新訳御伽草子
※あとがきをご確認ください。
一章「希望」
『この玉手箱は、どんなことがあっても開けてはいけません』
開けた後、ふと先ほど耳にした言葉が脳裏をよぎる。
浦島は、玉手箱の艶にうつる自らの姿に絶望した。
「あぁ……そういうことだったのか……」
虚空に放たれた悟りと哀愁にまみれた静かなる呟きは、しわがれ先ほどまでの若々しい響きとは似ても非なるものであった。
つまり、こういうことである。
竜宮城は、時間から切り離された世界であり、通常の何倍もの拡張された時間がながれているのである。故に不朽の美しさを誇り、果てしない時間を無意識に生きる者たちが、その永遠に等しい時間の中で手に入れた不思議な力を扱えるのだ。鶴は千年、亀は万年と言われる理由も竜宮という世界を用いれば、容易に頷ける話だ。
乙姫が持たせてくれた玉手箱は、一度切り離された私の時間が詰められたものだったのだろう。人間から心を取り除くことができないように、時間もまた同じ。竜宮という奇跡の世界では時間が切り離せようとも、元の世界に戻るときにはそれをきちんと持ち合わせなくては、世界の摂理に弾き出され消滅してしまう。だから、浦島に切り離された時間を持たせた。そして、世界に戻ることで新しい時間が肉体に定着するまでは、浦島を世界に留めさせるために玉手箱を開けさせなかったのだろう。
浦島は、深いため息をついた。
目の前には、母亡き自らの旧宅がある。
母の墓はどこにあるのだろうか……。
悲しみに暮れそんなことを考えてみるが、考えたところでこの老体では探し回るほどの体力もない。
浦島は、静かに膝をつくと家に向かって手を合わせた。
「母さん……」
そう呟いた時、ふとはるか昔の記憶が目の前に広がった。
まだ、彼が三つにも満たないころのことだ。母は、浦島を抱き上げとある木を愛おしそうに見つめていた。
その木は、他の木に比べると細く弱々しく見えた。しかし、その木に咲く鮮やかな色の花は、とても優しく美しく強く彼の心を惹きつけた。
浦島が木の名前を尋ねると、母は木の名前を答えた後、「この木はね。お父さんなのよ」と優しく言って、彼の頭を撫でてくれた。
我に返った浦島は、ゆっくりと立ち上がると何かを決心したように歩き出す。
「わかったよ。母さん……」
×××
七年の月日が過ぎた。
季節の変化というものは、草木の放つ独特の香りが知らせてくれる。そう感じるようになった浦島は、軋む足腰をゆっくりとほぐすように伸びをした。
海の家を離れて、七年。
山の村に移り住んだ浦島は、桃の木畑を作り生活していた。
外から聞こえてくる子供たちの騒ぎ声は微笑ましく、懐かしさすら覚えてしまう。そう感じるたびに、心が年取っているのだと実感した。実質自分が生きた時間は二十七年と短いのだが、どうもこの体では精神も同様に年を実感してしまうようだ。
浦島は、広場に出ていき子供たちと少し戯れた後、畑へと向かった。
七年目の畑はそれなりに充実しており、自慢の十二の桃の木の他にも、いくらかの野菜を育てている。季節は夏ということもあり、桃の木には大きな実がいくつもなっていた。
その中の一つに浦島は、前々から奇妙なものを見つけていた。それはつい先日気が付いたのだが、異常に大きな桃ができる木があるのだ。
その木は、母の誕生日に植えた七本目の木であり、実がなるたびに他の木よりもはるかに大きい果実がなることで村でも有名であった。しかし、それはあくまで去年までの話であり、今年のものはそれまでの大きさよりも二回りほど大きい実がなっている。その大きさは、一歳児くらいであれば容易に詰め込めるのではなかろうかと思われるもので、初めて見たときはそれはもうたまげたものだ。
浦島は桃をしばらく眺めていたが、思い切ったようにその一つをもぎ取った。ふわふわとした見た目のわりにズッシリとした重みが腕にかかる。
「むっ」
わずかに声を漏らした浦島だったが、ゆっくりと桃を抱え上げると、よたよたと家へと持ち帰った。
さて、どのような味がするのだろうか。
浦島は、大きめの包丁を取り出すと、桃を二つに割った。
すると、芳醇な果実の香りが部屋に広がり、ジワリと果汁が飛び出した。
種をくり抜き、果実部だけにした浦島は、さてどのように皮を剥いてくれようかと考えた。
その時だった。
「鬼が来たぞぉおお! 皆逃げろぉおお!」
不意に外で村人の声が響いた。そして、慌てふためくような村人と子供の悲鳴が聞こえた。
そして、その直後、雷のような唸り声と何かを押しつぶすような鈍い音が聞こえてくる。
慌てて外に出た浦島は、村人を襲う鬼を見た。
周辺の村が最近鬼に襲われたとの噂は聞いていたが、まさかここにも現れるとは……。
鬼は、筋肉質の剛腕に握りしめる金棒を振り回すと、村人を次々に押しつぶしていく。飛び散る鮮血と響く絶叫に浦島はしばしの間、硬直した。
しかし、
「まぁーんーー。んまぁーー」
耳に響いたその小さな声が浦島に自由を取り戻させた。
視線を向けると、鬼のすぐそばに籠に入れられた赤ん坊が転がっている。
あれは、半年前に生まれたばかりの赤子ではないか……母親はどこに……。
そう思ったと同時に、浦島は赤ん坊のすぐそばに転がる肉片を見て全てを悟った。
「んまぁーーー」
次の瞬間、気が付くと浦島は飛び出していた。とても老いた体とは思えない速さと力強さで地を駆けた。
あっという間に赤子までたどり着いた浦島は、鬼の足をくぐり抜け赤子を抱えると急いで家へと駆け戻る。鬼が自分に気が付き追いかけてくるのがわかる。
この次どうすれば良いのか。その答えは不思議と決まっていた。
浦島は、赤子を先ほど切った桃の中に収めると抱え上げ、裏口から外に飛び出した。
背後で家が金棒で破壊される音が響き、飛び散る木くずが足にささる。
苦痛に顔を歪ませた浦島だが、あらん限りの全力で走ると、すぐそばの川に向かって抱えた桃を投げ入れた。
大きな着水音が響き、桃が下流へと流れていくが確認できる。
浦島は、ふぅと息を吐くと、すぐ背後に立つ巨大な気配に向かってゆっくりと振り返った。
目と鼻の先に鬼がいた。
人を模した筋肉質な巨体に、紫の肌。ぎょろりとした大きな眼球に鋭い眼尻。耳まで裂けた口に生えそろった大きな牙。吐く息は鉄のような生臭い香り。血の匂いだ。
「おい。じじぃ。今、何を捨てた?」
低く野太い声に身震いした浦島だったが、キッと鬼を睨みつけると凄みのある笑いを浮かべて見せる。
「捨てたんじゃない。……託した。……希望をな!」
その言葉に鬼は首をかしげる。
「ほぅ……」
その直後、浦島は鼻先に物凄い速度で迫る金棒を見る。
最後の瞬間、浦島はかすむ視界の中で見えるはずのない桃の花びらを見た。
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二章「代償」
「もぅ。人々を襲わないと誓え」
桃太郎は、そう言って鬼の棟梁に向かって刀の切っ先を突き付けた。
鬼の棟梁は、腰を抜かした状態で言葉を失っていた。
強すぎる。
目の前に立つ男は、本当に人間なのか……そう思えるほどの力強さと斬撃の鋭さ。
鬼は、自らの傷だらけの肉体を眺めた。流れ出る血液と全身にこびりつく同胞たちの返り血。すべてこの男が付けたものだ。
お供の雉、猿、犬が翻弄し、この男が一撃で斬り伏せる。鮮やかにまで決まった連携だ。力に物言わせるだけの自分たちが、勝てるはずもない。
「……わかった。そう誓おう」
そう答えた鬼だったが、それは誓いよりも男の畏怖に気圧された故の言葉だった。
しかし
「そうか。それは良かった」
鬼の言葉を聞いた桃太郎は、言うなり一瞬にして鬼の首を跳ね飛ばした。
五月雨のごとく降り注ぐ鮮血を浴びながら、桃太郎は深いため息をつく。
「ようやく……終わった」
刀を仕舞い荒い息を整えた桃太郎は、朧げな古い記憶を思い出す。
それは遥かの出来事にして、最も濃い記憶。
鬼に千切られた父親に潰された母親、そして自らを桃に詰めて川に流した勇敢な男。
それらの記憶がしっかりと鮮明に脳裏に刻み込まれていたため、桃太郎は鬼退治を決意するに至った。唐突な志願に育ての親である翁と媼は、ひどく驚いたものだが、後押ししてくれたことにはとても感謝している。
そんなことをぼんやりと思い出していると、不意に足元にフワフワとした感触が感じられた。
「お前たちも、ここまでよくついてきてくれたな」
視線を落とした先には、ここまでお供としてついてきてくれた三匹の動物たち。
犬、猿、雉。皆返り血をあびドロドロになっているが、大したケガはないように見える。
桃太郎は、達成感と達成による喪失感に駆られつつ小さく呟いた。
「……帰ろう」
×××
それから幾ばかりかの時が過ぎた。
桃太郎たちは、帰るなりそれぞれの道を歩むため世界へと散った。
翁と媼が死去したことで旅に出た桃太郎であったが、虫や鳥の知らせで犬、猿、雉のその後を聞いた。
犬は、新たな主を見つけたようで、幸せに暮らしているとのこと。最近近所の住民が主をいじめることが悩みになりつつあるのだとか……。
猿は、最近実家の森でカニをいじめて遊んでいるようだ。鬼を倒した経験から少しばかり調子に乗っているのだろうか? まぁ、何にせよ。あまり度が過ぎないことを願うまでだ。
雉はというと、つい最近まで元いた森で動物たちの長を務めていたようだが、わけあって桃太郎を探す旅に出たらしい。とは、言っても今の自分は彼に会うことはできない。何故なら……。
そこで、桃太郎はふと池の水面にうつる自らの姿を見た。
そこにいたのは、一匹の赤鬼であった。
先の戦いで、桃太郎はあまりにも鬼の血を浴びすぎたのだ。傷から染みた鬼の血液は徐々に桃太郎の体を鬼へと変容させていった。はじめに違和感を感じたのは、まだ戦いの帰還から間もない頃。腕の鬼人化という異常がキッカケだった。当時は、人間の腕と鬼の腕の切り替えが可能だったが、翁と媼の死後から段々と制御できなくなってきた。
あわよくば今後も、人々のために妖魔の類と戦い続けようと考えていた桃太郎であったが、自らが妖魔となってしまった今それはできない。今できることは、極力人々の目に触れないようにして生きること。人々に恐怖を与えないようにして一生を全うすることだ。
刀を置いた桃太郎は、鬼として生きるべく旅を続け、今の地に至る。
これは、復習に囚われ鬼を殺した報いなのだろう。鬼を斬ることが人々を救うというたてまえにすがり、復讐を完遂したことへの代償。つまり、これは呪いであり罪である。
「き、君は?」
突然の声に、桃太郎……いや、赤鬼は身震いした。
慌てて顔を上げると、少し離れたところに自分にそっくりの青い鬼が立っていた。
青鬼は、野菜を入れた籠をドサリとその場に落とすと、恐る恐るといった様子で問いかけてくる。
「君も……まさか、人間かい?」
これが赤鬼と彼の出会い。
後に、彼らが人間と仲良くなるための作戦を考えるのは、まだ先の話であった。
×××
浦島は、ずぶ濡れの体を引きずり見知らぬ土地を彷徨っていた。腕は引きちぎれ激しい出血が見られる。鬼の攻撃を腕一本を犠牲に逃れ、半日。もう体力の限界が近づいていた。
朦朧とする意識の中で、浦島は母の記憶の続きを思い出す。
母は、桃の木をさして言っていた。
『お父さんはね。私たちを守るために戦って死んじゃったの。でもね。木に生まれかわって、私たちを見守ってくれているのよ』
浦島は、歩いた。もうどれほど歩き、どこを歩いたのか分からない。
気が付けば、周囲は荒れ果てた平原で、目につくものといえば一つの地蔵と小さな墓石。
かすれる息を吐き、浦島はその墓石に縋りつく様にして倒れこむ。
「死者の魂よ。この無礼をお許しください。どうか、少し…………」
墓石に向かって謝罪を述べる浦島は、その墓石に記された名を見て息を飲んだ。
「あぁ……。こんなところにいたんだね。…………母さ――――――――」
浦島の声はそこで途切れ、その意識と命の灯は完全に途絶えた。
しかし、その顔はとても幸せそうであり、ザワザワとそよぐ風は彼の生き様を祝福しているようであった。
後に浦島は、一本の桃の木となる。
しかし、その木は常に枯れ木のようで花も葉もつけることは無かった。寂しく佇み、ただ静かに世界を見つめている。そんな木であった。
×××
雉は、桃太郎の刀を斜めにかけ旅を続けていた。
目的は、桃太郎を連れ戻すこと。再び世界に溢れかえった妖魔を狩るためには、彼の力が必要不可欠である。妖魔との戦いの準備は整いつつあった。いくつもの森を巡り、数多の動物たちと同盟を結んだことで戦力は十分に揃っている。あとは、戦いの象徴となる「伝説の英雄」、桃太郎が再臨することで義勇軍は完成する。
時間は無い。
各地で生き胆信仰の類の妖魔が勢力を拡大し、派閥のようなものが出来つつあるとの情報すら出回っている。
正直なところ、犬や猿にも手伝ってほしかった。しかし、犬は新たな主に尽くしており、その幸せを奪うような真似はしたくなかった。猿に至っては、カニを誤って殺してしまったことで、その子供と仲間たちにお礼参りをされたことで大けがを負ったと聞いている。とても戦いに復帰することはできないだろう。何をしているのやら……。
それにしても、本当に妖魔が増えたように思う。襲撃を受ける回数も増えている。おそらく自らの背負っている桃太郎の刀のせいだろう。あの刀は、鬼の妖気と血を吸いすぎたようで、いつの間にか刀そのものが妖気を放つ魔刀となってしまった。鬼斬りの名もあって、手に入れようとする妖魔も少なくない。妖魔とは困ったものだ。
しかし、かくいう雉自身も半妖即ちモノノケの類になりつつあるため、その点については何とも言えない。現に今はこのように雉本来の姿だが、妖魔に襲撃を受けた際は、人の姿に化けることでこの魔刀を抜き放つ。当初は、主の刀を抜くことなど恐れ多いことだと思っていたが、届ける前に絶命しては元も子もないため、現在では躊躇なく使わせてもらっている。
と、そんなことを考えている内にも、目の前に一匹の大蛇が現れる。
周囲は、木々に囲まれており逃げる暇はなさそうだ。
羽を散らし、煙を巻いた雉は、ゆっくりと人間の姿に化ける。鮮やかな羽の模様が描かれる着流しを羽織り、スラリと刀を抜き放つ。
嫌な予感がした。
何かは分からないが、運命に縛られた直観のようなとてつもない悪寒が背を駆ける。
しかし、かといって引けない以上戦うほかに選択肢はない。
大蛇は、鎌首を持ち上げると雉を見下ろす。開いた大口の中は、真っ赤に燃える炎のようである。
雉は、ただならぬ不安感を胸に抱きつつも、刀を構え地を蹴った。
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三章「運命を廻る者」
老父は、涙を流していた。その手にある籠にはあふれんばかりの灰が盛ってある。
愛犬が亡くなったのだ。
とても良い子であった。出会いは、自分が山で傷ついた犬を見つけたことに始まった。不憫に思って手当てしてやるといつの間に懐かれてしまい、一緒に生活するようになった。私が悪い足腰を引きずると、医者を呼んできてくれたこともあった。冬の寒さに震えると、その毛皮で温めてくれた。とても人思いの犬であったと思う。
老父もまた、犬を愛していた。数年前に妻を亡くしてからというもの、どこか物足りない毎日を過ごしていただけに、犬との生活はとても満たされたものだった。
ある時、犬は老父を山に連れ出すと、ある場所を掘るように催促した。催促されるままにその地を掘り返すと、そこから少しばかりの小判が現れた。犬は、それからもことあるごとに老父を山へ連れ出すと、少しの小判を掘り当てた。
昔から、動物に関する不思議な経験が多かったこともあり、その現象そのものに対する疑問は薄かった。むしろ、その力を自分のために使ってくれようとする犬の愛が嬉しかった。
若い頃、鶴であった最初の妻に置いて行かれてというもの、愛という概念に対してどことなしか後ろ向きであった自らに心からの愛を注いでくれる存在が何より嬉しかった。
近所の老婆に舌を切られた雀を助けたこともあった。相撲を取るネズミにもであった。
しかし、彼らと心を通わすことはできても、友として真の愛を深めるには至らなかった。
だからこそ、今手の中で灰となった愛犬のことが悲しくて仕方がない。
だが、今流している涙は、悲しみからではない。
ふと周囲を見回すと、眼下には多くの人々が集い、自らを見上げている。
老父は、木の上に立っていた。
荒れ果てた平野に立つ一本の木。目につくものといえば、小さな地蔵と一つの墓石。
そのすぐそばに立つ枯れ木の上で、老父は集まった民衆の前で声を張り上げた。
「枯れ木に華を咲かせましょう!」
夢に現れた愛犬は言った。
最後に美しく咲かせてほしいと。
老父が声を上げると同時に投げた灰は、木に触れるなりたちまち華に変わり枯れ木を彩っていく。
あぁ。お前はなんと美しいのだ。なんと、優しいのだ。
喜びと別れの涙を流す老父は、歓声を上げる民衆に向かって滴を散らす。
「枯れ木に華を! 咲かせましょう!」
その声は、平野にどこまでも優しく響き、強く染みわたっていく。
美しい世界であった。
×××
「調子に乗りすぎましたね」
仏の言葉に、猿はただ頭を垂れるばかりであった。
桃太郎と別れた後、猿は鬼を倒した猿としてワガママ放題の日々を送っていた。そして、ある時、カニをいじめた延長で殺してしまい、その子供と仲間たちに仕返しをされてしまったのである。大けがを負った猿は、誰にも手当てしてもらえず、そのまま数か月後に息を引き取ったである。
「……カニには、悪いことをしたよ」
「自業自得ですね」
そう言って猿を諭す声は、どこまでも温かい。
仏は続けた。
「さて。ここで提案です。あなたは死んでしまったわけですが、生き返る挽回の機会を与えましょう」
その言葉に、猿は驚いたように顔を上げた。
「挽回の機会?」
猿にコクリと頷いて見せた仏は、話続ける。
「今から、数十年先に隣の大陸に一人の修行僧が現れます。あなたは、妖怪として蘇り、彼に付き従い天竺まで送り届けなさい。無事送り届けた暁には、その後の生はあなたの自由にすることを許します」
猿は、しばらく考えると仏を見つめた。
「僕は、妖怪になるのかい?」
「そうですね。石猿の妖怪になります。記憶もなくなります。これはですね。ただの妖怪として蘇ったあなたが、妖怪としての欲に飲まれず使命を全うできるのかという試練なのです」
「……試練」
ごくりと唾をのんだ猿は、再びしばし考える。
が、答えなど決まっていた。桃太郎とともに鬼退治に出向いたあの時から、自分の心は決まっている。
善のために生きたいと。
一度は踏み外した道だが、この機会はまたとない挽回の好機。ものにしなくては、桃太郎が一味の名が廃る。
「僕、やります。無事やり遂げて、やり直したい」
強い意志の感じられるその言葉に、仏は優しく微笑むと猿の頭に手を乗せた。
「決まりですね。では、最後に。ここであなたに新しい名を与えましょう」
刹那。
周囲が強い光に包まれる。
猿は目を覆う。
遠のいていく意識の中で、猿は仏の口にした新しい名を聞いた。
――孫悟空――
今聞いたところで、どうせ忘れてしまうのに……。
そんなことを思いつつ、猿の新しい命が始まった。
×××
「おいおい。時間遡るとか聞いてないぞ……」
青年は、荒い息を吐きながら剣を鞘に納めた。
周囲は草木の生い茂る山の中である。
「タカマガハラ追い出されたと思ったら、化け物追って時間旅行って……洒落にならねーな。おい」
汗をぬぐい独り言を呟いた青年は、山を下り始めた。時間を感じ取ったところ、だいぶ過去に遡ってしまったようだ。あの化け物に時間航行の能力があったというのは想定外だった。もう正面切っての戦いは、避けたほうがいいかもしれない。
追っているのは、八つの首を持つ大蛇の化け物。
青年はタカマガハラから、魔刀を所有者ごと丸のみにした大蛇の妖魔を見ていた。大蛇の妖魔は、魔刀の妖気に影響されたことで今の姿へと変容してしまったようで、本来の自我を失い本能のままに暴れまわった。
自らの不祥事でタカマガハラを追放された青年は、下界に降りるなり、その化け物を探した。化け物を倒し人間を救えば、再びタカマガハラに帰ることができるかもしれないと考えたからだ。
しかし、いざ化け物と対峙してみて驚いたのは自分の力の弱体化である。神々の国であるタカマガハラを追放された青年は、並外れた怪力と運を持ち合わせてこそいても、本来の神格的能力を剝奪されていたのだ。以前なら、剣の一振りで両断できたであろう硬度の鱗が全然砕けない。三度ほど斬りつけて漸く一枚粉砕したものの、こんなことをしていては日が暮れる。怒涛の勢いで攻撃を浴びせたが、あと一歩のところで不意に化け物は空間に溶け出した。それを追いかけたところ、今に至る。
あの慣れた行動から察するに、あの化け物は度々時間を超えているのだろう。厄介だ。
山を下った青年は、駆け足で周辺の集落を探した。
すると、ある集落の入り口で一組の夫婦と娘が涙を流していた。
「おい。あんたら。なに泣いてやがる?」
そう言って、事情を聴きだした青年は、「ほぅ」と声を漏らす。
事情によると、月に一度例の化け物がこの村を訪れ村の娘を一人ずつ食べていくのだという。そして、今月がこの娘の番だという。
青年は、少し考えると、夫婦に言った。
「俺に考えがあるんだが……乗るかい?」
その言葉に夫婦は、呆けた顔になり「どういう意味か」と問う。
すると青年は、豪快に笑うとドンと拳を自らの胸にあてた。
「要はさ。この俺がアイツを倒してやるって言ってんだ」
響き渡る強い声に、夫婦と娘は身震いした。その声は、山々に遠く吸い込まれていき遥へ。世界はまだ、この男を知らない。
男の名は、スサノオノミコト。
世界は、こうして巡り廻る。
お伽の世界は、紡ぎ繋がれ、一つへ纏まる。……御伽草子は、終わらない。
※本作は、作者が大学の文化祭にて文芸誌に掲載用として書き下ろした作品です。
詳しくは作者のTwitterへ @soltdayo117114
2017.12.17.甲賀蔵彦