親戚に会いに来たついでに、寄り道してY子が元気にやっているか様子を見に来ました!
あいつはいますか?
一息に話して、私はY子のお母さんの相変わらず美しい、けれども憂いのある顔を見つめていた。
今からお見舞いに行くのよ。健くんも良かったら来て。
車の助手席のドアを空けて手招きするY子のお母さんは、黄昏の中で、かつてよりも疲れて見えた。
ちょっとね、体調を崩していてね。風邪をこじらせたみたいなの。
十五分程の道中だったろうか、車中の言葉も少なく、胸に手折った花を抱えたまま私は無言でヘッドライトの照らし出す淡々とした道を見つめていた。
駐車場だけでも迷子になりそうな大きな病院。
病室には顔色のすぐれない彼女がいた。
随分と痩せていた。
かつての日焼けしてムクムクしていた面影は薄かった。
よう、久し振り。
虚ろな面持ちで窓の外を見ていたY子は私を見てびっくりしていた。
健くんじゃん!何でここにいるの!
ぱっと花が咲いたような笑顔は昔のやんちゃなままであり、かつてのY子を彷彿とさせた。
私は安堵した。
他の事がどうでもよい位に、安堵した。
毛布やら着替えやらをベッドの下の収納ケースに取り替えるお母さんの側で私達は上手く話せぬまま、面会時間は過ぎていった。
なんかよく解らないけど、来てくれて有難うね!
今度そっちにも遊びにいくよ!
おお!きっとだぞ!約束したんだからな!
それからこれ。早く元気になれよな!
Y子の胸に押し付けるように、持ってきた紫の花を渡して病室を後にした。
チラと振り返ると、Y子は少し頼りなげな笑顔で私とお母さんに手を振っていた。
帰りの車内でお母さんは何度も、来てくれて有難うと言った。
Y子も今日は元気だったから本当に良かった。
お母さんの寂しそうな美しい横顔を眺めながら、その陰影の深さに言葉が見当たらなかった。
私はY子のお母さんが家に上がってご飯を食べて行くように勧めてくれたのを頑なにお断りして、帰路へ就く自転車にまたがった。
道中の小さな寂れた公園で横になり、ふと思い出してリュックサックから花火を取り出した。
一本着火して、燃え尽きるとまた一本。
花火がシュウシュウと威勢よく火花を撒き散らす様を、どこかぼんやりとした虚脱感におおわれながら、黙って見つめていた。
日曜の夕方家に帰り、父と母に涙ながらに激しく叱られた。
私は素直に頭を下げて謝った。
はい、はい。御手数をかけまして誠に申し訳ありませんでした。有難うございました。
警察に無事見つかった旨を連絡する父の疲れた背中を見て、私の小さな家出が想像以上の大事になっていたのを知った。
翌日からまた日常が戻ってきた。
筋肉痛に痛む足で学校へ続く青葉の下を駆け抜ける。
少し背が伸びたのだろうか、不思議と世界が広く柔らかくなったみたいに思われて、今までみたいに先輩やクラスメートにちょっかいを出されてもあまり興奮しなくなった。
皆は私が急に穏やかになったので、訝しげに首を傾げていたが、やがて自然に溶け込んでいった。
秋になり、Y子のお母さんから手紙がきた。
悲しい結果に終わったけれども、Y子の人生は無駄ではなかった。あの夜のY子の笑顔が今も忘れられない。どうかこれからも元気で心の片隅にY子を覚えていて下さい。
手紙を読み終わり、窓の外に輝く星を見上げた。
星が眩く滲んでいた。
今でもあの日々を思い出すと、胸が変に甘酸っぱく苦しくなる。
今日も電車の車内に線路を走る音が淡々と響く。
大人しい二人は今日も姿を見せていない。
家出。それもよし。
不登校。それもよし。
ひきこもり。それもよし。退学。それもよし。
働く。それもよし。
人生は短いようで長い旅である。
一時、レールから離れて或いは現実の、また或いは心の小さな旅に出るのは、きっと無意味ではない筈だ。
やがてレールに戻るのか、それとも道なき道を歩き続けるのか。何処かへ辿り着けるのか、道半ばで倒れるのか。
誰にもわからない。何が正しいのかも、わからない。
ただ、誰もが命の炎を燃やしながら、何処かへ向かわなくてはならない。
休んでは歩き、また疲れはてては休み。また歩く。
生ある者にはそれしかないのだ。
車窓の外に流れる木々の青葉は初夏の風にきらめいている。その青葉のひとひらひとひらが、ただただ風にそよいで、命の道行く私達誰もに優しく手を振っているように思われた。