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架空戦記

帝国海軍愛鷹型戦艦

作者: 山口多聞

 戦艦創作大会用作品です。キャラは登場しない紀行文型式作品です。

全長240m   排水量42000t  速力30ノット


武装46cm連装砲3基6門

  10cm連装高角砲8基16門 

  25mm連装機銃12基24挺

  同単装16基16挺

  水上偵察機2機




 昭和11年にロンドン軍縮条約より脱退した日本海軍は、それまでの足枷を外され、46cm砲を塔載する巨大戦艦「大和」の建造に取り掛かった。


 全長263m、排水量64000t、46cm主砲9門を塔載する「大和」型はその世界最大を誇る主砲で米英など仮想敵国の戦艦に対して有利に立てると期待されており、帝国海軍では4隻以上の建造を計画した。


 しかしながら、この「大和」型。設計時に極力小型にする努力がなされたが、さすがに世界最大の46cm砲を9門も塔載するとなると艦体は大型化し、建造ならびに修理できるドックは限られた数になってしまった。


 加えて建造費も1億4千万円と莫大な費用が必要となり、すぐに何隻も同時に建造することなどできなかった。


 ところが、ロンドン軍縮条約を日本が破棄したため米英はエスカレーター条項によって「大和」と同等とは言わないまでも新型で強力な戦艦の建造が可能となった。さらにヨーロッパでのナチスの対等から、この条約自体が早晩廃棄され、無条約時代に入る可能性も高かった。


 もしそうなれば、アメリカ海軍が大規模な戦艦建造を行う可能性が高い。そう警鐘を鳴らしたのが、元駐米武官であった大阪晃中佐であった。彼は同じく駐米武官だった山口多聞大佐と図り、独自のプランを上申した。


 彼の上申したプランと言うのは、攻撃力は「大和」型に匹敵する46cm主砲を塔載するものの、防御力やサイズを巡戦レベルに引き下げ、建造の容易化を図った艦を多数建造し、「大和」型を補完するというものであった。


 つまり、ある程度消耗を前提としたそこそこの戦力の艦を量産しようというわけだ。それまで帝国海軍が建造してきた1回の決戦のために、最高最強を狙って設計された艦艇群とは全く違うコンセプトの艦である。


 当然海軍各部から反発の声が上がった。


「消耗を前提にするなど、敗北主義者の考えだ!」


「陛下がお与えになる艦にそんな侮辱できるか!」


 と言う意味のない精神論は山口も大阪も気にしない~


 当然気にするのは……


「そんな中途半端な性能の艦を造って意味があるのか?」


「巡洋戦艦は装甲が薄くなるから、敵弾を喰らえば即轟沈してしまう」


 と言う運用や設計での不備を指摘する意見であった。


 一方で、この意見に同調する向きもあった。


「攻撃力は戦艦級であり、数を揃えられる。或いは既存艦と組み合わせるなど、運用次第で幾らでも使い道はある」


「前大戦時ドイツの巡洋戦艦はイギリスのように轟沈しなかった。装甲を無駄に厚くせずとも、応急対策などの設計や運用上の工夫で防御力は上げられる」


 第一次大戦前後、列強各国(アメリカを除く)は高速で戦艦に準じ、防御力は劣る巡洋戦艦の建造に力を入れた。ところがイギリスの巡洋戦艦は大角度で落下する敵弾に対応できず、轟沈艦が出るという結果を生んだ。


 これに対して独逸の巡洋戦艦は設計上の防御対策が進んでいたこともあり、沈没艦は出たものの轟沈艦は出ていない。


 もちろん、だからと言って高速を出す巡洋戦艦の防御力が劣るのはまぎれもない事実なのだが。ただし、沈み難くすることは工夫次第で出来るのだ。


 こうして喧々諤々の議論が海軍内で行なわれたが、米英両国が新造戦艦の建造に着手したと言う情報が入ると、帝国海軍内ではこの巡洋戦艦に賛同する声が強くなった。


 と言うのも、米英が建造を開始した戦艦はいずれも条約の廃棄を見越した性能であることは間違いなく、そうなると現在建造中の「大和」「武蔵」のみでは対応しきれるか微妙だからだ。


 また日本と接近しつつあったドイツ海軍が建造した「シャルンホルスト」級戦艦も多いに刺激となった。


 結局、「大和」級戦艦の数合わせと時間稼ぎとして、帝国海軍では「扶桑」と「山城」の代艦名目で2隻の巡洋戦艦の予算を要求、議会から承認された。


 設計期間を短縮するため、この新型巡洋戦艦の設計は並行して進んでいた水雷戦隊支援用の超甲巡の設計を流用した。ただし、主砲は当初計画の30cm三連装三基九門から、46cm連装三基六門に変更され、弾薬庫と船体強度にもそれ相応の改良が加えられた。


 主砲口径を一気に46cm砲にまで拡大したのは、攻撃力のアップということもあるが、それとともに主砲砲身の量産による価格低下や、この時期製造が呉のみであり、多数の発注を掛けることで他の製鋼所などでも製造可能とする(必要な工作機械や技術の導入を促す)と言う意味合いもあった。


 ただし、砲塔の装甲などは「大和」型より薄くなっている。もちろんこれは艦の重量を抑える措置だ。


 戦艦として運用するのであるから、一応装甲は対36cm程度が望まれる。そのため、この点に関して艦政本部は「大和」型で得られた様々な工夫を凝らすこととなった。蜂の巣装甲の採用や、傾斜装甲の採用など、薄くても防御力を高める方法は何でも採用した。


 また消火装置や水防区画も、敢えて運用面での不便さに目を瞑って「大和」以上のものを塔載した。設計開始は「大和」より遅れたが、その分の経験をふんだんに取り込んだ。


 なお「大和」から取り入れられたのは内部の技術だけではない。例えば外見で言うと艦橋は「大和」に類似したものとなった。これはそれ以前に「比叡」で実験され良好な結果を残したのに加えて、「大和」とシルエットを似させる、艤装面でも有利であった。


 建造に当たっての工程や工員管理についても、「大和」に遅れること一年半での起工となったので、その分の経験を生かして、より効率的ね建造作業が可能となった。


 1番艦は「愛鷹」、2番艦は「筑波」と命名された。当初の計画ではこの「愛鷹」型を8隻量産し、「大和」型4隻を補完する計画であった。しかしその後の情勢変化によって3番艦以降の建造は中止となっている。


 厳重な軍機密の下建造された「大和」と違い、「愛鷹」型は起工前から大々的に新時代の帝国海軍の戦艦として喧伝された。これには「大和」型から目を逸らすと同時に、国民に帝国海軍の進化をアピールする狙いがあった。


 ただし主砲口径は46cmではなく、42cmとされた。40cmでは「長門」より格下と思われ、国民を失望させる危険性がある。しかし逆に46cmでは、米海軍の艦砲開発を加速させる可能性があるため、あえてこの値とした。


「愛鷹」は昭和13年、「筑波」は昭和14年にそれぞれ起工され、急ピッチで建造が進められた。


「愛鷹」型は「大和」型より一回り小さいだけであったが、折りしも日米関係が風雲急を告げているため、工事には全力が注がれた。この余波で、「大和」型戦艦4番艦である111号艦は予算や資材の手配に目処が立たず、起工先送りのまま建造中止となった。3番艦「信濃」も空母へ転用されている。


 それはともかく、こうした努力で「愛鷹」の竣工は「大和」よりわずかに三ヵ月遅れの昭和17年3月11日となった。


 ただし、このために「大和」型2番艦の「武蔵」と「愛鷹」型2番艦の「筑波」は昭和17年後半の完成にずれ込むこととなった。


「愛鷹」は当初から巡洋戦艦として建造されたため、それまでの戦艦のように第一艦隊ではなく、開戦以来活躍続く第一機動艦隊の第三戦隊第一小隊へと編入された。戦隊を組むのは高速戦艦の「比叡」と「霧島」であった。


 本来であれば充分な慣熟訓練を行なうべきであったが、間もなく6月に連合艦隊最大の作戦であるミッドウェー海戦が始動したため、「愛鷹」は練度に不安を抱えながらも、同作戦に参加した。


 しかしミッドウェー作戦は、日本側の油断やミスが加わり開戦以来活躍してきた空母「赤城」「加賀」「蒼龍」の三空母を失う結果となった。


 残る「飛龍」も艦載機のほとんどを失い、第一機動艦隊は事実上壊滅した。


 この海戦で「愛鷹」は奮戦した。主砲を使う機会はなかったが、両舷に塔載した10cm高角砲で多数の敵機を撃ち取っている。最後に残った「飛龍」を守り切ったのも、「愛鷹」の功績であった。また多数の不時着機のパイロット救出を行なっている。


 続いて昭和17年8月から始まったガダルカナル島を巡る戦いでは、まず第二次ソロモン海戦に参加したが、この時は大した活躍はしていない。


 続く南太平洋海戦では押し寄せる敵機を迎撃することに終始し、実に10機の敵機を撃墜している。また駆逐艦と共に漂流する敵空母掃討のために前進した際には、米空母「ホーネット」に魚雷を撃ち込もうとする米駆逐艦「マスティン」と「アンダーソン」を発見し、初めて46cm砲を敵艦に対して使用している。


 この攻撃は有効弾とはならなかったが、米駆逐艦2隻は「ホーネット」処分を断念し撤退、「愛鷹」は「ホーネット」の拿捕に成功している。


 「ホーネット」は後に日本海軍で「大鶴」として修理工事が行なわれたが、日本軍攻撃隊の攻撃による損傷や、アメリカ製艦艇による修理の勝手の違いにより工事は遅れ、完成したのが昭和19年12月であった、同艦は、最後の大作戦に参加する。

 

 続いて運命の11月13日、「愛鷹」は同じ三戦隊の「比叡」ならびに「霧島」と共にガダルカナル島ヘンダーソン飛行場攻撃に出撃した。しかしこの攻撃は米軍側に察知されており、キャラハン少将率いる巡洋艦部隊が日本艦隊を迎撃してきた。


 この結果起きたのが、第三次ソロモン開戦第一夜戦である。


 この海戦で「愛鷹」は巡洋艦に対しては46cm砲で、駆逐艦に対しては10cm砲で攻撃し、敵艦隊に大打撃を与えた。特に重巡「ポートランド」は46cm砲弾を立て続けに受けて轟沈している。


 しかし狭い水道内での乱戦となったため、日本側も「比叡」が大破し駆逐艦二隻を喪った。「愛鷹」も10cm砲一基が損壊したが、戦闘・航行ともに支障なしであった。


 この海戦でキャラハン艦隊は駆逐艦二隻を除く、重巡2、軽巡3、駆逐艦6隻を一挙に失った。だが日本艦隊のガダルカナル砲撃は阻止し、作戦目的を完遂した。


 日本海軍はガダルカナルへ向かう輸送船団を届けるべく、2日後再度ヘンダーソン飛行場への艦砲射撃作戦を実施した。


 これに対して米海軍も再度迎撃の艦隊を繰り出しして来た。戦艦「ワシントン」「サウス・ダコタ」を中心とする艦隊だ。ここに、日米両海軍が夢にまで見た、戦艦同士の艦隊決戦が行なわれた。


 しかし、この海戦も2日前の海戦と同じく近距離での夜戦となった。本来であれば40cm砲18門を持つ米海軍が有利であったのだが、文字通りの殴り合いとなってしまった。しかも、近距離戦となったため主砲砲弾がほぼ水平撃ちと言う、前代未聞の事態となった。


 このため、両艦隊とも打撃を被ったが、最終的に勝ちを収めたのは日本側であった。原因は日本側は巡洋艦と駆逐艦がバランスよく配置されていたのに対して、米艦隊は少数の駆逐艦しか護衛にいなかったことだ。


 海戦は最初自艦の砲撃で艦載機に火災を起こした「サウス・ダコタ」と探照灯を照射した「霧島」が共に殴り合ったが、「霧島」が「愛鷹」巡洋艦の支援を受けると「サウス・ダコタ」は追い詰められていき、最後は「愛鷹」の砲撃が致命傷となり爆沈した。


 この間に「ワシントン」も砲撃を開始し、「霧島」を大破させるが砲撃で自艦の位置を暴露したために「愛鷹」の46cm砲弾を数発被弾した。さらにその被弾による炎目掛けて水雷戦隊が行なった魚雷攻撃によって3発を被雷し航行不能になった「ワシントン」はその後自沈。


 海戦は日本側の勝利となった。


 しかし、作戦目的のガ島飛行場砲撃は「霧島」が脱落した上、「愛鷹」も中破状態で砲弾の多くを消費したため、短時間の砲撃しか出来ず、米軍機40機あまりを焼き払ったが徹底を欠いた。


 結果翌朝ガダルカナルに突入した船団は上陸物資の揚陸に成功するも出撃した船の半数を失い、揚陸物資も3分の2近くが炎上して、実質的に失敗した。


 こうして第三次ソロモン海戦は敵艦隊に大打撃を与えるも、ガダルカナルの救援には失敗し、この後は駆逐艦によるネズミ輸送や潜水艦によるモグラ輸送主体となる。これらの輸送は米艦艇が壊滅状態となったため、12月ごろまでは成功したが、微々たる補給ではガ島の兵士を生かすのが精一杯であるため、結局ガ島は2月には撤退となった。


 一方「愛鷹」は修理のために一端本土に帰還し、修理と改装(対空火器や電探の設置)を行い、さらに遅れて竣工した姉妹艦「筑波」と第十三戦隊を編成した。司令官には「愛鷹」産みの親である大阪大佐が就任した。


 昭和18年4月に「愛鷹」は「筑波」と共に再度ラバウルに進出し、この頃連合軍による圧力が厳しくなった中部ソロモン方面への出撃準備を行なった。またちょうどこの時期行なわれていたい号作戦への支援も含まれていた。


 しかし、い号作戦は充分な戦果が挙がらないまま終結し、さらに作戦終了直後に前線視察中の山本五十六連合艦隊司令長官が戦死するという悲劇が発生した。


 この間「愛鷹」と「筑波」は専らラバウル港内にあり、時折空襲に来た連合軍機に自慢の10cm砲を発砲して戦果を記録した。特に重爆の撃墜はラバウル基地の隊員達の士気上げに貢献した。だが結局、一度も戦闘行動を行なわないまま、5月にトラック島へと撤収した。


 その後しばらくの間、連合艦隊司令部の人事異動などの混乱で出撃の機会がなかったが、7月に入ってニュージョージア島などに米軍が上陸したため、再度ラバウルに進出した。


 この時期のソロモン海域には両軍とも軽巡や駆逐艦と言った身軽な小型艦艇のみ投入していたが、連合艦隊司令部では敵への心理的圧迫や、その高速性能に期待して「愛鷹」型を投入したのであった。


 そしてこの判断は結果的に吉と出た。8月6日、コロンバンガラ島の救援に出撃した際に塔載水偵と塔載逆探によって待ち伏せていた米駆逐艦隊を捕捉し、46cm砲による先制を攻撃を実施した。この攻撃で米駆逐艦1隻が轟沈し、米駆逐艦隊は魚雷を発射しつつも遁走せざるを得ず、日本側はコロンバンガラ島の救援に成功した。


 またこの翌日にはニュージョージア島の米軍への艦砲射撃を実施した。2隻はこの間度々敵機の空襲を受けるも、その高い対空火力に物を言わせて損傷を被りつつも脱出に成功した。


 ただし、これらの反撃も圧倒的な物量を誇る米軍の前には、その侵攻を僅かに遅らせることにしかならず、戦局を変えるには至らなかった。


 その後2隻は引き続きラバウルに停泊し、来襲する米航空機に睨みを利かせた。この間に中部ソロモンでの反攻を行なうために、栗田中将率いる第二艦隊がラバウルに来航し、出撃準備に取り掛かった。


 ところが10月15日からラバウルは米陸軍爆撃機による連続空襲を受けた。この際に「愛鷹」と「筑波」は主砲による三式弾射撃を含めて対空戦闘を実施し、米軍機多数を撃墜した。特にB24爆撃機を短期間に30機あまり撃墜し、ラバウル基地の将兵から歓迎された。


 こうした戦闘が続き、主砲砲身の換装の必要が出たため11月3日に二艦は揃ってラバウルを出港し、トラック経由で本土へ帰還した。ところが、それと入れ代わりに進出した第二艦隊が12日の米機動部隊による空襲で打撃を被ると言う事態になった。2隻は間一髪で、打撃を免れた。


 本土での小規模な点検と主砲換装を終えた2隻は年をまたいで1月下旬にトラック島に進出した。


 そして2月16日にトラック島を機動部隊より発進した米軍機が奇襲した。この時トラック島内には他に修理を終えて進出した「比叡」と「霧島」以外に大型艦はおらず、あとは軽巡や駆逐艦のみであった。


 米軍機の目標は飛行場と四隻の戦艦に集中した。しかし、ここで4隻は後に伝説となる迎撃戦を展開する。予め空襲に備えて主砲に装填されていた三式弾を発射して敵編隊を大混乱に陥れると、環礁内で回避運動を展開、巧みに対空戦闘を行ないながら、爆弾を避け続けた。


 これに触発されて環礁内に停泊していた軽巡「川内」「神通」「由良」「那珂」「阿賀野」も対空戦闘を行い、2日間の空襲で「由良」と駆逐艦2隻が失われたが、それ以外の艦艇の損失は0であった。


 最終的に「愛鷹」と「霧島」が一発ずつ被弾したが、四隻の被害はそれだけであった。この4隻が健在であったため、スプルアーンス提督は戦艦による環礁襲撃を諦めたとされている。


 鬼神の如き対空戦闘で、日本側は米軍機を実に200機撃墜と発表したが、実際の撃墜数は50機程度であった。ただし、不時着水や帰還後の放棄を加えると米軍の損失は100機を軽く越えており、日本側艦艇の死に物狂いの応戦がわかる。


 だがそれにもかかわらず、トラック島の飛行場と港湾施設、また輸送船も6隻が失われ、トラック環礁は壊滅した。


 この空襲の損傷修理のため、「愛鷹」と「筑波」は再度日本へ戻って修理を行なわなければならなかった。この修理のため「愛鷹」と「霧島」は6月のマリアナ沖海戦に参加できなかった。


 マリアナ諸島に侵攻した米艦隊を攻撃するマリアナ沖海戦は、日本機動艦隊と米機動艦隊の久々の正面対決であったが、既に両機動部隊の戦力差は歴然としており、日本側は空母「翔鶴」と「飛鷹」、さらに艦載機400機あまりを失ったのに対して、米側は空母「ワスプ」の大破を含む損傷艦と不時着水など含めた200機あまりを失ったのみで、日本側の敗北に終わった。

 

 続く10月、フィリピン攻略を狙う米軍を殲滅するべく行なわれたレイテ沖海戦で、「愛鷹」と「筑波」はレイテへ殴りこむ栗田艦隊に加わった。


 このレイテ沖海戦では、空母「大鳳」を旗艦に「飛龍」「瑞鶴」「千代田」「千歳」「瑞鳳」の六空母に戦艦「伊勢」「日向」「比叡」「霧島」、軽巡3、駆逐艦10を中心とする小沢艦隊が敵機動部隊を北方に釣り上げ、その間に戦艦7、重巡10、軽巡3、駆逐艦20隻の栗田艦隊、戦艦2、重巡2、軽巡1、駆逐艦6の西村艦隊、重巡2、軽巡2、駆逐艦7の志摩艦隊がそれぞれ別ルートからレイテ沖に突入し、敵上陸船団を一掃すると言う作戦であった。


 小沢艦隊の六空母の搭載機はわずかに150機で、完全なる囮であった。


 この作戦は序盤から各艦隊の連携が上手く行かず、さらに栗田艦隊が出撃早々重巡の「愛宕」と「高雄」を撃沈破されてしまった。さらにシブヤン海における空襲で戦艦「武蔵」が落伍してブルネイに撤退すると言う風に、決戦前から被害が続出した。


 ただしそれ以外の致命的な損害はなく、栗田艦隊は一度退避すると敵に見せかけた後、再度進撃した。そしてサマール島沖合いで米護衛空母艦隊と遭遇し、これを被害を出しつつも撃破した。


 その間にレイテ湾に先行して突っ込んだ西村艦隊と志摩艦隊はそれぞれ米艦隊の反撃の前に打撃を被り、撤退した。


 一方小沢艦隊はハルゼー機動部隊の釣り上げ成功の後、執拗な空襲を受け「瑞鶴」を除く全ての空母が喪われたが、それ以外の艦艇の損害は少なく、逆に残存艦隊は北上してきた米巡洋艦隊を撃破したくらいであった。


 そして鬼のいぬ間のレイテ湾に栗田艦隊が突入した。そこへ現れたのが、西村艦隊を撃破して慌てて補給を済ませてやってきたオルデンドルフ少将の戦艦部隊であった。ここに、この戦争で二度目の戦艦同士の対決が始まった。


 しかしこの海戦は日本側にとって有利なものであった。米艦隊は低速旧式艦ばかりであったのに対して、日本側は46cm砲艦を3隻も要しており、さらに脱落艦が多数出ていたが巡洋艦と駆逐艦も半分以上が健在であった。


 この海戦で日本側は米戦艦6隻を全滅させ、巡洋艦と駆逐艦も多数撃沈した。しかしこちらも「金剛」「鳥海」「熊野」などを失い、さらに弾薬の欠乏もあってレイテ突入は不可能と判断した栗田中将の命令で撤退した。


 レイテ沖海戦は米艦隊の一定の損害を与えたものの、フィリピン侵攻を挫くことには失敗し、さらに参加艦艇の多くも損傷を被り、ここに連合艦隊は壊滅した。


 比較的損傷の小さかった「愛鷹」と「筑波」はいったんシンガポールに回航され、そこで補給と整備の後本土へ向かう高速輸送船団の護衛に付いた。この船団は空母「隼鷹」や軽巡「鬼怒」などの強力な護衛が功を奏し、途中空襲や潜水艦の攻撃を受けて駆逐艦「村雨」を失っただけで、タンカー4隻、輸送船7隻が無事に門司に到着し、物資不足に喘ぐ日本本土にとって素晴らしい送りものとなった。


 レイテ沖海戦はフィリピン救援にこそ失敗したが、米海軍も少なからず打撃を被り、一時的に米機動艦隊の活動が鈍った。この隙を突いて、日本海軍はレイテ沖海戦後南方に残る艦艇を総動員して輸送作戦を展開、この最中戦艦「霧島」重巡「三隈」が失われたが、多くのタンカーや輸送船を日本本土へ回航させることに成功し、最後の作戦に備えての物資備蓄を行なうことが出来た。


「愛鷹」と「筑波」は日本本土へ帰還後、修理を行い、浮かぶ対空砲台として東京湾に在泊し、来襲するB29や艦載機に対空戦闘を行い続けた。


 しかし前年陥落したマリアナ諸島から飛来するB29の大空襲によって日本の都市は次々と壊滅して行った。そして4月1日、ついに米軍が沖縄に上陸した。


 これに対して連合艦隊は菊水一号作戦と神武作戦を決定。菊水一号作戦は修理完了した「大和」「武蔵」に軽巡2、駆逐艦9隻の第二艦隊で沖縄へ特攻する作戦であった。


 対する神武作戦は機動部隊による特攻で、残存する「信濃」「大鶴」「瑞鶴」の3空母に陸上爆撃機40機を塔載し、戦艦「榛名」「比叡」と重巡1、軽巡1と駆逐艦4の護衛でマリアナ諸島のB29基地を爆撃する作戦であった。加えて「愛鷹」と「筑波」も出撃し、こちらは軽巡「大淀」駆逐艦3隻とともに硫黄島を艦砲射撃することとなった。


第二艦隊の沖縄突入は、出撃翌日の空襲で「武蔵」と「能代」、駆逐艦三隻を沈められつつも九州の各基地より派遣された上空掩護機の助けもあって、沖縄近海への突入に成功、最終的に戦果報告のため伊藤整一司令長官の命令で帰された駆逐艦「雪風」を除く全艦が撃沈されたが、米戦艦「ニュージャージ」、退避中の空母「エセックス」「カウスペンス」を撃沈するなど相応の戦果を上げた。


 またマリアナ攻撃に向かった機動艦隊は、無事に銀河全機を発艦させて出撃間際のB29を奇襲、実に300機あまりを焼き払った。しかし、銀河部隊は奇跡的に不時着点に戻った3機を除いて全滅し、機動部隊も司令長官である山口多聞中将と「信濃」が他艦の楯となる形で撃沈された。

 

 そして硫黄島攻撃に向かった大阪少将率いる艦隊は、機動部隊残存艦艇の撤退を確認して硫黄島に突入し、元山飛行場など各飛行場を焼き討ちにした。この砲撃で進出したばかりのP51戦闘機など80機あまりが炎上、マリアナのB29と合わせて日本本土空襲を2ヶ月間停止させることとなった。

 

 砲撃終了後同艦隊は全速で撤退するが、機動部隊の撤退を待つために2日間の時間をロスしたことで、同艦隊は米巡洋戦艦「アラスカ」「グアム」を中心とする沖縄より駆けつけた高速戦隊と遭遇することとなった。


 米巡洋戦艦は、戦艦群が「大和」への対応と対地砲撃を行なわなければならない状況で、マリアナより撤退する日本機動艦隊撃破に向かった。その最中に硫黄島からの救援を受けて再度針路を変更して小笠原へと向かった。


 昭和20年4月9日夜半、日米最後の艦隊決戦が発生した。しかも、巡洋戦艦同士という戦いであった。この海戦で序盤は米艦がレーダーに物を言わせて命中弾を「愛鷹」と「筑波」に次々と撃ち込んだが、両艦が「アラスカ」と「グアム」に命中弾を出すと形勢は逆転した。


「アラスカ」と「グアム」は46cm砲弾に打ち勝つことができずに、沈没した。「愛鷹」と「筑波」も深手を負ったが、無事に生還し、日本海軍最後の勝利を飾った。


 その後2隻は細々と修理を行なったが、既に資材も燃料も欠乏しており、その後は沿岸につながれて対空砲台として過ごした。


 7月23日に沖縄が陥落し、さらに8月9日に広島、12日に小倉へ原子爆弾が投下され、11日にはソ連が対日宣戦布告した。このため日本政府は7月30日に出されたポツダム宣言を受託し、8月17日に玉音放送を行い、9月3日に東京湾の米戦艦「ケンタッキー」上で降伏文書に調印した。


 日本陸海軍は解体され、艦艇も復員輸送に用いる艦艇以外は全て接収され、調査実験の後撃沈処分されるはずであった。航行可能状態であった「長門」ならびに「比叡」は原爆実験に供され、呉で大破着底していた「伊勢」「日向」「榛名」は解体された。


 しかし「愛鷹」「筑波」の2隻は撃沈された「アラスカ」「グアム」の代替艦として接収され、横須賀で応急修理の後、太平洋を渡り米本土へ回航。調査の後米巡洋戦艦「フィリピンズ」「プエルトリコ」として編入され、1950年の朝鮮戦争に参加し、その46cm砲で北朝鮮軍を恐怖に陥れた。


 その後、1955年に2艦は揃って新たに日本に発足した海上防衛隊に貸与(後供与)され、大型警備艦として再度「愛鷹」「筑波」を名乗った。そして以後は日本海上防衛隊の主力艦としてソ連に睨みを利かせ、さらには日米同盟に則りベトナム戦争と湾岸戦争に参加。1993年に揃って退役し、「筑波」は解体されたものの、「愛鷹」は広島県江田島に記念艦として保存され、戦艦「大和」の展示を行なう大和ミュージアムと共に、旧日本海軍の足跡を後世に伝える役割を担い、余生を送っている。

 

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[良い点] 二隻の巡洋戦艦によって被害が増えた米軍涙目ですなw [気になる点] フィリピンのくだりで金剛が二回失われた事になってますが、どちらかは別の戦艦ではないでしょうか? [一言] 面白かったです…
[良い点] 「戦艦愛鷹の生涯」という感じの文章が良かったです。 [一言] 史実で一番戦場で活躍した日本戦艦は、高速戦艦である金剛型戦艦なので、架空戦記では大和を三十ノットの高速戦艦にしたり、超甲巡を建…
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