*3. Who are you?
「す、諏訪って、こんなに、足、速かったっけ……ッ!?」
息を切らしながら彼の後を追う。ワンピースで走るなんてもしかしたら初めてかもしれない。ズボンと比べて足が自由に動くから、普段より速く走れていると思うのに、一向に彼と自分の距離が縮まらないままだ。
「諏訪ッ!! 止まれって!! お前足速すぎ!!」
……と、声をかけたところで聞いてくれるわけもなく。
ええと、この後どうなるんだったっけ? 白ウサギを追いかけて、アリスは確か――。考えながら走っていると、突然諏訪の姿が消えた。
「え!?」
急に立ち止まれずに、俺はそのまましばらく走り続けてしまう。
あれ。思い出したぞ。白ウサギは消えるんじゃなくて……穴に、落っこちるんじゃなかった?
案の定、踏み出したはずの足が地面につくことはなかった。真下を見ると、人間一人が入るには十分な大きさの穴がぽっかり空いていた。
「わああああっ!?」
何の抵抗もなくそのまま俺の体はほぼ垂直落下。まるで遊園地のフリーフォールのように。悲鳴が口から飛び出てくる。
絶叫系は大の苦手なんだけど!! こういうの何で配慮してくれなかったんだよ!?
怖くてギュッと目を瞑るが、体に感じる風の強さがいきなり弱くなった。足が地面についた感覚は無い。おかしいな。まだ落ち続けているはずなのに。不思議に思ってうっすらと目を開けてみる。
「わ……ッ!?」
穴の壁にはずらりと本棚が並び、俺の周りにはぬいぐるみやキャンディー、クッキーなどの可愛らしい小物とお菓子がふよふよと浮いていた。
こ、これがワンダーランド? 不思議の国?
「す、げー。何これ」
落下していくこの浮遊感にもいつの間にか慣れて、すぐ近くに浮いていたクッキーを掴んでみる。美味しそうなチョコチップクッキーだ。食べようと思って手を止める。
アリスって、ここの世界の物を食べて大きくなったり小さくなったりしてたよな。迂闊に物を口にしない方がよさそうだ。
クッキーから手を離すと、ふわ、と一層の浮遊感を感じた。下を見るとすぐそばに床がある。少し怖がりながらも、床に足を着けて立ってみた。上を見上げても真っ暗で何も見えず、前方を見ると、長い長いトンネルが続いている。
「変なの。ほんとに……あ!!」
と、そのトンネルの少し先に、諏訪が走っているのが見えた。めちゃくちゃ慌ててるけど、あれ、転ばないかなぁ。大丈夫かな。
「急がないと、急がないと……遅刻、だっ!!」
諏訪の大真面目な声は、反響してこちらまで届いた。こっちも急がないと見失ってしまいそうだ。彼の背をひたすらに追いかけはじめる。角を曲がったところで、天井の低い広間に入ったが、また忽然と追いかけていた諏訪の姿が消えてしまった。
「あ……あれ? 消えちゃった……」
再び穴にでも落ちたのかと思ったけれど、足元を見ても穴は見つからない。広間の両壁にはドアがずらりと並んでいた。もしかして、このドアのどれかに入って行ったのかも?
と、思って手前のドアノブを掴んで回してみるものの、ガチャガチャと音がするだけで開く気配は全くなかった。いくつか確かめてみたけど、どれも結果は一緒。
「えー。諏訪、どこに行ったんだよー。これじゃ先に進めないじゃん」
少々口を尖らせて広間の中央に戻ってくると、小さなテーブルとその上に置いてある瓶を見つけた。瓶を手に取ってみるが、中身は空っぽだ。『Drink me!!』と書かれた紙の札が瓶に巻きついているだけ。
誰か先に飲んじゃったみたい。誰が? 諏訪か?
「あれぇ、アリスー? 何でここに居るのー?」
後ろから声をかけられる。振り返ると、そこには一匹の鳥に、カモに、インコに、ネズミに、ワニ。動物が言葉を発して話しかけてきたのだった。あぁそっか、この世界、動物喋るのか。不思議と納得できてしまう。
「もう『白ウサギ』と一緒に行ったんじゃないのか?」
「……どういうこと?」
ネズミの言葉に、しゃがみこんで思わず聞き返した。
それじゃまるで『既にアリスがここに来た』って言い方じゃないか。
「だって、ここに来て、瓶の中の飲み物飲んで、小さくなって泣いて、作った池で僕と泳いで岸に上がって走って――」
「あーぁもう、ぐだぐだめんどくさいなぁ。何をぐちゃぐちゃ言ってるんだよー。アリスがまた来たってことは、同じように繰り返さないと、だろー」
説明してくれたネズミに、インコはとてもだるそうに言う。真面目そうな話し方がネズミで、間延びした喋り方がインコ。ふと横を見るとワニは大欠伸をしてるし、カモは寝かけてるし、鳥は退屈そうにしていた。うわぁ、すごく分かりやすい。
「瓶の中の飲み物はどうする? もう無いぞ」
「テーブルの上に置き直せば大丈夫だってー。また復活するよー」
「な訳あるかッ!! 無くなった物は戻せないんだぞ!! 0に何をかけても0だろう!!」
「何を言っているの? かけて駄目なら足せばいいんだよー」
このネズミとインコ、何をこんなに言い争っているのだろう。数字出てきたし。
「あのー、すみません。俺、『白ウサギ』を探してるんですけど」
「アリス!! 君は本当に『アリス』かね!?」
いきなりネズミが放った言葉に、確信をつかれたみたいで、心臓が飛び出そうになった。気づけば動物たちは皆真っすぐと真面目な目をしてこちらを見ている。これは、マズい。正直に違うと言った方がいいのか、それともアリスだと言った方がいいのか。二秒間の沈黙の後俺は口を開いた。
「あ、アリス……ですっ」
「本当に?」
「そ、そうなの。本当よ。嘘なんかじゃないわ」
うえ。我ながら、女言葉を使うなんて少し変な感じ。普段の口調が荒いせいなのか全然しっくりこない。違うだなんて言えなかった。あまりにも動物たちの目が真剣すぎて。
「でもアリスはさっき行ったはずじゃ」
「アリスが『アリス』だって言うなら、そうなんじゃない?」
「ほらー。もう一回やるしかないんだよー」
「でもどうするの。体は小さくさせられないよ」
「池、泳がないと、景色も変わらないしね」
再び動物たちの話し合いが始まった。今度は退屈そうにしていたワニたちも参加している。
どういうことなんだろう。やっぱり俺じゃない『アリス』が先にここを通ったってこと? でも物語を終わらせられるのは俺だけ、って言ってたよな。頭こんがらがってきた……。
「お困りかな。アリス」
「うわああああッ!?」
またいきなり後ろから声をかけられた。驚きでその場に座り込んでしまう。
「あぁ。ごめん、アリス。驚かせちゃったね」
首だけ動かして後ろを見ると、テーブルの上に誰かが腰かけていた。黒いローブにフードをかぶった人物――俺をこの世界に連れてきた、張本人だった。
「お、お前ッ……!!」
「しぃー。アリス、君はそんな言葉を使わない。そうでしょう?」
「むぐっ……」
ローブの人物は人差し指を口に当てて諭すように言ってきた。そんなこと言われると思わなかった。反論する余地もない。
動物たちも喋るのをやめたらしく、ひっそりと、静寂が訪れた。
「さてアリス。何で、お困りかな」
声からして男性だろうか。彼は足をブラブラとさせてそう問いかけてきた。
「白ウサギを、追いかけたい……の」
「それで?」
「でも、見失っちゃって。どこに行ったか、分からないんだ」
言い終えると、周りに居た動物たちがわっと騒ぎ始めた。
「でもこの子は『アリス』じゃないかもしれない!!」
「いいや、『アリス』だよ!! 間違いなく!!」
この動物たち、中々鋭いなぁ……!!
内心冷や汗をかいたところで、ローブの人物はクスリと笑いをもらす。
「この子は『アリス』だよ。何をそんなに慌てているんだい?」
「だってさっきもアリスが通って行ったから……」
「それは君たちが寝ぼけすぎているんだよ。この子が本物の『アリス』さ」
彼は咎めるような言い方でも、馬鹿にした口調でもなく、淡々と、抑揚のない声で動物たちに告げる。
「……ナがそう言うのなら、そうなのかも」
ワニは小さく呟いた。すると他の動物たちも次々に頷いては、彼らの口から肯定の言葉があがって大きくなる。
ナ? 何て言ったの、今。あぁ、ここの人たちってみんなそう。声が小さくて何言ってるのかさっぱりだ。
「『アリス』は僕が連れて行こう。おいで、アリス」
彼はテーブルから降りると床に足をついてこちらをじっと見てくる。
俺がしゃがんだままでも、やはり彼の顔は口しか見えない。角度的に口から上が見えてもいいはずなのにな。
「あぁ、待て。今から白ウサギのところに行くんだろう?」
立ち上がろうとしたところに、ネズミにワンピースの裾をぎゅっと掴まれて動けなくなってしまった。
「う、うん。そうだけど」
「ならあそこにある大きな二つの虫めがね。ウサギに届けてやってくれ。あいつ、あれを落として行ったのさ。俺たちじゃ重たくて持てないからね」
ネズミが指さす方向には、大きな二つの虫めがね、というより、一つの眼鏡が転がっていた。二つって、レンズが二つあるからそう見えたのか。例え方が何だか微笑ましい。
でも、眼鏡なんて、物語の中で拾うっけ?
手にとっていいのかどうかが分からなくて、黒いローブの彼の方を見る。彼はこくりと頷いた。拾っても良いという合図だろう。
「分かった」
ネズミに返事をして、立つと眼鏡に近づいて拾い上げる。
――バチィッ、と目の前が一瞬真っ白に染まった。ブレスレットに触れた時と同じような感覚に襲われる。脳裏に浮かんだのは俺の記憶では無くて、『諏訪浩』の姿だった。
「……この眼鏡、諏訪の?」
「アリス」
独り言のように呟いたそれは、ローブの彼に聞かれていたらしい。距離が大分離れているというのに何て聴力だ。
振り返るとそこにはもう動物たちの姿は無い。ただ一人、名前を呼んだ当人が立っているだけだった。
「『白ウサギ』を追いかけよう」
静かに手招きをされる。未だに正体も分からない、黒いローブの人物に。ハッとして踏み出そうとした足を一度引っ込めた。
いいの? このまま、誰か分からない『彼』に、着いて行って。誰なのか確かめなきゃ。聞いてみないと。
自問自答し、唇を噛んでエプロンを掴んだ。真っすぐに彼を見据える。
「あなたは、誰?」
問いかける。しばらくの沈黙が訪れた。
「僕は君の味方だよ」
何、その胡散臭い言葉。簡単に信じられるわけないじゃん。
「名前を教えて」
むっとして再度問いかける。彼はまた、黙った後に口を開いた。
「僕は猫の『ダイナ』だよ。アリス」