*4. What is your name?
あの後彼は壁に並んでいた扉のうちの一つを開いてくれた。その先に広がっていた花園のようなお花畑を通って、草原に出て、もうどのくらい経ったのだろう。今もまだ歩き続けている。
ダイナは名乗ったというのにまだフードを深くかぶったまま。いい加減、外しても良いと思う。
「……ダイナ、だっけ」
「そうだよ」
こちらの質問には答えてくれる。けど、彼はそれ以上のことは何も言わない。その上答えてくれる質問と、そうではないものもある。
「物語を終わらすってどういうことなんだよ? 意味分かんない。説明して」
「しぃー。アリス、君はそんな言葉を使わない。そうでしょう?」
……まぁ、こんな感じに。こういった内容の質問には、はぐらされて答えてくれないのだ。
「じゃあ、物語を終わらすってどういうことなんですかー」
「そのままの意味だよ」
答えてくれても、返ってくる言葉はちっとも具体的じゃない。
何度このやり取りをしたことだろうか。深いため息が口から出てくる。
「本当にこのまま行けば『白ウサギ』に会えるの?」
「もちろん。もうすぐ、彼からやってくるはずさ」
諏訪からこっちにやってくるってこと、かな。記憶もないのに?
先ほど拾った眼鏡はエプロンのポケットにしまっておいた。黒ちゃが言ってた『大切な物』に俺が触れると、その持ち主の姿が浮かぶらしい。これなら俺の知らない人がこの世界に迷い込んでいても、物さえ見つければ届けることが出来るかもしれない。
隣に居るダイナは、俺の知っている人なのだろうか。声は聞き覚えが無いけれど、顔さえ見ればピンとくるかもしれないのに、見せてくれないから分からない。いっそ聞いてみようと口を開く。
「ねぇ。ダイナ。あなたは私の知ってる人?」
「それは秘密だよ」
……秘密にされた。
「あぁ!! あぁ!! ここにいたのか!!」
どたどたと走ってくる音が聞こえてくると思えば、前からやってきたのは『白ウサギ』の諏訪。ダイナの言う通りに本当に彼からこちらにやってきた。俺は諏訪を見てからダイナを見ると、彼は微かに口元を笑わせる。
「探したんだぞ!!」
諏訪は俺らの近くまで走ってきて、立ち止まったと思ったらそんなことを言ってきた。
「え? 探した?」
探してたのはこっちの方なんだけど?
反対のことを言われて目を見張る。彼の表情は真剣そのものだった。
「ほら、行くぞ。メアリー・アン。早く探し物を手伝っておくれ」
ぐい、と彼に手を引っ張られてしまう。戸惑って踏みとどまろうとしても、反動で一歩二歩足が前に出てしまった。
『アリス』の次は『メアリー・アン』かよ!!
「ちょ、ストップ……ッ、諏訪!!」
連れていかれる前に、記憶を取り戻さしてあげなきゃ……!!
俺は空いている手をエプロンのポケットに入れて、拾った眼鏡を取り出すと、彼の手にそれを触れさせようとする。
例外なんて物が無ければ、これで諏訪の記憶も戻るはず!!
「ッ!?」
眼鏡が彼の手に当たると、彼が息を呑んだのが分かった。諏訪はこちらの手を離して数歩距離を取る。眼鏡がころんと地面に転がった。
数秒、俺らの間に音が無くなったかのような静けさが訪れる。意を決して俺は口を開いた。
「……ねぇ。あなたの、名前は?」
黒ちゃが俺に問いかけたのと同じように。ゆっくりと、そう彼に言葉をかける。
「す……諏訪。諏訪浩……」
顔を上げ、まだ迷いのあるような表情で彼は自らの名を言い漏らした。
良かった。思い出してくれたんだ……!! 体中の力が、安心で抜け切る勢いだ。
「お、俺は一体……。何をしてたんだ?」
惑ったように諏訪は呟く。やはり訳が分かってないみたいだ。
辺りを見回した後、彼は落ちた眼鏡を拾ってかけると、何度か瞬きをする。そして彼自身の服装を見ては声をあげた。
「ッ!? な、なんだこれは……!!」
いいじゃん。諏訪は。まだジャケットにスラックスじゃん。制服と大して変わらないじゃないか。それに比べて、俺は……。
彼は自身の服をまじまじと見た後、やはりこちらの方を見て目を見開いた。
「こ、虚空、お前のその格好って」
「やめてそれ以上言わないで!!」
言われると身構えていたけど、いざ言われると恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだ。
「お、おう。大丈夫だ、似合ってるぞ……」
慰めはなお一層恥ずかしく思ってしまうからやめてほしい。うぅ、と顔を手で覆う。絶対これ赤くなってる。くそう。
「虚空のそれ、『アリス』、だよな? そうか……だから『白ウサギ』なのか、俺は。そう思いこんで疑わなかったな」
さすが諏訪と言うべきか。落ち着きを取り戻しつつ、早くも状況を理解し始めている。
何だか随分久しぶりに『虚空』と本名で呼ばれた気がしてならない。こっちに来てから、『アリス』と呼ばれ続けていたからなぁ。
「良かった。諏訪、思いだしてくれて」
「あぁ」
彼は頬を緩ませて頷いた。
これで穴に落ちてから、やっと俺が零だって分かってくれる人に会えた。この調子で、ダイナに連れて来られたであろう、元の世界の人たちの記憶も思い出させてあげられるといいけど……。
「そうだ、ダイナ、次はどうすれば――ダイナ?」
振り返ると、後ろに居たはずのダイナの姿が無かった。周りを見ても黒いローブの人は見当たらない。『白ウサギ』といい、動物たちといい、ここの世界の人たちはいきなり消えたり現れたりすることができるのだろうか。
「……ダイナ? 誰のことだ、それ」
諏訪は首を傾げる。
そうか、諏訪は何も知らないんだった。全部話さないと。
「あ、うん、えっと……」
説明しようと口を開いて言い終える前に、かくん、と何の前触れもなく足の力が抜ける。その流れでへなへなとその場に座り込んでしまった。あ、あれ。おかしいな。足に力が入らない。緊張の糸が途切れてしまったらしい。
「お、おい虚空、大丈夫か?」
「あ、あはは、何か安心したら力全部抜けちゃった」
諏訪は慌ててしゃがみこんで視線を合わせてくれる。下手な笑顔を取り繕って彼に向けると、やれやれと言わんばかりの表情を見せてきた。
「少し休もう。無理しても意味がないからな」
「ごめん……」
謝ると、彼はいつもの調子で笑う。
「いいさ。気にするな。俺も……頭の中を少し整理したい」
彼は俺の隣に座って大きく息を吐いた。
目を閉じて周りが何も見えなくなると、音がより一層大きく、穏やかに聞こえて。吹き抜けて行く風の音、草と草が擦れる音。ここが現実の世界ならとてもいい環境なのに。
どうして、こんなことになっちゃったんだろう。
「……終わらせなきゃならないの」
真っ暗な視界。囁くように言う。
「何を?」
目を開いて、聞き返してきた諏訪を見る。キョトンとした彼の顔がそこにあった。
そんな彼に、端的に、短く答える。
「この、物語を」
そして俺は話し始めた。この世界のこと、これまであったこと、見たもの、聞いたもの、全てを。