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予言シリーズ

愛を紡ぐ少女

作者: 雲居瑞香

『残虐皇帝と予言の王女』から300年前の話。

最後の方にちょろっとニコレットの名前が出ています。











 10年ぶりに、その塔の扉が開かれた。エアハルト・ローマイアーは薄暗いその塔の中に入る。




 薄暗いのは、明かりを節約しているからだろう。狭いながらも人が生活している形跡がある。テーブルや食器などはきれいにされていて、埃も積もっていない。

 住んでいる人は、きっと几帳面なのだろう。そう思いながら、住人の名を呼んだ。


「殿下! ハイデマリー殿下! いらっしゃるのであれば、出てきてください! 殿下!」


 すると、エアハルトの周囲を円を描くように青色の炎が囲んだ。その幻想的な色の炎に、エアハルトはつい、触れようとする。


「その炎には、触らないことをお勧めする」


 落ち着いた声が聞こえた。そちらに目を向ける。薄暗い部屋は、青色の炎によって照らしだされ、同時にその人も照らしていた。


 波打つ黒髪に、黒い瞳。真っ白な肌に、着古した黒いドレス。かなり小柄であるが、顔立ちは整っていた。細身だが不健康な印象はなく、骨格が細いのだろうと思わせた。



 この人が、第7皇女ハイデマリー。『真実の愛』の予言を受けた少女。



 この世界には、魔法がある。そして、稀に予言を授けられる子が生まれる。その中の1人が彼女、ハイデマリーなのだ。


 彼女が授けられた予言は、『この子は、本当の愛を知るだろう』。予言が必ず実現するかはわからないが、わかっている限りでは実現する可能性はかなり高い。しかし、ハイデマリーに限っては予言が現実となることはないだろうと言われていた。この塔に閉じ込められているためだ。


 ちなみに、予言はハイデマリーが塔に閉じ込められた理由ではない。エアハルトは彼女の言葉の通り、炎には触れないようにしながら名乗った。


「私は、エアハルト・ローマイアー。ローマイアー公爵の長男です。ハイデマリー殿下のお力を乞うため、参上しました」

「……」


 ハイデマリーはいぶかしげにエアハルトを見、ついで言葉を発した。


「わたくしに力などない。お帰り願う」


 ハイデマリーは右手を持ち上げ、去れ、という風に手を軽く振った。すると、エアハルトの後ろの炎が消えた。それを一瞥したエアハルトは、ハイデマリーに尋ねた。


「殿下は、外で何が起こっているかご存知ですか?」

「政変が起こったことは、知っている。それ以上は知らない。興味もない。帰りたまえ」


 ハイデマリーがエアハルトの背後の扉を指さす。よく見ると、彼女の両手首、そして首には金属の腕輪と首輪がつけられていた。それを見て、エアハルトは顔をゆがめる。


「私が、皇帝である殿下の兄上を倒しました」

「だから?」

「あなたに、次の皇帝になっていただきたく……」

「先の皇帝を倒したのであれば、あなたが皇帝になればいい。くだらない。わたくしは失礼する」


 さっと身をひるがえしたハイデマリーに、「待ってください!」とエア這うとは声を張り上げた。


「私が皇帝になっても、市民は納得しない! 幽閉された皇女が帝位を継ぐからこそ、人々は我らに同意を示すのです!」


 これは、エアハルトの行為を正当化するためのものだ。そのために、ハイデマリーを利用する。そう叫んだエアハルトに、まだ18歳の皇女は威厳のある声で命じる。


「興味がないと言ったはずだ。去れ」


 ハイデマリーが再び右手を一振りすると、エアハルトの体は塔の外にまで押し出された。外に出たところで塔の扉が閉じ、今度は内側からカギがかかった。開けられるか試してみたが、開かなかった。



「やっぱ駄目だったか」



 塔の階段の下にいる青年が声をかけてきた。エアハルトは階段を降りながら、「いや」と首を左右に振った。


「思ったより、話の分かる人かもしれない。少なくとも、俺が話し出せは話は聞いてくれた」


 そうなのだ。去れ、と言う割には、エアハルトの話を聞いてくれた。ハイデマリーは、話の分からない人ではない、と思う。


 意外そうにふ~ん、と言ったのはエアハルト共にクーデターを行ったフォーゲル公爵の次男、トビアスだ。彼の父フォーゲル公爵とエアハルトの父ローマイアー公爵は、今回のクーデターの支援者だ。実質的な首謀者ともいう。




 先帝ジルヴェスターと、エアハルトたちが倒したその息子ゲオルクの統治は悪政を極めた。このハインツェル帝国は偉大なる初代皇帝ジークフリートによって建てられた国であるが、その後の皇帝たちはあまり政治がうまくなかったようだ。そのため、緩やかに傾いていった帝国は、二代続いた悪帝のために本格的に倒れようとしていた。


 その前に、と手を打とうとしたのがフォーゲル公爵とローマイアー公爵である。この2人は国のことを考え、皇帝に進言し、様々な改革を行おうとしたが、皇帝の不興を買って中央政権から追い出されていた。


 そんな彼らが取った行動は、クーデター。ゲオルク皇帝治世3年目のことである。


 公爵たちは帝国を憂える貴族たちと団結し、クーデター軍を組織した。その指揮官として放り出されたのがエアハルトなのである。


 そして、彼は帝都を陥落させ、ゲオルクを王宮の地下牢に閉じ込めた。クーデター軍は見事に勝利したのだ。




 しかし、ここで問題になったのは次の皇帝だ。



 クーデター参加者たちはフォーゲル公爵かローマイアー公爵、それかその息子の中の誰かが次の皇帝になればいいと言ったが、フォーゲル公爵もローマイアー公爵も、それでは説得力が弱いとした。


 しかし、ゲオルクは即位と同時に男の兄弟全てと、まだ宮殿に残っていた皇女たちを斬り殺していた。ジルヴェスターは子だくさんで、19人の子供がいたが、そのうち、今でも生きているのはゲオルクを含めても5人だけだ。しかも、生きている皇女たちはすでに嫁いでいる。


 遠縁の子を連れてくるしかないだろうか。そう考えたが、1人忘れていることに気が付いた。ゲオルクも、彼女には手を出さなかったので、彼女は宮殿の片隅で今もなおひっそりと生きているはず。




 それが、第7皇女ハイデマリーだった。




 ジルヴェスターの12番目の子供である彼女は、その強大な魔力を恐れられて幽閉されたと言われている。宮殿の北の端にある塔だ。


 塔と言っても、さほど大きなものではない。もともと誰かを幽閉するために作られたようで、窓には鉄格子がはめられ、扉は中からも閉じられるが、外からも鍵をかけられ、これは内側から開けることができない。


 食事を差し入れるメイド以外、誰もが彼女の存在を忘れていた。おそらく、フォーゲル公爵が生き残っている皇女の人数と実際に存在を確認できた皇女の数が合わないことに気が付かなければ、彼女の存在は忘れ去られたままだっただろう。そのまま亡くなっていたかもしれない。


 しかし、未婚の皇女が残っているのは、クーデター軍からしては幸いだった。彼女を皇帝に立てればいいのだから。


 ハインツェル帝国には、これまで女帝は存在しなかった。しかし、先例がないなら作ればいい。そう言ったのはエアハルトの父ローマイアー公爵だった。


 皇帝になってもらうには、ハイデマリーを塔から引きずり出さなければならない。説得が難しそうであれば無理やり引きずり出せ、と言われたが、エアハルトの見る限り、彼女は話が通じそうだ。だが、説得には時間がかかりそうな気もする。


 悩んでいるエアハルトを見て、トビアスが「じゃあ、今日は俺が行くわ」といって、軽い調子で塔に入って行った。どうやら、内側からかけられる鍵は、外側からも開けられるらしい。外側からの鍵は内側から開けられないのに。


 エアハルトは、昨日のトビアスと同じように塔の外で待っていた。30分ほどして、昨日のエアハルトと同じように、塔の中からトビアスが押し出されて出てきた。


「やべぇ。すげえな。強いよ」


 これがトビアスのハイデマリーに対する感想だった。エアハルトは思わず苦笑した。


「殿下は魔力の強さを恐れられて幽閉されたって言われてるからな。明日は俺が行ってみる。ちょっと考えがあるんだ」

「へえ?」


 トビアスが面白そうな表情になる。彼が塔の中にいる間、考えてみた。ハイデマリーは、どうすれば塔から出てくれるだろうか。


 エアハルトは思った。彼女は、彼らを警戒しているのだ、と。当然のことだろう。8歳で幽閉されてから、ハイデマリーは外界との接触を絶っている。人と話をしたのも10年ぶりのはずだ。しかも、その相手が自分の兄を倒した男。警戒する方が無理な話だ。


 彼女を、無理やりあの塔から連れ出すこともできる。エアハルトが昨日見た彼女の腕と首に付けられたもの。あれは、魔力をおさえるための道具だろう。今の彼女は、必要最低限の魔力しか使用できないだろう。


 だから、ハイデマリーが噂通りの強大な魔力を持っていたとしても、エアハルトたちで連れ出すことはできるはず。


 しかし、できれば、彼女には自分の意志であの塔を出てほしいと思った。無理やり連れだせば彼女と自分たちの間で遺恨が生まれるとか、いろいろ言い訳は浮かんだが、ただ単純に、エアハルトはハイデマリーに外の世界を見せてやりたいと思った。


 他人の都合で塔に閉じ込められ、やはり他人の都合でその塔から引きずり出されようとしている少女。


 たぶん、あるのは同情なのだと思う。結局、彼女を皇帝に祭り上げて利用するのだから、この気持ちはエアハルトのエゴでしかない。


 それでも、彼はハイデマリーと話をしたいと思った。話をすれば、少なくとも聞いてくれるはず。そう思う。


 翌日、本当にエアハルトは塔に向かった。内側からかけられていた鍵を外側から開け、エアハルトは塔の中に入った。


 おとといと同じように、薄暗い塔内。そして、やはり同じように青い炎がエアハルトを囲んだ。


「また、あなたか」


 少女にしては威圧感のある声が聞こえた。エアハルトの姿を認めたハイデマリーは、すぐに身をひるがえそうとする。


「何度来ても同じだ。去れ」


 冷たい、拒絶の声。彼女はおとといと同じ。しかし、エアハルトの方は違った。



「待ってください、殿下!」



 すると、塔の中にある階段を上ろうとしていた彼女はぴたりと足を止めた。そのままゆっくりと振り返る。真っ黒な双眸がエアハルトを射抜いた。


「まだ何かあるのか」

「少し、私の話を聞いてもらえませんか?」

「……」


 鉄面皮のハイデマリーも、さすがに『訳が分からない』と言うような雰囲気を醸し出した。彼女が固まったのを見て、エアハルトはその隙に、とばかりに話しはじめた。


「私が帝国の東の地域に行ったときの話なんですが、東の国の出身者に、この国と同じように東の国にも魔術が使える者がいると言う話を聞いたんです」

「……」


 全く関係のない話をし始めたエアハルトを、ハイデマリーが困惑気味に見つめる。しかし、口を挟んでこないと言うことは聞く気があるのだろうと勝手に判断し、エアハルトは話を続けた。


「そちらの方では、術を極めた人間は『仙人』と呼ばれるらしくて」

「……」

「その仙人は、霞と雲を食べて生きているそうです。ちなみに、女性だと仙女と言うそうです」

「……あなたは、何が言いたいんだ」

「いえ。面白い話を聞いたので、殿下にも聞いていただきたいと思いまして」


 少し微笑むと、彼女がピクリと反応した気配があった。効果がありそうだと刺したエアハルトは、さらに話を続ける。


「その仙人たちは不老不死だと言われていて――」


 1人で小一時間は話し続けただろうか。その間、2人とも立ちっぱなしだったわけだが、ハイデマリーが途中でエアハルトを追い出すことも、飽きて上の階に行ってしまうこともなかった。どうやら、この作戦は効果ありらしい。


「では殿下。今日は失礼します」

「……もう来るな」


 遠回しにまた来ることを告げると、彼女に冷たくあしらわれた。エアハルトは肩を竦め、次は何の話をしようか、と考えながら塔を出た。





 大体1日おきに、エアハルトはハイデマリーの元を訪れていた。相変わらず青い炎に囲まれるが、その炎が熱くないことに、エアハルトは気づいていた。そして、彼を目にすれば必ず「帰れ」と言っていたハイデマリーが、今日はそう言わなかった。彼女を尋ねること5回目のことである。


 相変わらず彼女は、首と手首、そして、前回気付いたのだが、足首にも魔法封じをつけていた。そして、それを気にすることなく生活しているようでもある。


 すでに慣れてしまったということだろうか。それを痛ましく感じながらも、エアハルトは今日も彼女に声をかけた。


「こんにちは、殿下」

「……よく飽きないな」


 少し呆れた様子を見せながら、ハイデマリーは言った。少し感情を見せてくれるようになって、エアハルトは安心している。彼女は、長い幽閉生活の中で、心が死んでいるわけではないのだ。


 このまま語りかけ続ければ、少なくとも、ハイデマリーの心が死ぬことはないかもしれない。


 もしかしたら、心が死んだままの方が使いやすかったのかもしれない。傀儡の皇帝として、操ることができたかもしれない。


 だが、そうするなら初めからエアハルトが即位すればいい。そして、エアハルトは自分が皇帝になるつもりはない。


 だから、ハイデマリーになってもらわなければ困るのだ。自分ではどうしても、周囲が納得しない。自分は、皇帝になれない。なりたくない。


 しかし、それはハイデマリーも同じなのだろう。だから、この攻防戦も続いているのだ。


 さて、今日も話を聞いてもらおう、と口を開こうとすると、ハイデマリーは突然、その手を振った。エアハルトを囲む青い火が消える。


「……殿下?」

「……どうせ、好きなだけ話して出ていくのだろう。わたくしに塔を出ろ、と言わないのであれば、茶くらいは出してやる」


 とても不遜な言い方であった。だが、お茶を出してくれるくらいには自分に心を開いてくれたらしい。エアハルトは思わず微笑み、「言わないので、お茶をください」と言った。よく考えたら、王族にお茶を出してもらうなど不敬極まりないが、本人が出すと言っているのでいいだろう。と言うことにする。


 出されたのはハーブティーだった。カモミール、だろうか。ちゃっかり椅子に腰かけたエアハルトは、「おいしいです」と感想を漏らした。ハイデマリーからは「そうか」と素っ気ない。そんな彼女は、離れたところにあるソファに座っていた。


「そう簡単に、私を信用していいのですか?」


 お茶まで飲んでおきながらそんなことを尋ねる。エアハルトにはハイデマリーを害する気など、もちろん全くない。だが、あえて尋ねてみた。だが、答えはわかっている気もする。


「何かすれば、叩き出すだけだ」


 それは、強力な魔法を持っているからできることなのだろう。エアハルトは思わず肩をすくめた。


 しばらく、沈黙が流れる。やや間を置いてから、エアハルトは口を開いた。


「殿下。少し聞いてください」


 エアハルトの言葉に、ハイデマリーは一瞬視線をあげたがすぐに自分の持っているティーカップの中に視線が戻った。何も言わない。でも、聞いてくれる。今までは、そうだった。


「私には、婚約者がいました」

「……」


 過去形であることに気が付いたのだろう。ハイデマリーが睨むような視線を向けてきた。何故自分にそんな話をするのだ。そう訴えているようにも見えた。


「特別美しい人ではありませんでしたが、優しくて、いつも私の心配をしているような人でした」


 エアハルトは、そんな婚約者を愛していた。



 愛していたのだと、思う。



「3年前、結婚する予定でした。しかし、先帝が崩御なされ、結婚は次の年にすることにしました」


 これは、よくある話だ。王の崩御に伴い、結婚を取りやめること、喪に服す意味があるのだ。大体、半年から1年ほど喪に服し、結婚するものが多い。エアハルトは公爵家の人間なので、1年間喪に服すことにした。身分が高いものほど、喪に服す期間が長い傾向があるのである。



 次の年、絶対に結婚しようと言った。だが。



「彼女が、流行病に伏しました」

「……」


 ハイデマリーは、黙って聞いている。エアハルトはカモミールティーを一口飲むと、話を続けた。


「彼女は、同じ病にかかった家族の看病をしていて、病がうつったようでした」


 その年は飢饉であった。満足に食事ができず、栄養失調で流感にかかるものは多かった。


 それでも、彼女は家族の面倒を見ることをやめなかった。その甲斐あってか、彼女の家族は病から回復したが、看病を続けた彼女は、そのまま儚くなってしまった。


「正直、それまで、私は皇帝がだれであろうと、自分には関係ないと思っていました。ですが」


 彼女が亡くなった原因である流行病。どうして、その病は流行ったのか。


 皇帝の失政により、すでに土地は荒れ果てていた。そのために起こる不作。それなのに、皇帝は税率をあげた。それは、貴族も例外ではなく、必要以上に搾取された。


 当然、少ない作物の奪い合いになる。エアハルトも、彼女も高位の貴族ではあったが、家が『まとも』であったからだろう。平民から無理やり搾取することはなかった。




 足りない食事、栄養。やせ細って、死んでいくものたち。


 そして、その遺体から病は広がるのだ。




 元をただしていったとき、エアハルトは、彼女が死んだのは皇帝のせいだと思ったのだ。


「この国は、もう駄目だ、と、思いました」

「……」


 それでも、ハイデマリーは反応を示さなかった。もしかしたら、エアハルトには読み取れないだけかもしれないが。


 ソファに座り、無言でカップの中を見つめているハイデマリーを見て、少し苦笑する。それから、エアハルトは立ち上がった。


「話、聞いてくれてありがとうございます。お茶もおいしかったです」

「……そうか」


 ハイデマリーはそれ以上何も言わずに、エアハルトを送り出した。






 その日以降も、エアハルトは相変わらず時々ハイデマリーの元を訪れて、彼女が興味を持ちそうなこと、興味なさそうなこと、いろいろとしゃべって塔を出ていく。とりあえず。


「お茶に茶菓子が付くようになった」

「お前、価値観崩壊させられすぎ……」


 トビアスとそんな会話をするくらいには、エアハルトはハイデマリーに毒されつつある。


 だが、最初は何の反応も示さなかった彼女が、お茶を出してくれるようになり、たとえクッキーなどの素朴なものであっても茶菓子も出してくれるようになり、そして、最近は相槌なら打ってくれる。それが、楽しいのだ。


 なんというのだろうか。人慣れしていない猫を、手なずける感じ。あれに似ているかもしれない。


 無表情で無感動で無口であることをのぞけば、ハイデマリーは普通の少女のようだった。エアハルトが美しい景色の話をすれば、それに興味を持つようだし、軍隊の話をしてみればつまらなさそうだ。これは、彼女をよく観察しているエアハルトだから気づいたのかもしれないが。


 だが、一つ普通の少女と違うのは、外見に気を使わないところと、国政に興味を持っているらしいところだろうか。


 国政に興味を持っていることに気付いたエアハルトは、彼女なら、本当に皇帝になれるかもしれない、と思った。しかも、お飾りではなく、ちゃんとした君主に。


 あるとき、荒れ果てた帝都でも結婚式が行われていた、と言う話をした。その話を聞いたハイデマリーは、珍しく、本当に珍しく、尋ねた。


「聞いてもいいか?」

「はい。私に答えられることでしたら」


 エアハルトは内心喜んだ。これまでは、エアハルトが一方的に話すだけで会話が成り立つことはなかった。こうして彼女が何か疑問でも投げかけてくれるのなら、もっと会話ができるかもしれない。


 しかし、ハイデマリーの問いに、エアハルトは一瞬固まることになる。


「あなたは、亡くなった婚約者を愛していた?」

「……ええ。そうですね。愛して、いました」


 少し間を置いてから、エアハルトは答えた。彼女のことは愛していた。だが、今もそうかと言われるとわからない。あれから時がたち、いなくなってしまったものは忘却されてしまうのだ。



 誰からも忘れ去られていた、ハイデマリーと同じように。



「……そう」


 ハイデマリーは、エアハルトの返事を聞いて、そっと目を伏せた。






 それから2日後。おそらく、ハイデマリーは食べたことがないだろうと思い、トルテという菓子を持ち込んでみた。初めなら絶対に食べてくれなかっただろうが、懐いてきた今なら食べてくれる気がする。


 だが、塔の扉は開いたが、いつものようにハイデマリーは上階から降りてこなかった。どうしたのだろうか。熱でも出したのだろうか。


「殿下?」


 持ってきた箱に入ったトルテをテーブルに置き、見慣れた部屋を見渡す。しかし、ハイデマリーはない。だが、彼女が1人で外に出るとは考えられないので、やはり塔の中にいるのだろう。


 エアハルトは、覚悟を決めて彼女の寝室へとつながるのであろう階段を上り始めた。丸い壁に沿うように作られた石の階段を上ると、下の部屋と同程度の広さの寝室が現れた。一番奥のベッドに、ハイデマリーはドレスのまま丸くなって寝ているようだった。


 小さな格子のある窓の下に、文机。そのほかには小さな箪笥と、それなりの高さがある天井にまで届くかと言うほどの本棚。その棚もいっぱいにまで本が詰め込まれている。


「殿下?」


 そっとハイデマリーのいるベッドに近づこうとすると、文机の上の羊皮紙に目が留まった。彼女の物であるらしい、黒いインキで書かれた文字。それに目を通すに従い、エアハルトの眼は大きく見開かれていく。


「これは……」


 何枚もあるどの羊皮紙も、書かれていることは違えど、目的は同じと見えた。そう。国内安定のための意見書だ。意見書と言うより、これはもう政策案に近い。


 10年間も塔に閉じ込められながら、彼女は勉学を怠らなかったようだ。そして、塔の外に神経をめぐらせ、拾える情報を拾い、そこから推測を立てて、ここまで正解に近い答えを導き出した。エアハルトが訪れるようになってからは、情報入手が容易であったことだろう。彼は勝手にやってきて、勝手にしゃべってくれるのだから。


 これだけの案をまとめられるのは、彼女が外の世界に興味を持っている証拠に思えた。少なくとも、帝国のことを気にかけているように思われた。


「う……っ」


 小さくうめき声がして、のそり、と黒い物体がベッドから身を起こした。もちろんハイデマリーである。


「殿下」


 ぼさぼさの黒髪を肩の後ろに払いながら、ハイデマリーは振り返った。焦点の合わない目でじっとエアハルトを見つめてくる。


 やがて、言った。


「勝手に入ってきたのか」

「いつも勝手に入ってますよ」

「……それもそうか」


 ハイデマリーは納得して、ぐっと伸びをした。ドレスもしわになっているが、本人は気にしていないらしい。せっかくの黒髪がぼさぼさになっているのが気にかかり、エアハルトはベッドから降りたハイデマリーに言った。


「座ってください。よろしければ、私が髪を梳きますよ」


 変なものを見るような目で見られたが、これくらいで堪えていれば、ハイデマリーの相手は続けられない。微笑みを継続したままいると、ハイデマリーはゆっくりした動作で背もたれのない椅子に座った。エアハルトは適当に放置してあったブラシを取る。


 そっと、いたくないように毛先の方から梳いていってやる。持ち上げた毛先がかなり傷んでいて、切った方がいいな、と思った。生きていくのもやっとな塔の中では、美容など二の次だったのだろう。その割には肌がきれいなハイデマリーである。


 次来るときには髪にいい香油でも持って来よう、とひそかに決意しつつ、エアハルトは包み隠さずに言った。


「先ほど、殿下が寝ていらっしゃる間に、殿下がまとめていらっしゃったものを拝見いたしました」

「……」


 ハイデマリーは咎めなかった。いつもと同じように、聞いているだけ。


 慎重に言葉を選ばなければ、聞いてもらえなくなるかもしれない。エアハルトは考えながら、ゆっくりと口を開いた。


「とても、良い案だと思います。もしも殿下にお許しいただけるのであれば、議会に提出いたしますが……」


 現在、議会を仕切っているのはエアハルトの父だ。エアハルトならば、簡単にハイデマリーの案を議会に持ち込める。


 エアハルトはといたハイデマリーの髪を少し束ね、ブラシで整える。かなり髪が傷んでいたので、髪が切れてしまったのは許してほしい。


「……好きにすれば」


 思ったより色よい返事をもらい、エアハルトはほっとして「ありがとうございます」と言った。彼女の髪を束ね、一番ハイデマリーに似合いそうな組みひもを探して髪を結んだ。あまり髪を結わないのか、使った形跡がない。


「どうでしょうか。気に入らなければ、外していただいてよろしいですが」


 気にいるも何も、ただのハーフアップだ。エアハルトには女兄弟がいないため、母が結っていたのを見よう見まねでやってみたのだが、なかなかうまくいったのではないか、と自分では満足している。


 ハイデマリーは自分の髪に触り、少し不思議そうな顔をしたが、ぽつりと言った。


「……ありがとう」


 一瞬目を見開いたエアハルトは、すぐに目を細めて微笑んだ。


「どういたしまして」








 その日はハイデマリーのまとめた案を持ち出すのはやめた。ひとまず、父に意見を請おうと思ったのだ。エアハルトの説明が要領を得なかったのか、「とにかくもってこい!」と父ローマイアー公爵は息子を怒鳴りつけた。


 そんなわけで、エアハルトは翌日もハイデマリーの元を訪れた。茶菓子として出されたのはエアハルトが置いて行ったトルテだった。彼女はすでに食べてみたらしく「おいしかった」との評をいただいた。


「それはようございました。いつでも提供いたしますから、お申し付けください……ところで、父が殿下のまとめた案を見てみたいと言っていたのですが」

「……勝手に持って行け」


 相変わらず、ハイデマリーは素っ気ない。しかし、会話が成り立つようになっている辺り、進歩である。


「それと、殿下の髪が傷んでいるようでしたので、髪にいいという香油をお持ちしました」


 本当は毛先を切った方がいいのだろうが、そんなことはさすがにエアハルトには無理なので、彼女が塔を出たら、女性の使用人にでもやってもらうべきだろう。


 ハイデマリーは香油の入った小さな瓶をちらっと見たが、よく理解できなかったようで沈黙したままだった。エアハルトは少し目を細めて笑う。


「髪につけると、つやが増すそうですよ」

「……別に、必要ない。誰も見ない」


 誰もハイデマリーの姿など見ないと言っているのだろう。本当に、彼女は皇帝になる気がないのかもしれない。だが、誰も見ないわけではない。


「私が見ています」


 ハイデマリーがぐっと眉根を寄せ、目を細めた。鋭い視線が向けられるが、エアハルトは平然と微笑んだ。


「殿下は素敵な女性ですから。きれいになってほしいというのは当然の心理です」


 言ってしまってから、何故自分はこんなことを言ってしまったのだろうとドキドキしてきた。不審げなハイデマリーの視線は強くなり、不意にそらされた。彼女は階段を上がって上の階に行ってしまう。


 怒らせただろうか。口ではなんと言っていても、ハイデマリーはそんなに短気ではないと思ったのだが。すると、すぐに彼女は降りてきた。手に紙を抱えている。


「好きに持って行け」


 テーブルにどさっとおかれたそれは、ハイデマリーがまとめた政策案だった。まさか、自分で持ってきてくれるとは。勝手に持って行けと言われたが、再び寝室に上がることはためらわれたエアハルトにはうれしい彼女の行動だ。


「ありがとうございます……それと、もう一つ」

「……」


 まだあるのか、と言わんばかりに睨まれた。だが、これだけは本当に譲れない。


「その腕輪と首輪、外しませんか?」

「…………何故?」

「いや、何故って……」


 聞き返されて戸惑うエアハルトである。何故かと聞かれると、痛々しいから、とか、動物のように見えるから、だとかいろいろ言い訳が浮かぶが、結局は。


「私が、そうしたいからですね」

「……」


 ハイデマリーは正直に答えたエアハルトを睥睨した。それはすごい眼力だった。


「……別に、取ろうと思えばいつでも取れる」


 一瞬ぽかんとしたエアハルトだが、それはつまり、ハイデマリーが自ら望んで腕輪や首輪を身に着けているということだ。


 てっきり、エアハルトは彼女の強い魔力を恐れた彼女の父が無理やりつけさせたものだと思っていた。彼女からもたらされる断片的な言葉によると、その認識も間違っていないようだが、ハイデマリーにとって首輪と腕輪は邪魔にならないものであるらしかった。


 だが、やはり、人間を物のように見せる首輪は取った方がいいと思った。エアハルトは言葉を重ねた。


「では殿下。私が、代わりの装飾品をご用意いたします。それを気に入ったら、その首輪と腕輪を取ってください」

「……構わないが、何故、そこまでしようとする?」


 先ほどと似たような質問に、エアハルトは笑った。


「私がそうしたいからですよ」










 後日、エアハルトが持ってきたのは首輪の代わりに青い石のはまったネックレス、それに、腕輪の代わりに金色の太めのブレスレッドだった。拘束具ではなく、ちゃんとしたアクセサリー。こちらの方が、人に与える印象はいいはずだ。


「……別に嫌いではない」


 何とかハイデマリーに合格点はもらえたので、エアハルトは首輪と腕輪を外し、新たにそれらの装飾品を身に付けさせた。足首にも同様の拘束具を身に着けていたので、それもはずす。


「……殿下、どうしてこのようなものを身につけ続けようとしたんですか?」


 そう尋ねたエアハルトに、彼女はこう答えた。


「わたくしが、そうしたかったから」


 その返答を聞き、思わず彼は笑みを浮かべた。









 ハイデマリーとは確実にコミュニケーションが取れるようになってきている。だが、クーデターが起こってから既に一か月が経過しており、そろそろ皇帝がいないままでは政治が危うい状況まで来ている。


 かといって、ハイデマリーを無理やり塔から引きずり出せば、せっかく築いてきた彼女とエアハルトとの信頼関係が無に帰す。それは避けたかった。


 ハイデマリーがまとめた政治案は、エアハルトの父に『見事』という言葉を吐かせた。外界から隔絶され続けたにもかかわらず、正確に帝国のことを理解し、エアハルトが語ることから、現状を把握する。ハイデマリーはその能力に優れているようだった。


 彼女が示す才能のすべてが、彼女が次の皇帝であると示していると思えてならない。だが、ハイデマリーは皇帝になる気はないのだ。



 そう、思っていた。



「……それで、手に入った貴重な本だったのですが、友人がうっかりしてその上で眠ってしまって……」

「エアハルト」


 名を呼ばれた気がしたが、誰に呼ばれたのか一瞬わからなかった。そしてすぐに、ハイデマリーの声だと気が付いた。名前を呼ばれたのは初めてだと思い、エアハルトは微笑んで「なんですか」と尋ねた。話をさえぎられたことはツッコまないことにした。


「兄を……ゲオルクを、殺していないのか」

「……」


 一瞬言葉に詰まったエアハルトは、やや間を開けてからうなずいた。


「ええ……地下牢に閉じ込めました」

「ローマイアー公爵の指示?」

「いえ。私の独断です」


 初めてと言っていいほど続く会話の内容にしては殺伐としているが、会話をしてくれるくらいにはハイデマリーはエアハルトに心を開いてくれているのだろう。とりあえず、そう前向きに考えることにした。


「そうだろうな。ローマイアー公の指示にしては、甘すぎる……」

「……そうですね」


 遠回しに自分の兄を殺してしまえばよかった、と言っているも同然のハイデマリーであるが、実はエアハルトの父の最初の命令も、彼女の考えと同じものだった。


 宮殿を陥落させ、皇帝を殺す。これがローマイアー公が最初に指示した内容である。だが、エアハルトはその指示を護らなかった。皇帝ゲオルクを捕らえ、地下牢に閉じ込めた。


 これを知ったローマイアー公は呆れたのだが、結果的に皇帝殺しを行わずにクーデターを完遂させたために、民衆の支持を得ることができた。そのため、結果オーライだったともいえる。


 発言から察するに、ハイデマリーはローマイアー公と考え方が似ているのだろう。つまり、為政者向きの頭なのだ。


「会いたいですか。ゲオルク様に」

「いや」


 即答だった。異母兄とはいえ、母親の身分が低かったハイデマリーは、あまり兄弟と交流がなかったのかもしれない。


「……あなたは、会えるのなら、死んだ婚約者に会いたい?」

「……そう、ですね」


 逆に尋ねられ、エアハルトは考えた。亡くなった、エアハルトの婚約者。懐かしいと、悲しいとは思うが……。


「会いたくないかもしれません。今の私を見たら、彼女は悲しむかもしれない」


 国のためにクーデターを起こし、エアハルトは勝利した。その過程で、どれだけの人が血を流したことだろう。エアハルトの優しさを好きだと言った亡き婚約者は、今のエアハルトを見て悲しむかもしれない。大義の為と銘打ち、人を殺したのだ。エアハルトは。


 その結果、どうなっただろう。悪帝はいなくなったが、皇帝自体が今はいない。そして、嫌がる女性を皇帝として引きずり出そうとしている。



 きっと、エアハルトの婚約者はそれを一番怒る。



 彼女を悲しませたくないし、こんな情けない姿を彼女に見せられない。だから、会いたくないと思った。


 ハイデマリーはテーブルに頬杖をつき、エアハルトを眺めていた。視線を感じてエアハルトがそちらを見ると、ハイデマリーの黒曜の瞳とかちあった。彼女の瞳がすっと細められる。エアハルトはその鋭い視線にどきりとした。



「そうまでして、どうしてあなたはクーデターを起こした」



 クーデターを起こしたのは正確にはエアハルトの父であるが、止めなかった時点でエアハルトも同罪だ。そして。


「……私の役目のような気がしたんです」

「役目?」

「ええ……」


 婚約者の彼女が死んで、この国はもう駄目だと思った。いっそ、国を出てもいいかと思った。だが、彼女が愛したこの国に、まだできることはあるかもしれないとも思った。


 父にクーデターを起こすと言われた時、エアハルトは思ったのだ。


 これは、先に旅立った彼女からの課題なのかもしれない。うまくやって見せろ。自分が愛した国を護って見せろ、という……。


 結果的にエアハルトは彼女に顔向けできない事態となっているが、その時は確かにそう思ったのだ。


「……まあ、やらなくて後悔するより、やって後悔しろとも言いますし……」


 うまく理由が述べられなかったのでそう口ごもってしまったが、ハイデマリーは気にした様子もなく「役目」と小さくつぶやいていた。


「わたくしは……」


 そうつぶやいたっきり、その日にハイデマリーが口を開くことはなかった。










「……見てみたいものがあった」


 鉄格子越しに青い空を見ながら、ハイデマリーが口を開いた。彼女が出してくれたハーブティーを飲んでいたエアハルトは、彼女の方を見て微笑んだ。もっとも、彼女は見てなかったけど。


「それは聞いてみたいですね。何ですか?」


 彼女はこちらを見ないままにぽつぽつと告げた。


「家族」

「……」


 その思いがけない返答に、エアハルトは沈黙してしまった。その言葉は文字数の割に重たく、そして、ハイデマリーの心を良く表現していると思った。


 おそらく、普通に幽閉されずに育ったとしても、ハイデマリーは一般的な家族を知らなかっただろう。母親が亡くなっているので、愛情を知らずに育った可能性が高い。その上で、彼女は家族が見て見たかったと言っているのだ。


 彼女が憧れたのは、皇帝という最高の権力ではなく、ただ、小さな幸せだった。だが、エアハルトは彼女が望むことを見せてやることはできない。させてやることはできない。彼女には、皇帝になってもらうつもりなのだから。


「……取引だ。君は、わたくしに『家族』を見せる。わたくしは、それを参考に国を作る」


 とんでもないことを言いだしたハイデマリーである。その発言がぶっ飛び過ぎていて、すぐにそれがどういう意味か理解することができなかった。


「……では、皇帝になっていただけるのですか」


 こくりとうなずいたハイデマリーに、エアハルトは喝采をあげそうになった。彼女ほど、皇帝にふさわしい人物はいないと思った。


「ありがとうございます!」


 満面の笑みで礼を言うと、ハイデマリーはすっと眼を閉じた。


「……ずっと、目をそらしてきた罰なのかもしれない……」


 その呟きに、エアハルトは笑みをひっこめた。彼女は悩みに悩んで、この決断をしてくれたのだろう。だとしたら、自分も彼女の覚悟に見合う態度を見せなければならないと思った。


「……大丈夫です。私も殿下にお供します」


 まずは一歩ずつ、前に進もう。止まっていた時を、少しずつ動かしてゆくのだ。


 ハイデマリーだけではない。もしかしたら、エアハルトの時も止まっていたのかもしれない。


 エアハルトはハイデマリーに手を差し出した。


「では、少し外に出てみませんか?」


 最初は拒否された手。だが、今なら手を取ってくれる気がした。そして、思った通り、ハイデマリーはエアハルトの手を取った。


 彼女の手を引いて、ゆっくりと扉の前に向かう。扉の前に立ったエアハルトは、一度立ち止まって尋ねた。


「殿下、ハイデマリー様。よろしいですか?」


 こくりとうなずいたのを確認し、エアハルトはゆっくりとその扉を開いた。暗い塔の中に、日の光が差し込んでくる。ちらりと見ると、ハイデマリーはまぶしそうに目を細めていた。彼女が日の光を浴びるのは実に10年ぶりのことだ。


 開いた扉から一歩だけ、外に出る。広がる青い空に、緑の木々。少し離れたところに宮殿が見えた。


「どうですか。外の世界は」


 そう尋ねたエアハルトに、ハイデマリーは一言だけ答えた。


「……温かいな」


 身もふたもないその返答に、エアハルトは思わず苦笑いを浮かべたのだった。
















 この後、ハイデマリーはハインツェル帝国初の女帝として即位する。まず行ったのは、兄でもある前皇帝を処刑すること。これを皮切りに、ハイデマリーは宮廷から腐敗した官僚や貴族たちを一掃した。粛清された官僚、貴族、その家族は総計十万人に上るともいわれるが、定かはない。おそらく、虚偽であろう。


 それでも、ハイデマリーの治世はハインツェル帝国史上最も流れた血の量が多かっただろう。歴代皇帝で最も悪名高いと言われるくらいには。


 だが、彼女のおかげで帝国は持ち直した。大胆に、抜本的に制度を見直したハイデマリーは『執政の母』ともいわれる。しかし、母と言われた彼女は生涯結婚することはなかった。


 ハイデマリーには予言があった。『この子は、本当の愛を知るだろう』。後の歴史家たちは、『この予言は真実ではない』とした。あまりにも彼女が悪名高いためだ。そう言われるころには、クーデターを起こしたのはハイデマリー自身になっていた。歴史というのは脚色されていくものだ。悪名高い彼女に、クーデターはふさわしいと彼らは考えたのだろう。


 だが、本当にその予言は真実ではなかったのだろうか? この予言が真実であったかどうか。それは、ハイデマリー自身にしかわからないのではないだろうか。



 彼女は結婚しなかったが、それが、愛を知らなかったことになるのだろうか。



 ハイデマリーの治世から約300年後。ハインツェル帝国に嫁いだ皇妃ニコレットは、著書の中でこう記す。


『女帝ハイデマリーは、確かに多くの血を流させた。しかし、その結果、何が起こっただろうか。半世紀以上在位した彼女の後も、正常に、そして効率的に、帝国の政治は機能している。彼女は大規模な改革を行ったのだと考えることができるだろう。


 だからと言って、彼女の行いを全面的に支持することはできない。しかし、彼女の行いは国を統治する君主として当然の行いであるし、否定することもできない。だが、彼女は望んで悪辣な女帝を演じたわけではないのだろうと予測する。


 私は、女帝ハイデマリーを完全には否定できないと考える。


 彼女は私と同じく生まれた時に予言を授けられたという。


『この子は、本当の愛を知るだろう』


 多くの歴史家たちはこの予言を否定するが、私はこの予言を一概に否定することはできないと思う。


 何故なら、これまで述べてきた悪名高い女帝は、ハイデマリーの『公』の部分であり、『私』の部分ではないのだ。


 ハイデマリーは配偶者もおらず、その私生活には謎が多い。彼女の生涯の半分以上がわからないのに、その予言を完全に否定することは難しいだろう。


 なので、私は彼女の予言の真偽については保留としたい。ハイデマリーについては、わかっていることが少なく、確かなことを言うことはできない。


 ただ、私は、女帝ハイデマリーにも『愛』は存在したのではないかと思う。少なくとも、彼女はハインツェル帝国を愛していたのではないだろうか。そうでなければ、半世紀以上も在位することは不可能であろう。彼女の能力を見るに、その気になれば彼女は一国を滅ぼすことなど造作もなかったと考えられるからだ。


 そのため、私の推測の上では、女帝ハイデマリーの予言は真実であったのだと述べたい』














ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


ザクッと解説すると、引きこもり皇女を皇帝にするために引きずり出す話です。皇女は人見知りです。

エアハルトは『残虐皇帝と予言の王女』にでてきたマルクス・ローマイアーの先祖ですかね。少し出てきたトビアス・フォーゲルは宰相の先祖でしょうか。ハイデマリーは子供はいない設定。きっと、兄弟の子供を引き取って養子にでもしたんでしょう。


ちなみに、ハイデマリーは18歳。エアハルトは20代前半くらい。


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