第9話 「握り締めちゃってもいいですよ?」
予想外に安く済んだ買い物を終えた日の夜。
窓を開け放てば軽く身震いしてしまいそうなくらいには、九月の空気は冷たくなっていた。直に上着が手放せなくなるな、と思いながら一基はパラパラと魔道書をめくる。
日付が変わるかどうかという頃だ。新しく購入した折り畳みベッドを一基の部屋に置くか否かで盛大に言い争った後、じゃんけんによる一基の敗北を以って、彼女は幸せそうに一基のベッドの真横で寝ている。
「……はずなんだが、どうして階段の影から俺の様子をちらちら窺ってるのかな?」
「バレてましたか」
照れたように笑いながら、真咲がひょっこり顔を出す。
そこに真咲がいたことは別に気を張っていなくても気付ける。そもそも、寝る前に喉が渇いたのか、ついさっき台所から水音もしていたのだ。その音が止んでも部屋の扉の開閉音がしなければ、違和感を覚えて当然だろう。
「何か調べものですか?」
「お子様は寝る時間だ。気にせず寝なさい」
「……もしかしてえっちな本を――」
「違ぇし、年頃の女の子がそんなことを言うんじゃねぇ!」
バン! と開いていた本を閉じて一基は思わず怒鳴っていた。しかし近所迷惑、という単語を思い出してはっと口を覆って、一基は声のトーンを戻す。
「……で、何の用だ。さっき水か何か飲んだんだろ? トイレか?」
「えぇ、まぁ、ちょっと喉が乾いてただけですし。――あと、年頃の女の子だって分かっているならトイレとかいう単語を出さないで下さい」
むすっと膨れる真咲に、一基は面倒そうに首を振る。
「……そんで、本当に何の用だよ。俺のデリカシーの無さを詰りに来ただけか?」
「そんなつもりはないですよ。……ただ、そのですね。実はわたし、一人では眠れない質でして。宜しければ一基様に添い寝を……」
頬を赤らめながら真咲は言うが、一基はげんなりした様子で言い返す。
「昨日一人で寝てただろ」
「あ……」
懐いた犬のように一基の傍にいたがっている真咲だが、しかし完全にその作戦は失敗していた。むしろ失敗や成功以前の問題で破綻している。
「こ、こんなに可愛い女の子が添い寝を頼んでいるのに断るんですか!?」
「自分で可愛いとか言っちゃダメだろ……」
何とか食い下がろうとしている真咲だが、もう何か色々ダメダメだった。
「……一基様ぁ」
最終手段の泣き落とし、だろうか。
瞳に涙をいっぱい溜めて上目遣いで見られると、流石の一基も「うっ……」とその破壊力に競り負けそうになっていた。
「……悪いけどな。今日は寝ない日なんだよ」
だから、譲歩して一基はそう吐露することにした。当分は住み込みで真咲は働くのだから、今さら隠したってあまり意味のないようなことでもある。
「どうしててですか?」
「単純に、眠れないんだよ。――ほら、今日の朝だってうなされて飛び起きただろ。基本的に熟睡できない体質なんだ」
一基はそう言って、真咲から視線を外して魔道書と向き合う作業に戻った。もう何千回と読んだその魔術言語は、とうの昔に脳に深く刻まれている。それでも、それ以外に一基に時間を潰せるものはない。
「生まれながらの体質でしたら、きっとそれでも疲労は取れるのだと思います。ですが、一基様の目の下にはくまが……」
「……目ざといな」
探偵業とは言え、基本は客商売だ。ファンデーションで使い魔との契約印を隠すついでに、この眼元のクマも随分薄く見えるようにしたはずだった。それを見破ったのだから、大した観察眼である。
「不眠症なんだよ、気にすんな」
「お薬は……?」
「昔は飲めば寝れたけど、不眠症が治る前に身体が薬に慣れちまった。五年くらい前から、こんな風に徹夜と浅い睡眠の四八時間サイクルで過ごしてる」
「……もしかして、一基様の身長が低いのはそのせいで成長が止まって――」
「うるせぇよ! 不眠になった頃には成長期も終わりかけだったんだよ! ほっとけバーカバーカ!」
涙目になりながら真咲に小学生のような罵倒を浴びせる。
しかし、真咲はそんな笑い話で終わらせようとはしなかった。
「……もしかして、何か原因があるのではないですか?」
「――ッ」
ドキリとした。
ここまで言い当てられはしないだろうと油断していたところを、鋭い一撃で突かれた。それ故に、誤魔化せるようなリアクションさえ取れなかった。
「例えば、今朝見られていた悪夢と、何か関係があるとか」
一歩、彼女は踏み込んでくる。
きっとそれが一基のデリケートな部分にあるかもしれないと、十分に予想を付けた上で、それでもなお。
「……相変わらず、嫌なタイミングでズバッと切り込んでくるな」
思えば、そもそも真咲をこの事務所に上げたときもそうだった覚えがある。バイトをせがむおかしな少女という扱いだったのに、いきなり魔術の話をされて一基の方が動揺してしまったのだ。
「俺が独立十字騎士団にいた頃の話だよ」
ぽつりと、零すように一基は言った。
はぐらかそうと思えば、出来たかもしれない。のらりくらりと適当な言葉を紡いでごまかしたって、きっと真咲も責めはしなかっただろう。
しかし。
この真咲のまっすぐな瞳を前に、そんな真似が本当に自分に出来るだろうか、とそう思った。この綺麗な澄んだ光を見て、逃げられなくなってしまったのだ。
「ある魔術結社による大規模呪術での大量虐殺が、観光地で計画されていた。俺たちはそれを止めようとして――完全に、失敗した」
ぎりっと、奥歯が鳴る。平生を装って、真咲の為に出来る限り軽い声音を心がけようとしているのに、身体はそれを許してはくれなかった。
「その計画自体がダミーだった。別の呪術――《死の業火》っていう魔術で、騎士団を含めた辺りにいた人たちが軒並み炎に包まれ、焼き殺された」
真咲の顔を見ることは出来ない。ただ、一基はじっと魔道書の適当な個所に焦点を固定してしまっていた。
「俺は魔術で家族を殺されたからさ。そんな運命にある人たちを救いたいって、騎士団に入ったんだ。才能なんて微塵もなくて、ただただ滑稽に初級魔術と肉体だけを鍛え抜いて、それでも誰かを救おうとしてた。――そして、誰も救えなかった」
あの日の被害規模は、魔術による人為的テロ行為の中で今なお最多の死傷者を出している。おそらく、家族単位で無事だった人など一人もいないはずだ。皆、誰かしらの大切な人を失っている。
「あの日以来、俺は眠れなくなったんだよ。眠る度に、あの日の光景が鮮明に蘇って俺の身体を叩き起こす。『夢を見るな』っていうことなんだろうな」
だから、一基はこの生活習慣にした。
一日徹夜して、今みたいに魔術を頭に叩き込み続けて疲労を蓄積して、その上で翌日の夜にまどろみを手に入れる。それでも、今朝のようにあの日の夢を見て叩き起こされる。
もう何度こんな毎日を繰り返したか分からない。そもそも、この部屋にある魔道書などとっくに全て暗記してしまっている。それはもう、魔道書を見なくても魔術のインストールが出来るレベルに。
「分かったろ? どうしようもないんだよ、これは。俺は放っておいて、お前はさっさと寝なさい。寝不足でも仕事はきっちりしてもらうぞ?」
「……駄目です」
しかし、真咲はそう言った。
こんな話をすれば、みんなだいたい目を逸らす。当事者であった騎士団の団員でさえ、その調子だった。どうリアクションするのが正しくて、どう言葉をかければ傷つかないのか。そんなことを考えて、そこで思考はフリーズする。
なのに、真咲は違った。
「それじゃあ、いつか一基様が倒れます」
「……、」
一基には、何も言えなかった。
真咲の心配は至極真っ当なものだ。それが分かっているから、家族だったセレーナにも、もう薬が効かなくなってしまったことだけは伏せている。
ただ、その心配が胸にチクリと棘を残す。
あの悪夢は、誰一人救えなかった自分への罰だ。目の前で焼かれた仲間が、家族を失い絶望したあの少女が、一基を心の内から責め立てる。
「一基様が寝ないのなら、わたしも寝ません」
「……お前の方が身体を壊すぞ」
「本望です」
「バカ野郎……っ」
ぐしゃぐしゃと髪をかきむしって、一基は呻く。
こんな贖罪にもならない贖罪に、他人の真咲を撒き込むなど馬鹿げている。だが、当の真咲に引き下がる気がないのは明白だ。
「――っクソ、仕方ねぇ。寝れるかどうかは別にして、お前の隣で横になっとくよ。それでいいんだろ」
「はい!」
真咲が満面の笑みで頷くのにため息で返し、一基はそのまま諦めて魔道書を棚へとしまい、渋々と言った様子で自室へ向かう。
そして、自分の部屋を見て一基は途方もない疲労感に襲われた。
「……おい、真咲」
「何でしょう?」
「部屋に折り畳みベッドを置くことは、許可した。それはじゃんけんで決めたことだからな。だが、俺のベッドとは離せと厳命したはずだが?」
一基が指差す先では、仲良くベッドが二つくっついて、キングサイズのベッドのようになっていた。完全に一基の言葉を無視している。
「離しましたよ、一ミクロンほど」
「誤差の範囲だ、そんなもん!」
欠片ほども悪びれる様子なく言う真咲に言葉を飛ばすが、彼女は差して気にする様子もなくさっさと折り畳みのベッドに腰掛け、ポンポンと布団を叩いて一基を促す。
「さぁ、どうぞ」
「……お前、いつかオオカミに食われるぞ」
「一基様なら大歓迎ですが」
「寝言は寝て言えよ」
「扱いが酷い!?」
驚愕する真咲の横をすり抜けて、一基はさっさと自分の布団の中に入る。
どうせ眠れやしないが、形だけでも言うことを聞いていなければ真咲の方が無理をする。そうやって自分のトラウマに他人を巻き込むのだけは、一基も容認できない。
すると、真咲はそっと一基の手に自分の手を重ねてきた。
優しく、温かく彼の手を包む。
「恐い夢を見たときは、握り締めちゃってもいいですよ?」
「……あほか」
こんな子供にあやされているようで癪に障るが、一基はその手を振り払うこともなくそのまま瞼を閉じた。




