第13話 「わたしの幸せって、なに?」
白い、白い空間だった。
壁もベッドもシーツも、そこに座りこんだ自分さえも。
神崎真咲は、ただじっとその空間に佇んでいた。
もう十年近く暮らした場所だ。離れていた期間も、たった数日でしかない。
なのに。
そのはずなのに。
「……一基様……」
あの居場所がどれほど大切なものだったか。今さらになって気付かされる。
ぽつり、と。
手の甲を濡らした滴に気付いて、真咲はそこで涙を流していることに気付いた。真っ白い世界の中では、視界が滲んだことにさえ気付けなかった。
「キュ?」
小首を傾げながら、まるで主人を気遣うかのように狐の使い魔――コンが真咲の頬を伝う滴を舐める。
ただ魔術を行使するだけの存在なのに、その舌はどこまでも温かかった。
「ありがとう、コンちゃん」
コンを抱き寄せ、その温かさを全身に感じる。
呪術に侵されて以来、真咲は病室を出ることなどほとんど出来なかった。紫外線を防ぐ薬だってタダではないし、中期に入れば免疫力が低下する。こうして動物と触れるなど、夢のまた夢だった。
けれど使い魔は、厳密には生物ではない。だから病室に入れることも出来るし、《緩やかな死》という呪術に蝕まれた身体でも触れ合うことが許される。
「これも、一基様がくれたもの……」
真咲の全ては、きっと彼に与えられたもので埋め尽くされているのだろう。
元々の真咲には、何もなかったから。
この呪術に侵された日、真咲は家族を失っている。今では、どこかの遠くの親戚が財産管理という名で治療費を振り込んでくれているだけだ。
見舞いになど誰も来やしない。
真咲の病は呪術によるもので、不幸中の幸いと言うべきか感染する為のプログラムは有していない。飛沫だろうが接触だろうが、同じ魔術を行使される以外にこの病にかかることはない。
だけれど、人の感情はそう簡単に割り切れない。
もしかしたら、突然変異があるんじゃないか。そんなどこにも根拠のない疑心暗鬼のせいで、真咲の周りにはついぞ誰もいなくなった。
だから、生きることに絶望した。
どうせ死ぬのなら、短く、輝くような日々を。
そうして真咲はこの病室の外へ飛び出した。
一基の傍にいること。ただそれだけを求めて。どうせ後がないと思えば、図々しかろうが何だって出来てしまった。
けれど。
真咲は見落としてしまった。
東雲一基に与えられるばかりで、真咲は彼に何もしてあげられなかった。それどころか、彼に幸せの責任まで押し付けようとしていた。
この狭い空間に押し戻されても当然だ。それだけのことを、彼女はしてしまったのだ。
「一基様……」
謝らなければいけないことはたくさんある。
でもそれすら、この真っ白い世界では叶わない。
それでもいいじゃないか、と心の奥に蠢く何かは言う。
どの道、神崎真咲の人生に意味はない。子供の頃に全てを奪われた彼女は、世界の何にも関わることが許されない。
学ぶことも、働くことも、恋をすることも。
きっと世界は優しいから、ごっこ遊びみたいなことくらい許してくれる。そのぬるま湯に浸って、自分で自分を騙しながら、こんなわたしでも健常者みたいに生きられるんだと、涙ながらに笑うしかない。
だがそこに、果たして意味があるのか。
そこに、神崎真咲の幸せは存在するのか。
答えなど決まっている。だから涙が止まらない。
そして。
そこで、神崎真咲は一つの疑問を抱く。
「……じゃあ、わたしの幸せって、なに?」
呪術に侵されずに済んだ未来か?
だがそれは幸せではなく、ただの平凡だ。誰しもが持っていて、けれど失った途端に大切さに気付くもの。きっとそれは世界の何よりも大事なものなのだろう。――しかしそれでも、幸せとは違う。
神崎真咲の、神崎真咲だけの幸せは、どこにある?
「――っ!」
それを考えた瞬間、たった一人の少女はもう一度、自らの意志で立ち上がる。
その幸せを、この手で掴み取る為に。




