線と点上のハルマゲドン
吾輩は漫画家である。名前はまだ無い。……嘘だ。名前はある。「ドリーム☆叶」という、もし大通りで叫んだとしたら、通り過ぎる大半の人間には怪訝な顔をされるペンネームが、私には付いている。
そんな数秒で考えた事が丸分かりな名前を背負う私は、今までにかつてない程神妙な顔をして手元の原稿用紙を、かれこれ十分程凝視する男__斎藤さんという私の担当編集者だ__の次の言葉を待っていた。午後三時のファミレスは私たちと同じように会議をするスーツ姿のサラリーマンや、パソコンに向かって作業する女性などで点々と席が埋まっている。昼時よりも大分静かだが、今だけはこの緊張感で張り詰めた私たちの空気を誤魔化す為にバックミュージックが欲しいと思う。
そう思っていた矢先、斎藤さんは、重い口をゆっくりと開いて、遂に言葉を私に投げかけた。
「叶先生……、このままじゃ、本当にやばいかもしれません」
来た、この短い漫画家人生で最も聞きたくなかった言葉の一つだ。
「それは、その。……打ち切り、という事でしょうか?」
「ええ、本当にこれだけは言いたくなかったんですけど……そういう、事、ですね」
斎藤さんが告げた言葉に、注いだばかりのジュースの入った冷たいグラスを持つ私の手が、さらに一層冷たくなっていったのが理解出来た。
打ち切り。それは漫画を描いて生計を立てている人間が一番体験したくないものの一つだろう。(その他には怪我や病気、児童ポルノ所持で逮捕などが挙げられる)打ち切りの理由は様々で、作者の体調不良の為だとか、雑誌の廃刊だとか、不祥事だとか。でも、誰しもが一番嫌で、最も体験したくないものは。
「……まあ、ここ数話はアンケートの結果も芳しくなかったですもんね」
単純に内容がつまらない、読者の需要と一致しない、その為人気が無くなったから、というのが私の漫画の打ち切りの理由に最も当てはまるのだ。
あまりにも無慈悲な現実を突きつけられて、私は思わず声を荒げてしまう。
「わ、私、どうすれば! このまま惨めに打ち切りという現実を受け止める為の沈んだ心の準備を始めなくてはいけないんですか?」
「待って、待って。それを一緒に考える為に僕は今、先生と一緒にこの場に居るんですよ!」
「た、確かに……」
声を荒げた私に対抗するように声を張り上げた斎藤さんに、私が返した言葉は段々と語尾が小さくなっていった。周囲からの目線が一気に私たちに集中し、羞恥で少し顔が赤くなった。
斎藤さんと私の、二人だけの対策会議は、何時間と経過してグラスの中の氷が全て溶けてしまっても、平行線で進んでいった。
「やっぱり、最近の展開が王道をいく……悪く言ってしまえばマンネリ気味だから、読者も離れて行ってしまっているのではないのかと僕は思うんです。だから、この状況を打破する為には少しばかりのテコ入れは必要だと考えます」
「そ、そんな簡単に言われても困りますよ! だって、私が考えている展開が、全部潰れますよね、それって……」
「先生の苦悩や批判は承知の上です。この『夢キラ』は僕にとっても、先生にとっても、初めての、記念作品です。こんなところで終わらせたくないんですよ。僕は、この作品の初めてのファンなんですから」
斎藤さんは私の手を固く握り、これ以上ない程きらきらした瞳で私の顔を見つめる。その表情は途轍もない情熱に溢れている、そんな気がした。打ち切りを目の前にして彼と私のこの差は一体何なのだろう。
「さ、斎藤さん。そんな、そんなに作品の事を思って! ……分かりました! 私もこんなところで連載を終わらせたくありません! 心を入れ替えて、読者の誰もがビックリ仰天するようなテコ入れをしてやります!」
握られた手を握り返して、声高々に宣言した。斎藤さんはその言葉にうんうんと何度も頷き、ファミレスにいる人間の視線はもう一度私たちの席へ一気に集中した。今度ははっきりと「はた迷惑な奴らだ」という意思を感じる事が出来て、私は声を上げた事を少し後悔する。しかし、己の魂を込めている作品と、私は向き合う必要がある。
私の作品の話をしよう。タイトルは『夢☆キラ~学園の王子様~』という私のペンネーム並みに安直なものだ。ジャンルは少女漫画。主人公である平凡な女の子、天野かなえが、楠学園一のイケメンと噂される少しナルシスト気味の真田一樹に一目ぼれされ、ライバルや幼馴染を巻き込みながらとある学園で過ごす、正に王道を行くラブコメ作品だ。主人公の名前と己のペンネームの名前が同じな事に突っ込んではいけない。私は夢見る乙女なのだ。アガサ・クリスティーみたいなものだ。決して夢女子ではない。
「最初は勢いも良かったんですけどね……きっかけはSNSで話題になった作品ですし、固定ファンも多くついていましたし。しかし、ここ最近は同じような展開が続いていたじゃないですか。それで、読者は離れて行っているのではないでしょうか」
「そ、そんなにずばりと一番分かっている事言わないで下さいよお」
斎藤さんが告げた言葉はネットの海で散々言われてきた事なのだ。一番心の柔い所を的確に突き刺すナイフのようなものだった。
「私はどうするべきなんでしょうか……? 新キャラ登場とかですか?」
「それもありだと思いますけど、一番は、他の作品には無い個性を出していく事ですね……突然主要人物が死んでしまうとか」
「ええ……昔のケータイ小説並みに唐突ですよ、それは」
「あっ、勿論これは一例ですよ。こういう例もあるってだけですから! ほら、最近出てきたキャラは後輩系が多いじゃないですか。だから、そこから脱したキャラ造形が必要かもしれないですね。あとは、続きが気になる展開ですよ。先生には画力と、なにより構成力があると、僕は思っていますから、多少無理やりな展開でも読者は付きますよ」
「そう、上手くいけば良いんですけどね」
これからの事を考えると、ゴールの見えない迷路で彷徨っているような錯覚に陥り、視界が真っ暗になる。そんな私を元気付ける為か、斎藤さんはいつもの三割増しにテンション高めに私の肩を叩いた。
「そろそろ時間ですし、僕にも残っている仕事がありますから、打ち合わせはこの辺りで終わりですけど、次回までに、何かしら考えてきて下さると嬉しいです。あと、まだ打ち切りが決まったわけじゃないですからね! まだ、いくらでも立て直せます! 有名漫画でも打ち切りの危機に陥って、そこから挽回した作品なんて、幾らでもあるんですから! 一緒に頑張りましょう!」
無理矢理笑顔を作って私を励ます斎藤さんの存在が眩しい。後光が差して見えるような気すらした。
この世の地獄の中心ような打ち合わせを得て、現在私はとぼとぼと徒歩で自宅兼作業場のワンルームマンションへと帰ったのだった。
(新キャラ、新展開、登場人物の死、かあ。一番突拍子もないのは死ぬ事だけど、そんな事って……)
お先真っ暗な私の脳内では、先ほど斎藤さんに告げられたテコ入れ案が我こそは採用されようと血を血で洗う戦いを繰り広げていた。
今の私は、まだ、家に帰った先で、想像を絶する体験をする事になるとは知らないままだった。
2
「遅かったな、かなえ」
打ち切りという、漫画家が絶対に倒せないラスボスを前にして、少し涙ぐみながら帰宅した私を迎え入れたのは、たった一匹の同居人である愛猫のからし……ではなく、聞き覚えの無い男性の声だった。まさか、泥棒? こんな堂々とした? まさか今は犯行真っ最中? 強盗殺人に罪のレベルが上がるのか? と全身の血液が急速に冷たくなって、玄関で立ちすくんで動けなくなってしまった私とは裏腹に、声の主は続けた。
「どうした? 早く部屋に戻って来いよ。疲れてるんだろう?」
一体この部屋で何が起きているんだと冷や汗をだらだらと流してしまう。何だ、今の言葉は。まさかとは思うが妄想激しめな私のストーカーが私の合鍵を見つけて部屋へと入り込んだのか? 私を迎え入れる言葉を発したという事は、強盗ではなさそうだが、強盗じゃなかったらそれはそれで滅茶苦茶怖い。そんじょそこらの心霊現象よりも遥かに恐ろしい。真に恐ろしいのは人間とは正にこの事である。
しかし、恐怖に立ちすくんでいるだけでは何も自体は解決しない。今の私に必要なのは勇気だ。もしかしたら打ち切りの危機に絶望した私が聴いた幻聴かもしれない。もし本当にやばかったらすぐに部屋を抜け出して警察に通報すれば良い。そう思って身体を奮い立たせ、私は声が聞こえた部屋へと大股で足を踏み入れた。
「ええい、ままよ!」
そう実際に声に出していったのか、心の中だけに留めたのかはよく分かっていないが、それでも私は勢いよく扉を開いた。
「随分と遅かったな。体調でも崩して玄関先で倒れたのかと思ってたぜ」
そう、死地に向かうようなテンションで居た私とは正反対に、目の前の、我こそがこの部屋の主とでもいうように寛いでいる知っているはずの無い男が、部屋には居た。正確には、私がいつも漫画を描く時に座っている、なけなしの給料を叩いて奮発して買った良い椅子にくるくると回りながら座っていた。
「ど、どちら様です……?」
訳の分からない事態に対して、その言葉を発する事が出来た私は本当に偉いと思う。きっと普通の人間なら言葉を発する事も出来ないと思うのだ。そして、椅子に座っている男は、こちらをちらりと見やって、三つ目の言葉を私に投げた。
「おいおい、疲れて俺の事を忘れたのか? かなえ、お前が一番考えている顔だぜ。よーくその頭で考えてみるんだな」
「え、待って。貴方みたいな知り合いは、私には居ない、はず……」
何を隠そう私はオタクの漫画家。SNSのフォロワーは多けれど、現実の友人は片手で数えられる程しかいないのだ。そして、その少ない友人の枠に目の前の男はいない。そもそも私に男友達はいない。
しかし、一歩後ずさりして現実逃避をし始めた私を、逃さないと態度で示す様に、男はずいとMK5(まじでキスする5秒前)のように顔を近づけてきた。パーソナルスペースの狭すぎる外国人のような男だ。そして、そこまで顔をまじまじと見つめざるを得ないとなると、鈍い私でも、確かに彼の顔に見覚えがある事に気が付いたのだ。
「さ、真田一樹……?」
絞り出した声は、現実ではあり得ない事に対して確かに震えていた。何故なら、今告げたその名前は。
「そう、その通り! ようやく調子を取り戻したみたいだな。いつもみたいに『かずくん』って呼んでくれても構わないんだぜ?」
目の前の男__私の描いている漫画に出てくる男が現実に居たら確実にこんな感じなのだろうといった風貌の。自称真田一樹__は、先ほどのファミレスの斎藤さんに負けない程のきらきらとした顔でこちらを見つめてきた。
「え、なんで? 良く出来たコスプレイヤーさん? 不法侵入? そ、それにしても再現度がすごいなあ……」
先程まであんなに警戒していたのに、彼の毒っ気のない笑顔に少しだけ、ほんの少しだけ絆されてしまって、私は考えや警戒心を言語化する能力を失っていた。
「かなえ、お前は馬鹿か。いつも見ている俺の顔を忘れたか? 正真正銘、どっからどう見ても本物の真田一樹だよ」
「え、だって、髪も現実ならあり得ない色なのにウィッグっぽくないし……制服の再現度もはちゃめちゃに高いし、何処を切り取っても滅茶苦茶クオリティが高いよね……やってる事は不法侵入だけど」
きっと、彼は私の漫画の熱狂的なファンなのだろう。だから私の自宅の住所を調べ、突然訪ねてきて、真田一樹というキャラクターになりきっているのだろう。というか、そう思ってないとやってられない。
流石にどんなにファンでも犯罪は駄目だ、警察に通報しなくては、と考えて、顔を顰めながらその言葉を言うと、目の前の彼はやれやれとでも言うように肩を竦め、溜息を吐いた。
「不法侵入? 俺のかなえはそんな事言わない。ほら、こんなところに居ないでさ。さっさと帰ろうぜ」
……彼の言っている事が理解出来ない。やはり、妄想激しめな私の行き過ぎたファンの成れの果てのストーカー説が有力なのだ。一刻も早くここから抜け出して警察に通報しなければならない。そう思って、部屋のドアノブに手を掛けた時だった。
「どこに行くんだ? 帰ろうぜ、俺たちのいつもの場所に! なんでだか知らないけど、かなえは俺の事を偽物だと疑ってるのか? なら、俺が正真正銘の真田一樹だって事、照明してやるよ!」
そのまま、彼は私の腕を思い切り掴む。容赦のない力で、掴まれた箇所が痛い。
「い、痛い! 何! サインならあげるから! 離して!」
突然の振る舞いに、少しだけ薄れていた恐怖心がまたむくむくと大きくなった。一体これは何だ? 証明とは、彼は一体何をする予定なんだ!?
「かなえのサインなら何枚でも欲しいけど、今はそれどころじゃないな! さ、帰るぜ!」
私は思わずこのままどこかに誘拐、或いはこの部屋で監禁されるのだ、と思って目を固く瞑った。しかし、現実の自称真田一樹は、私の想像とは何一つ違う事を始めた。何故か私の作業机に向かって、私の腕を握ったまま全速力で駆け出したのだ!
「何! 何するの! 一体何が起きるの!」
「いいから黙って見てな、帰るだけだ!」
「帰るって、何処に!」
作業机の前に辿り着いた途端、彼は私の腕を掴みながら机の上へ勢い良く乗り上げる。
その衝撃に耐えきれず、思わず目を瞑った私が、次に目を開けた瞬間に見たのは。
3
固く閉じた目を開けたら、そこは良く見知った自室では無かった。掴まれたままでじんじんと痛かった腕からは痛みが引き、お尻には、何か硬い触感。視界は真っ暗、突っ伏したままの己の態勢。わいわいがやがやと周囲から騒いでいる声。声をかけられて思わず顔を上げると、目の前には、確かに知っているけど知らない女の子。
「かなえ! もうホームルーム終わっちゃったよ! 今までずっと寝てたの?」
呆れるようにそう告げた彼女は、私の頭をぐりぐりと押す。少し痛い。私には、こんな風に触ってくる友人はいないはずだ。でも、彼女の顔は、確実に見覚えがあった。
「は、はるちゃん……?」
「そ、そうだけど? どうしたの、かなえ? まだ寝ぼけてんの?」
珍獣を見るような目線でこちらを見る彼女を、私はこの目で見た事が無かったが、私は彼女の事をこの世界で誰よりも知っている。彼女は、先程の真田一樹のように、私の漫画に出てくる登場人物の一人なのだ。名前は西園寺春香。主人公、天野かなえの頼りになる幼馴染だ。あだ名は、「はるちゃん」。彼女は不思議そうな顔を隠さないまま、呆然としている私に声を掛け続けた。
「おーい、どした? 遂にあのナルシスト男との攻防に疲れて現実逃避でも始めちゃった?」
にやりと、私が何度も見た(描いた)顔で、はるちゃんは笑う。彼女もまた、自称真田一樹のようにクオリティの高いコスプレイヤーの一人なのか? でも、SNSでエゴサーチをしてもここまで再現度の高いコスプレ写真を私は見た事が無い。そもそも私の作品のコスプレイヤーは居ないと思っていたが、これはファンが仕掛けた壮大なドッキリとでも言うのだろうか。……だが、ここはどこだ? わたしは間違いなく自室にいたはずで、目を瞑っていたのも一瞬だったはずだ。情報源は、目の前の彼女しかいない。
「……うん、私、まだ寝ぼけてるみたい。だから、色々説明して欲しいな」
この壮大なドッキリ(と思う事にした)に自ら乗っかるのも少し恥ずかしいなと思いながら、恥を押し殺して私は彼女に尋ねた。やれやれと首を振られる。
「はーあ、そんなこったろうと思った! なら教えてあげる! あんたは『天野かなえ』で、『楠学園』に通ってる。成績は中の上、最近はナルシスト野郎に絡まれてる……どう? 思い出せた?」
思わず、私は言葉を失った。彼女の様子に、嘘を憑いている様子はない。この場所は、何処をどう斜めに見ても学校の教室の中だ。そして、ちらりとスマートフォンを取り出した、その画面の中に映った私自身の顔を見て、私は初めて、とある可能性に思い至った。
(……この場所は、ひょっとしなくとも『夢キラ』の世界なんじゃないか?)
それは、突拍子も、現実味も何もない妄言だった。だが、一瞬で場所も顔も変化したこの状況と、目の前の彼女と、自称真田一樹を、これ以外にどうやって結び付けよう?
「う、うん。思い出せたよ……ところで、真田君って、今何処にいるかな?」
この状況を打破する為には、遅かれ早かれ私は彼に会わなければならない。そう思って口に出した言葉は、彼女を絶句させるには十分だったようで、これ以上無い位に体調の心配をされた。
「あの男なら、いつもと同じように校舎裏にいると思うけど……いつもあいつを適当に扱ってるあんたが、態々居場所を聞くなんて。本当に大丈夫? まだ寝ぼけてないよね?」
「う、うん、大丈夫だよ! ちょっと、あの人に尋ねたい事があっただけだから! 心配しないで……」
罪悪感が湧きあがってきて、教室から飛び出した。足を踏み入れた事は初めてなのに、私は校内の構造を完全に理解していた。そんな事も、これがとんでもなく金を掛けたドッキリではなく、漫画の世界そのものである、という事の信ぴょう性に拍車をかけた。
全速力で校内を駆ける私に、周囲の目線が集まった。それを気にすることもせず、一目散に校舎裏へと向かう。
息を切らして、肩で息をしながら校舎裏まで辿り着くと、まるで鳥のように木の枝の上に腰かけている真田一樹を見つけた。遠方からでも分かる。私をこの世界に連れてきた張本人だろう、部屋に突然現れた彼と同一人物だ。
「真田、一樹……あんたに、聞きたい事が山程あるから! 降りてきてくれない!」
かつてのファミレスの中のように声を張り上げて頭上の彼に届くように言葉を投げると、それは彼の耳にまできちんと届いたのか、するすると器用に彼は木から降りて、私の目の前に降り立った。
「ん、なんだ? かなえ、ついに俺の告白を受け入れる気になってくれたか?」
目の前に立った自称真田一樹(恐らく、彼も本物なのだろうが)はそう告げる。この世界に来てからずっとしている頭痛が酷くなった気がした。
「違うよ。……この頓珍漢な世界に私を連れてきたのはあんたでしょうが!」
「連れて来たっていうか、帰ってきただけなんだけどなあ」
「どっちでも良いよ! とにかく。真田一樹、あんただけが、私はこの世界の『天野かなえ』じゃなくて、漫画家の『ドリーム☆叶』だって事を……ちゃんと理解してるのかどうかは知らないけど! 概念は知ってるんじゃないの」
真田一樹は作者である私が自他ともに認めるナルシストキャラだが、頭脳明晰な男だ。私が、彼が普段好きな主人公の『天野かなえ』では無い事は理解しているのではないだろうか。
「俺は、どんなかなえでも好きだけどなあ……」
「そういう問題じゃないよ!」
作者にしてはあるまじき事だが、今この瞬間、私はこの目の前の男は、恋に盲目なタイプだという事を、この騒動の中ですっかり忘れていた。そんな彼に思わず頭を抱えてしまった時だ。
……地面が、ゆっくりと裂け始めたのは、正にその瞬間だった。
4
それは、誰にも予測出来ない、突然の出来事だった。踏みしめていたはずの地面が、徐々に激しさを増して揺れ始め、遂には立っていられなくなる程その揺れが収まった時、私と真田一樹の間には、ぱっくりと綺麗に地面に亀裂が生まれていたのだ。
「な、何これ……」
瞳を見開いた。顔の前に思わず上げていた腕を下ろして、私は立ち尽くしてしまった。まるで、丸いケーキを包丁でぱっくりと二つに切ってしまったように、目の前には綺麗な跡が残っている。顔を真っ青にする私とは対照的に、彼はけろりとして言葉を発した。
「お、無事か? いやーここ数週間多いんだよな、こういうの」
「さ、最近多いって。なんでそんなに平然としてるの……」
一歩も足を動かすことが出来ないままの私の代わりに、彼はひょいと亀裂を跨いでこちら側へとやって来た。
「平然って、これでも最初は動揺してたんだぜ。でも、本当に恐ろしいのは何かを知ってるから、こんな亀裂じゃ、俺とかなえの前では障害にすらならん!」
そう言って豪快に笑うものだから、私はへなへなと腰が抜け力なく地面に尻を付けてしまう。
「漫画の世界って、何でもありなんだ……」
確かに、何でも出来る漫画の世界に憧れて、今は漫画家になっているわけだけど、流石に自分に命の危険が迫るのは自分の身体では無いとはいえ、心臓がいくつあっても足りないだろう。
そんな私の視界に、小さな影が映りこんだ。
「ん……?」
目を凝らして、その陰の本体を目線で追い掛ける。それは、グチャグチャとスライムのようにのっそり動く、真っ黒の謎の生命体だった。その気持ち悪さに、いつの間にか思わず隣に座っていた彼の背後に隠れ、肩をがっしりと掴む。
「な、何あれ! 何あれ! スライム、にしては気持ちが悪すぎる! 可愛くない!」
漫画の世界だと少しだけ思い込んだにせよ、衝撃は大きい。しかも、『夢キラ』の世界はラブコメ学園者なのだ。天地がひっくり返っても、気持ちの悪いスライムは登場予定は今までもこれからも無い。
「あ、あれか? あいつも最近この学園に出るようになったんだよな。なんか、ゲンコウガーとか、シメキリガーとかなんとか言って鳴くんだよ。慣れたら可愛いぜ」
「い、言っている事は何一つ可愛くない……」
まるで原稿中の私の呪詛のようなものじゃないか、とげんなりした気分になる。
「と、いうか、かなえから俺に近づいてくるなんて、初めての事じゃないか? いやあ、積極的な女子は嫌いじゃないぜ! お似合いだな、俺達」
「……そういうのは間に合ってるから」
そう言いつつ、己が描いた理想の顔をした男が甘い台詞を告げてくれる、というのは夢見る乙女として悪い気はしない。背中も広いし、自分が描いてる男の顔面なだけあって、好きな要素を前面に詰め込んでいるから、性格はともかく、その他の要素は全て好みドストライクなのだ。あとなんかいい匂いがする。……とかなんとか思うのは、私の身体が『天野かなえ』だからだろう。結局、主人公は怪訝に扱いながらも彼の事が嫌いではないのだ。
「まあ、かなえがどうしてもって言うなら、戻る方法が、……無い訳では無いよ」
そして、彼の近くに寄った事によって、彼が小さく独り言のように呟いた言葉を、聞き逃す事も無かったのだ。
「本当に! どうしても! どうしてもだから! 私を元居た場所へ戻して!」
何より私には時間が無いのだ。一刻も早く現実世界へと戻り、打ち切りに対応する策を考えなくてはいけないのだ。
彼は、何度か瞬きを繰り返し、うんと唸った後、私が彼の手の甲の皮膚を引っ張った事も後押しして、遂に折れた。
「仕方ないなあ。でも、今からすることはかなえが危険な目に合うかもしれない。それでも大丈夫か?」
「モチのロンだ! なら行こう、今すぐ実行しないと」
亀裂が生まれた先程とは反対に、今度は私が意気揚々と立ち上がると、隣の彼はしぶしぶとそれに続き、「屋上まで行こう」と言って、私の手を強く握った。そうはいっても前とは違って、痛くないのが新鮮で、それからとても恥ずかしかった。
校舎裏から屋上までに向かう道中、周囲には不自然な程生徒が存在していなかった。はるちゃんの話では、まだ時間的にはホームルームが終わったばかりで、部活が終わっているわけでは無い。私たちの足音だけが響く静けさが、異様さを際立たせて恐ろしかった。手は繋げたままだが、彼が私に話し掛けてくる事は屋上へと続く扉の前に着くまで、終ぞとしてなかった。その違和感に首を傾げながら、私も黙って着いて行った。
5
扉をゆっくりと開けると、思わず目を瞑ってしまう程に勢いよく風が舞い込んできた。んん、と情けない声を上げて、暫くしてから、瞳を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
屋上には、一人の男子生徒が校庭を見下ろす様に立っていた。扉が開いた事によって、彼はこちらの存在に気が付いたのか、ゆっくりと振り返った。その顔に、私は何度目かの言葉を失う経験を得る。
「真田一樹が……二人?」
「違う! そいつは偽物だ!」
絶句した後、はっ、と正気に戻って呟いた私の言葉をまるで遮るように、私の手を握っている彼が叫んだ。
異様な光景は空気までもを巻き込んで、正常な判断を失わせる。私は、全く同じ顔、身体つきの人物が目の前に二人いるという信じられない光景に、頭が真っ白になってしまった。
「偽物って、どういう事だよ。後から出てきたのはそっちの方だろ」
屋上に居た真田一樹__便宜上真田Aとしよう__は、私の手を握っている真田一樹__こちらは真田Bだ__とは対照的に、理性的に、静かにそう告げた。どちらか一人が声を上げる度、それに比例して私はこの状況に付いていけないくなる。
「違う、お前の方が偽物だ。……この世界の危機に対して、何もしようとしないヒーローなんて、偽物に決まってる」
真田Bが唾を吐き捨てるようにそう告げる。真田Aは彼に対して冷ややかな目線を外さないまま、また言葉を掛けた。
「だって、この世界の混乱の危機の大半は君のせいだろ? だったら、俺が動くまでもなく原因は勝手に消えてくれるだろ」
偽物なんだから……と告げられたところで、私の頭はオーバーヒートを起こした。
「ああ! 訳が分からん! 偽物とか本物とか! 一体何の話なんだ! ヒーローが二人なんぞ、『夢キラ』はそんなややこしい話を描いた覚えはないぞ!」
私が声を上げたところで、漸く真田Aは私の姿を認識したのか、先程とは打って変わって優しい言葉を掛ける。
「ああ、かなえか。その偽物の俺と居たら危険だぜ。さっさとその手を切って離れた方がお前の為だ」
彼の言葉に私が何かを言い返すよりも先に、真田Bが私の手を握る力が強くなった。一瞬それに気を取られているうちに真田Bはもう一度声を荒げる。
「お前は……! 今のかなえの本質も見てないくせに表面上だけ見て言葉を掛けるな! 彼女は……」
「『天野かなえ』じゃなくて『この漫画の作者であるドリーム☆叶』だろ。自分の事だから考えてる事なんて態々口に出さなくても分かるよ」
今度は声を荒げるのは私の番だった。
「ちょっと、私が『あんたの好きなかなえ』じゃないって事、ちゃんと理解してたの! 真田B!」
真田B、と思わず出てしまった名前に隣の彼はあっけにとられていたが、すぐに持ち直してそのまま首を縦に振った。
「ああ、知ってたぜ。知らん振りして悪かった。でも、あんたが『俺が好きなかなえ』である事は、間違ってないし、その点で言うなら、目の前にいるもう一人の俺よりも、俺は誠実だぜ」
真田Bの言葉に、私は目を点にする。これが漫画の一コマなら、きっと背景にはひよこのトーンが使われている事だろう。そんな私を見かねてか、真田Aが再び口を開いた。
「ああ……そうだな。だって、そこにいるもう一人の俺は、「漫画の主人公である天野かなえ」じゃなくて、『作者であるドリーム☆叶』が好きでたまらない、少女漫画のヒーローとしては致命的な不良品なんだから!」
また、天地が揺れるような感覚に襲われた。真田Aの言う事が、信じられなかったせいもあるが、何よりも大きいのは、さっきも経験した__。
「かなえ! 危ない!」
世界がスローモーションのようにゆっくりと時を刻みだした。漫画でこの表現を描いた事があったけど、本当に体験する事ってあるんだな、なんて考えるのは、ただの現実逃避だ。
地面に亀裂を生み出した大地の揺れが、もう一度起こった。今回は亀裂こそ生み出さなかったものの、屋上にあった寂れたバスケットゴールがゆっくりと音を立てながら倒れてきて、その影が私を覆って、と思ったところで、強い力で私は弾き飛ばされた。
「真田B!」
揺れが収まった時、私の目に飛び込んできたのは、私を突き飛ばしたせいでゴールや、崩れた瓦礫の下敷きになっている、真田Bの姿だった。
「な、なんでかばったの、待って、今どかすから……」
唇を震わせながら立ち上がろうとする私を、誰かが抑える。思わず振り向く。それは真田Aだった。
「ちょっと! 何で邪魔するの!」
私を止める手を振りほどこうとするけれども、上手くいかない。
「俺だってしたくてこうしてるわけじゃない。話を聞いてくれ、かなえ」
真田Aはこちらの瞳をみつめながら、告げる。その静かな気迫に、何も言えなくなってしまう。
「こいつは、この世界のバグだ。あんたは今日、この漫画が打ち切りになってしまうて聞いただろう」
「う、うん……」
「そうなると、あんたはこの世界を続けようとテコ入れをしようとしたりするだろ? そうするとどうしても今までの世界との結合性が取れなくなって、バグが発生するんだ。黒いスライム状の気持ち悪いやつとか、見た事ないか?」
「あ、あるけど、でも、それと、この真田Bは違うでしょ!」
「全く同じだ。こいつは、『俺がもし世界が漫画の中であるという事を知ってしまったとしたら』っていうIFを再現したこの世界のバグなんだ。そうだろ、偽物の俺」
真田Aが声を掛け、Bの顔を見るから、私もつられて彼の顔を見つめてしまう。
「うん、俺は始めから……あんたが、『天野かなえ』じゃなくて、『ドリーム☆叶』っていうペンネームを持つ、あんたが好きだったんだ。……俺は、初めから自分が漫画のキャラクターだって事を理解していた。あんたの掌の上で踊らされるキャラクターに過ぎないって、理解していた。……周りは、この世界が現実だと思っている中で、俺だけが、この世界は、あんたが、あんただけが俺の神様なんだって事を知ってたんだぜ」
「も、もう喋らないで……み、見殺しになんて、出来ないに決まってる、ねえ、どうしても彼を助けるのは駄目!?」
私の懇願を、真田Aは一蹴する。
「駄目だ。そもそも偽物の俺が作者であるあんたに勝手に干渉出来たのだって、偶然のバグが重なっての事だ。そんな不安定な状態がつづけば、次いつ打ち切りの危機に瀕するか分からないんだぜ? だったら、不安の種はここで全部潰さないといけない。そもそもこいつが現れ始めてからなんだ、この世界が不安定になったのは。それに、原因であるこいつが消えなきゃ、あんたは元の世界に戻れない。全部は消える瞬間を見て欲しいっていうこいつのエゴなんだよ」
静かに告げる真田Aの言葉は、受け入れたくないけれども確かに正しい。でも、納得は出来なかった。
「真田B、あんたはそれでいいのか。受け入れられるの……?」
埋もれている彼の、それでも触れる事の出来る掌を私は包み込んだ。
「……ああ。もう一人の俺の言う事は、全部正しいんだ。俺が初めて自我を持った時から、消える瞬間が来る事は覚悟してたぜ。……でもあんたが創り出したキャラクターとして、俺を認めてくれるなら、……心からのお願いだ。俺の存在を、どこかに、残してくれないか。この世界は……あんたがいない世界は、耐えられそうに無いから、ここで俺が消えるのは構わないんだ。けど俺は、この漫画の主人公のかなえじゃなくて、作者の叶が、どうしようもなく好きな不良品だけど、それでも、あんたの中に、あんたを愛した奴もいるって事も消えてしまうのは、ちと寂しいから……勝手にこの世界に連れてきた、俺のエゴが、許されるのなら……」
段々と、握っている彼の手が透けていく。あっという間の出来事だったけど、彼は、この世界から消えてしまうのだと本能で理解出来た。
「うん、うん……描くよ、あんたの存在は、この世界に残すよ……あんたの強引さは作者としてどうかと思うけど、私もかなえとして、真田B、君の事が好きだったんだ……だから、あんたをこの世界のバグとして、簡単に消してしまいたくない」
もう一度彼の手を強く握る。真田Bは、確かに微笑んだ。
「そう言ってもらえて、嬉しいぜ……はは、ずっとこうやって、あんたの手を握ってみたかったんだ…………」
その言葉を最後に、彼はすうっと、初めから存在すらしていなかったかのように、静かに消えて行った。
私は消えゆく彼に対して、何も出来なかった。それだけが、ほんの少しの付き合いだけれど、悔やまれた。
「おい、作者。帰るなら、さっさと帰れ。あいつは遅かれ早かれ消える運命だったけど、あんたがこの世界に留まってこの世界の続きを描かないなら、あいつがあんたをかばって消えた意味が無くなるだろう」
そう言って真田A__もう一人だけなので正真正銘真田一樹だ__は、私たちが入ってきた屋上の扉を指さした
「あの扉をくぐったら、あんたは現実世界に帰れる。その、なんだ、こっちの世界のエゴに付き合わせてすまなかった……が、元はと言えば、あんたがつまんない漫画を描いてるからこんな不安定な事になったんだからな」
「そ、それは十分理解してます! 精進します! ……でも、その、ありがとう……」
「お礼を言われる筋合いはない。そもそもあいつが勝手にしでかした事だからな。恩が返したいんだったらさっさと打ち切り対策でもして、可愛い『天野かなえ』と俺の大恋愛を最後まで描き切ってくれよ」
「……うん、そうだね、そうする。だって、私は、漫画家だもの。表現したいものを描かないで、どうしてそれが名乗れるものか」
「ありがとう、真田……いや、違うな、君はきっと、真田一樹じゃない、もっと別の存在になれる……。いや、してみせる。私を、この世界に連れてきてくれて、ありがとう。良い体験になった。この漫画がなんの術もなく打ち切られてしまう前に、貴方に逢えて、良かったと思う。私が描いているキャラクターは、皆生きてたんだ……それだけでも知れて良かった。私も、私なりに、あんたの思いを無駄にしないように、頑張ってみるから、見ててね」
独り言にしては大きな声でそう言って、私は現実世界に繋がる扉の中に飛び込んだ。その瞬間、目を開けていられない程の、まばゆい真っ白な光に、身体全体が包まれる。
__そして、目を開けた先は。
「いつもの部屋だ……」
私のよく見知った自室だった。
思わず壁の時計を見つめる。打ち合わせから戻って来た時から時間が全く経過していない。足元には愛猫であるから士が早く餌を寄越せとすり寄っている。今までの出来事は、夢か現か、それとも妄想か。 でも、それでも。
「まあ、描くかあ……」
夢であろうと妄想であろうと、私の記憶と、彼の愛は変わらない。
5
「先生、この新キャラの『和樹』って子、ほんと良いキャラしてますよね。同じ名前なんでどういう意図があるんだろうと初め思いましたが……この世界が漫画だと理解していて、主人公では無くて読者に恋する……こんな、第四の壁をぶち壊すぶっ飛んだキャラクター、どこで思いついたんですか?」
再度の打ち合わせ、再度のファミレス。今しがた読み終えたばかりのネームを手に持ちながら、斎藤さんはきらきらと瞳を輝かせて私に尋ねた。
「んえ? えーっと、そうですね……私の好きな世界のバグ、ですよ」
私の言葉に、斎藤さんは不思議そうな顔をして、何度か質問を返した。見間違えか、手に持った原稿用紙の中の彼が、こちらに向かって微笑んでいるような気がした。
一言で言うなら純愛版DDLCです