*2. Who am I?
気がついたら、大きな木の幹に寄りかかる形で座っていた。
隣に紺色の髪をした少女も座っている。何やら真剣そうな表情で、彼女は手に持っている本を見ていた。
あれ……? 私、何してたんだっけ。あ、そうだ、隣に座っているのは私のお姉さんだ。あまりにも退屈だからうたた寝でもしちゃったんだ。だってお姉さん、難しい本しか読まないんだもの。
「……起きた?」
お姉さんに声をかけられる。彼女の青い目がこちらを見た。
「私どのくらい寝ちゃってたの?」
「そうねー……十五分くらい?」
彼女はそう言って微笑んだ後――持っていた本で何故かこちらの頭を叩いてきた。
「ったいっ!?」
いきなり起こったことに対応が出来ず、私は叩かれた頭を押さえた。
「何が『私どのくらい寝ちゃってたの』、だよ。目を覚ませ、アリス。……いや、零ちゃ!!」
零、ちゃ? 何を言っているんだろう。私はアリス。……アリス? 自分で考えててもよく分からなくなってきた。
「憶えてないんだ? ってことは本当に……。はぁ。まあいっか。ねぇ零ちゃ。これに見覚え、あるでしょ?」
彼女は着ているワンピースのポケットから、一つのブレスレットを私の前に出してきた。
見たことないそれに、首を傾げる。
「知らないよ。そんなもの。綺麗だねー」
思ったことをそのまま口にした。シルバーのチェーンのそれには、四角いプレートのようなものに、表と裏に二つずつ、合計四つの石がはめ込まれていた。太陽の光を浴びて石はキラキラと輝いている。
「……駄目だ、こっちが調子狂うわ。はい、これに触って!!」
ため息交じりにお姉さんはそう言えば、無理矢理に私の手を掴んでそのブレスレットに触れさせる。人差し指がそれに触れた瞬間――バチィッ、と強いフラッシュを浴びたように、目の前が一瞬光に包まれた。脳裏に蘇ってくるのは、『虚空零』の記憶。
「え……あ、あれ……?」
目を瞬かせる。記憶を辿ってはっとした。
そうだ、そうだよ。何が『退屈してうたた寝』だよ。違うだろ、俺は学校でテスト勉強していて、それで変なローブの奴に、アリスって呼ばれて……気がついたら、こんな場所に居て、自分を『アリス』と思い込んでた。
「……はぁ。ねぇ、君の、名前は?」
隣の『お姉さん』だと思っていた少女は、俺の親友の朝霧黒雛だった。呆れ顔で聞いてくる。
え、っと。何で黒ちゃがここに? 疑問は積もるばかりだ。
「こ……虚空、零……」
「大正解。もー、調子狂うよ。やめてよ、零ちゃはもっと口調荒いよ!!」
額に思いっきりデコピンされる。もっと口調荒いって、地味に傷つくからやめてほしい。
彼女は呆れ顔をした後にニッと笑って見せた。そのまま視線を下にもっていくと、彼女の服装が目に入る。彼女は普段着ないような、紫色のひざ下まであるワンピースに、いつもの黒水晶のペンダントを首から下げていた。
黒ちゃが『アリスのお姉さん』の服装? ということは、まさか俺も……?
「待って。何、この格好」
予想通り、俺は『不思議の国のアリス』の『アリス』の服装に身を包んでいた。水色のワンピースに、白いエプロン。黒いブーツに黒と白の縞々模様のソックス。頭の上の赤い伊達眼鏡だけは変わらなかった。
「ぷーくすくす……お似合いだよ、零ちゃ」
「やめて!! めっちゃ恥ずかしいから!!」
クスクスと笑う黒ちゃに、少し頬を赤くしながら必死に言う。
何だこれ。コスプレかよ。服のサイズはぴったりだけど、これは悪意があるとしか思えない。
「……さてと。まぁ、なーんてふざけてる暇もないんだよねぇ。はい、ブレスレット。ちゃんとそれつけておくんだよ? 無くしちゃ、駄目だからね」
「お、おう……」
受け取ったブレスレットを、いつもつけている場所と同じ、左手首につける。
これはジャックに貰った大切な物だった。それすらも忘れてただなんて、俺、どうかしていた。
「『白ウサギ』が来る前に、話したいことがあるの」
黒ちゃは真剣な顔をしてこちらを向く。
「な、何だよ。さっきから、『アリス』だの『白ウサギ』だの。しかも何でここに黒ちゃがいるんだよ?」
「それも説明する。時間が無いんだ。今は、私の話を聞いてくれる?」
彼女の真面目な目は真っすぐにこちらを見ていた。
久しぶりに見る彼女のその表情に、ぎこちなく頷く。
「まずね。ここの世界のことについて話すね。……お察しの通り、ここは『不思議の国のアリス』の世界。あの黒いローブの人に私は話しかけられて、どういう訳か、気づいたらここに居たって感じ。『アリスのお姉さん』役として、ね」
「え、あの黒いローブの人って……!?」
自分のことを『アリス』と呼んだ、あの人だろうか?
「あぁ、やっぱり。零ちゃもその人に連れられてきたんだね。じゃぁ……他の人もそうなのかな」
彼女は考え込むようにそう言ってから、顔をあげてこちらを見る。
「さっき、零ちゃは自分のことを『アリス』だと信じ切っていたでしょ? 私も最初はそうだったんだ。自分を『アリスのお姉さん』だと思ってた。でもこのペンダントに触れて――自分が『朝霧黒雛』だって思いだした」
ペンダント。黒水晶のペンダントだ。黒ちゃがずっと大切にしている物の一つ。
あれ? でも、そのペンダント、確か俺が預かってたはずじゃ……。
「私が気がついた時にはもう零ちゃが隣に居て、このペンダントを握り締めていたんだ。気になってそれに触れたら全て思い出した、って感じだね」
『お姉さん』役が黒ちゃ。『アリス』が、俺。
ふと、さきほど彼女が呟いた言葉を思い出した。
「……さっき、黒ちゃは、他の人もそうなのかな、って言ってたけど」
嫌な予感がする。恐る恐る尋ねると、彼女は一つ頷いた。
「うん。私たちと同じように、『キャラクターと入れ替わっている』可能性がある。記憶も無くして。記憶を取り返すには、その人の大切にしている物を触れさせること。じゃないとその人はずっと自分がこの物語の登場人物だって思いこんだままになっちゃう」
この物語にはたくさんの人物が、動物も含めて、登場していたはずだ。
そのキャラクター一つ一つと、俺らの居た世界の人たちが、入れ替わっているかもしれない。ぶるり、と悪寒がした。突拍子の無い話に何も言えなく……。待ってよ。ってことは?
「俺たち……元の世界に帰れないの?」
黒ちゃは一度息を吐いてから口を開く。
「分かんない。でも、これ見て」
彼女は持っている本を開き、見開いて俺に見せた。そのページにはこう書かれていた。
――this story must be brought to the end.
You’re the only one who can do.
Please bring this story to the end.
The truth is always on your side.
「『この話を終わらせることができるのは、あなただけです。どうかこの話を終わらせてください。真実はいつもあなたのそばに』」
すらすらと黒ちゃは英文を意訳してくれた。
『この話を終わらせることができるのは、あなただけ』? 確か、黒いローブの人物も同じことを言っていた気がする。
「物語を終わらせれば、何か掴めるかもしれない。この本が、ここの世界が『不思議の国のアリス』だって教えてくれたの。だから間違いは無いと思うよ」
じっと英文を見る。インクで書かれた、綺麗な字だった。
すると先ほどまで書かれていたそれが消えて、新しい英文がページに現れた。
――Look for the true puppet player.
「……ごめん、黒ちゃ。何て書いてあるの、これ」
上手く訳せない。ここは素直に黒ちゃに頼むことにする。
「えっと……。『本物の傀儡師を探せ』だって」
だって、って言われても。
じっとそのページを見た。文が消えたり現れたり、変な本だなあ。
「意味、分かんない」
ため息交じりにそう言った。
かいらいし、って何? その言葉の意味すら分からない。少なくともそんな名前のキャラクターはこの世界には居なかったと思うけど。
ふと黒ちゃを見ると、何故か彼女はクスリと笑みを見せた。
「……そう? 私、分かっちゃったかも」
「え!?」
「でも言わない。私が分かったって意味ないもん。……主人公が、話を終わらせに行かなきゃ。私は『お姉さん』役。序盤の登場が済んだらしばらく役目はないから。『白ウサギ』を追いかけて、不思議の国に行かなきゃ。ね?」
……嘘だろ? 本気で言っているのか、黒ちゃは。
未だに状況は上手く飲み込めない俺の手を彼女は握ると、目と目を合わせてくる。
「大丈夫。零ちゃならなんとかなる。『アリス』だから。主人公が一番好き勝手できるんだよ。本読んだことあるけどさ、元々の物語の『アリス』も、かなり好き勝手やってたからね? だから零ちゃも思うようにやってきなよ」
う、うん、そうかもしれないけどさ。ならここの主人公はかなりのおてんば娘だったんだな。
「どうせだし、楽しんできなって」
彼女は手を離すとそれをグーにしてこちらに向ける。屈託のない、笑顔を見せて。
正直不安しかない。躊躇もしている。片手でグーを作ったのはいいけど、彼女のグーにこれをぶつけることはできなかった。
「なるようになると思う?」
「なる。ふふ。ピンチはチャンス、だよ」
俺の問いかけに彼女は即答してきた。
……言う通りかもしれない。物語の中に入れるなんてそうそうないぞ。前向きに捉えたら楽しんじゃないか?
徐々にそう思い始めてきた時だった。
「あぁ、急がないと、急がないと!!」
男性の声が耳に飛び込んでくる。やけに焦った感じに取れた。
声の方を向くと、そこには――。
「す、諏訪……!?」
そう、学校で一緒に勉強していた諏訪が、ワイシャツに茶色いジャケットとスラックス、黒いベストと赤いネクタイをしめて、俺たちの前を足早に走っていった。
まさか、彼が『白ウサギ』? 頭の方を見たが、ウサギ耳はついていなかった。もしこれで耳が頭についていたら、腹を抱えて笑っていただろう。
「あ。『白ウサギ』。あの子と知り合いなんだね。ウサギの耳は生えてないねぇ。生えてたら笑ってたかも」
どうやら黒ちゃも俺と同じことを考えていた模様。
「ほら、追いかけなよ、『アリス』。ウサギを見失う前に。……あなたしかこの話は終わらせられないわ」
まさに役になりきったように黒ちゃは楽しそうに笑って言う。
諏訪の方を見ると、ジャケットから何かを取り出しつつ走っていた。この程度の距離ならまだ追いつける。『アリス』がウサギを追いかけなきゃ、物語は終わらすどころか始まらせることもできない。
黒ちゃと白ウサギの諏訪を何度も交互に見た後に――俺は作ったグーを黒ちゃのグーにぶつけた。
「行ってくるよ、お姉ちゃん」
こんなことを言うのは何だか恥ずかしいけど。
俺は立ち上がると諏訪を追いかけようと走り出す。
「……いってらっしゃい」
小さく呟いたであろう彼女の言葉は、風に乗ってそっと俺の耳に入り込んだ。