無知無能の解釈
全知全能なんて人間程度が証明できるものでもない。たとえあり得たとしてもそれは持つものにしか伝わらない狂気で、人間程度に及ぶものではない。
我々が想像しうる全知全能は所詮、人間の想像の範疇にしかなくて、我々が全知全能を手にしたところで一〇〇〇〇分の一も使いこなすことはできないだろう。それだというのに、完璧を信じるのだから救えない。
全知が何であるかなど、それはわかり切っているはずだ。この世に現存する全ての知識の集合。それは正解不正解も関係なく、全てが集まる。全知は正解を探る。それはその中に答えがあると理解しているから。
全能は余りにもあやふやなものだ。だが、知らなければならない。全知にてその全能を解明できるだろうか。いや、それは不可能だろう。我々の想像する中で、全知は収まるのだろうが、全能だけは人を遥かに超えているのだから。
だが、一つ、全能が叶えば逆説的に全知は揃う。
全知では不完全、ただ全能が叶いさえすれば、全知もまた全能に内包される。
使いにくいテーマだ。殆あきれ返る程に。こんなものを主人公に持たせては、等身大になりもしない。
何より、その苦しさは理解できない。ただの想像でしかなくデメリットがない様にも思えてしまう。だから、主人公にはなれない。
それを主人公にしてしまうと、葛藤も何もなく、平坦なものになる。知っているからこその苦しみに喘ぐものか。いや、全能があってはそれに喘ぐことすら不可能だ。
苦悩なく、敵もなく、つまらなく。
だから、一定のルールは存在する。
何せ、火を手から出せたり、雷を発生させたりなんてすればそれはもはや人間ではないのではないか、ということだ。
単純に全知全能の程度を決める。それが人間程度に収まれば、使いやすさは存外上がるものだ。
下手な文章ですみません。本当に反省してます。