その三
五月の下旬。時は夜十一時。
静まり返った初夏の夜は星が輝いていて、まだひんやりとしていた。
こんな夜更けに自転車に乗った経験はなかった。
街灯の光から一寸先もよく見えない。
ただただ静寂である。
胸が変に苦しかった。
走り出してから十分も経たぬ内に、周囲を覆う暗い世界の不安が心の片隅を侵食しだしていた。
一気に駆け抜けた近所のつまらぬ公園さえ、なにかいたらどうしようか、ほら、そこの闇に人影がうっすらと見えるような、等と一々びくつかざるを得なかった。
静かな街灯の光から外れた闇は常に怪しくどこかしら不穏な気配を漂わせているように感じられたのだ。
こんな事でどうする!
こんな弱気だからみんなにバカにされるんだ!
余りに早くも不安に怯みつつある自身の心を、やけくそに息を切らして走りまくる事でなんとかごまかしていた。
一時間、二時間。
疲れを覚えると共になかなか進まぬ距離に、早くも心が萎え始めてきた。
ようやく十キロ程進んで、大きな県道に出た。
このまま道に沿って北上すればいい。
けれども予定が大分狂っている。
朝までには辿り着けるかな、等という甘い机上の空論は、繰り返される急勾配の登り坂にきれぎれな呼吸と共に脆くも打ち砕かれていた。
険しい登り坂に加えて、往来する大型のトラックやらダンプカーやらの数が半端ではなかったのである。
歩道のない道で服が擦れる至近距離を、一本のタイヤだけで自身の体と違わない化け物みたいな車がエンジンの咆哮もけたたましく次から次へと私を追い越して行くのである。
馬鹿野郎、あぶねえぞ、こら、殺されたいのか!
化け物じみたトラックの窓からすれ違い様に浴びせられる幾度もなき罵声に震え上がり、いつもみたいに刃向かう気力も失せていた。
一撃食らったら即死は免れない。
よろよろ走りながら、声にならない悲鳴が体内から幾度となく涌き出て、肉体もそうだが、それよりも精神をより激しく消耗させていった。
永遠に続くのかとさえ思われた苦しい夜道もやがて紺碧の空の端からゆっくりと陽がでてきて、強張った闇が少しずつ解きほぐされてゆく。
濃紺からやんわり明るい気配になり、ようやく見つけた県道沿いのコンビニの広々とした駐車場で一息ついた時は、見上げた赤く眩しい太陽が未だ半身さえも見せぬまま、その雄大極まりない輪郭を揺らめかせている。
今まで毎日のように当たり前の風景の一環としてあくび混じりに見ていた朝日とはなにもかもが違う。
それは大袈裟ではなく、あたかも神の降臨の如くに神々しく有り難く思われた。
私は夜道を走り続けた道中の甚だしい疲れも忘れて思わず涙ぐみながら、ゆるゆると上るお日様に、神よ仏よ太陽よありがたやありがたや、等とまるでごみ捨て場に佇む蝿のように背を丸めてしゃかしゃかと手を合わせて動けなくなる始末だった。
いつまでそうしていただろう。
あんちゃん大丈夫かよ?これでも食いな。
肩をバシッと叩かれて、はっと我に帰ると、ガタイの良い日焼けしたおじさんが私にコンビニのおにぎりと缶コーヒーを渡して自分はサッサとトラックに乗って走り去ってしまった。
私はお礼の一つも言えぬまま、ぼんやりと走り去るトラックの背中を眺めながら、格好いいなぁなどと感動していた。
世知辛い世の中にも人情はあるんだなぁ…。
心の中で感謝を繰り返しながら食べるおにぎりは未だかつてない美味さだった。
おにぎりを食い、コーヒーを飲んでひと休みしている内に、メラメラと体内に活力が沸き上がってきた。
若さとは限り無く溢れるエネルギーである。
今なら三日は寝たきりになるであろう疲労も、一瞬にして吹き飛んでしまった。
よし、行くぞ!
私は家を出るときよりも軽々と自転車を勢いよく漕ぎだした。