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一応続きです。読んで頂けたら幸いです。
・・・・・・い
・・・・おい
お・・・・ろ
「いい加減に起きろ!」
痺れていた腕から顔を上げる。目の前にある黒板にはグラフと数字。何を意味しているのかわからない式が綴られている。
目の前に立つ教師は眼鏡を掛けて白衣を纏っており、痩身で教壇に立っているせいか縦方向に大きく見える。教師はおそらく黒板に書かれている内容について授業を行っていたのだろう。
僕が10年の学生生活で教師について学んだことは授業中に教室の真ん中で堂々と俯せている生徒がいたら放っておく教師と叩き起こす教師の二通りに分けられることだ。今、目の前にいる教師は後者で僕以外の生徒は真面目に授業に参加しているらしい。
教師の立つ後ろの黒板には『酸と塩基の反応:中和』と書かれている。単元のタイトルに続いて数問の例題が挙げれていた。
「よし、この問題を答えてみろ」
教師は黒板に書かれている問題の一つを指定する。
『0.050mol/lの硫酸40.0mlを中和するのに,0.080mol/lの水酸化ナトリウム水溶液は何ml必要か』
指された先にある問題を一瞥して、一息で
「硫酸は二価の酸。水酸化ナトリウムは一価の塩基です。水酸化ナトリウムの必要量をXmlとして中和の条件に当てはめると、2×0.050×40.0/1000=1×0.080×X/1000となります。そこからXを求めると答えは50。つまり中和に必要な水酸化ナトリウム水溶液の量は50mlです」
そんな風に答えられる学生は授業中に寝たりはしないだろう。だから僕は寝ぼけた顔で教師にこう伝えた。
「わかりません」
教師は一度、目を閉じてから教室中に聞こえる大きさで一つ溜息をついた。
「だろうな。毎回、授業が就寝の時間になっているようなのが分かるわけがない。さて、他の者は私が指定した問題は解けているであろうから、特に質問が無ければ次の単元に進むとするが何か質問はあるか?」
口調は問い掛けではなく、断定であった。そんな口調では質問の出来る雰囲気になるわけもなく教師は自らの授業が予定通りに進むことに満足したのか黒板に書かれている文字を愛おしそうに消している。
教師は背を見せながらも口を働かせている。
「来週には定期考査も始まる。試験範囲は終了しているがこの単元で躓いているようではテストの点数は目も当てられないことになるだろう。各々が気を引き締めて努力をしておくように」
黒板には白色の残滓が残り、重ねて書かれることになる次の内容を書き写すのは大変だろう。自分には無関係だなと思いながら少し痺れていた腕の位置を調節して、真っ暗な空間に顔を埋めることにした。
次に目が覚めるのは今の授業が終了した時の挨拶で起こされる。あと十五分くらいであろう、その短時間では快眠とはいかないであろうが、極力起きている時間が少なく、現実の時間から解放されていればいい。
暗闇に引きずり込まれるようにして意識が遠くなる。睡眠と覚醒の狭間で微睡む。
目の前に感じられる暗闇が一時の逃避を許してくれる。五感が一瞬の跳躍を経て僕の世界に辿り着く。
自分の五感が一瞬の跳躍で世界を跨いだ。
視界はぼんやりとしているが、聴覚には微かな空気の振動すら音として伝わる。触覚によって自分の体と外界との境界を自覚させてくれる。鼻腔を刺激する香りに嗅覚が反応する。口腔内は無味で少しばかりの乾燥を感じた。
僕は傍に居るはずの存在をできるだけ早く感じ取るためだけに全力で五感を働かせる。
「ソムニフ!!」
考えるよりも先に喉から大声を吐き出す。思いが通じたのがそれとも声が聞こえたのかわからないが何かがこちらへ移動する気配を感じた。
「起きたのね、おはよう」
少し低い声にゆったりと落ち着いた口調。ただ、ドアから顔だけを覗かせている姿は声から受ける印象とは異なり愛らしく、柔らかな輪郭と穏やかな表情が一層と際立つ。
僕の目に映る視界に彼女が存在するだけで景色が明瞭になる。彼女の背景が見えているのに正常に認識することができず、世界は僕と彼女の空間になる。
「どうかした?呆けているようだけど、まだ寝惚けているのかしら?」
彼女は少しからかうような口調で問い掛けながら僕に近づいてくる。僕との距離が縮まる。彼女からの香りで何も考えられなくなる。
彼女が手を伸ばし僕の頭を撫でる。寝起きである僕の寝癖を丁寧に直してくれる。
「ありがとう、ソムニフ」
彼女と一瞬だけ目が合うが、気恥ずかしさですぐに逸らしてしまった。
人の目を見て話をする行為でさえ満足に行えない自分に苛立ちを感じる。これがソムニフではなく別の誰かなら自分の劣等感だけで済むのだけれど、ソムニフの前で情けない振る舞いしかできない自分がどうしようもなく頼りなく感じ、自分の情けなさをソムニフに悟られないよう振る舞いが不自然に大きくなってしまう。いくら声を張ろうが、両手を広げて体を大きく見せようが肝心の中身が伴わない。むしろ器を大きく見せようとすればするほど、中身の小ささがより小さく感じてしまう
「ねぇ、ソムニフ。今回はどこに行こうか?そうだ、ソムニフはどこか行きたいところとかある?でもソムニフってあんまし遠出するの好きじゃないっけ。どうしようか・・・」
口数が多くなる。ただの緊張だけれどこれ以上の緊張など無いのではないかと思う。
僕の言葉を最後まで聞いてくれたソムニフが柔らかく微笑んでくれた。
「そうね。あまり遠くに行くことは無理ね。ごめんなさい」
「い、いや、ソムニフが気にすることないよ。じゃあいつもみたいにここでのんびりしようか」
「ええ、そうしましょう」
僕はここで初めて周りの景色に意識を向けた。目の前に広がっていたのは規則的に並べられた机に同じ数の椅子。さっきまで授業を受けていた教室。ただ、その教室には僕とソムニフの二人しかいない。
窓の外には夕焼けの橙色が広がり、教室の明暗をはっきりと映し出している。夕陽に彩られたソムニフが眩しくて僕は目を細めた。
「ここはあなたがよく居眠りをしているところね」
ソムニフは教室に目を配り、そう言った。
「いつも寝ているわけじゃないよ。面白くない授業だけだから」
僕はいかにも勉強など無意味だという態度で愚痴る。行わなければならないことに対してさも正論であるかのように価値、無価値を問う、そして無価値と判断したら意味もなく反抗してみる。そうすることでしか僕は目の前にいるソムニフに話せる話題が無い。話してさえいればきっと僕とソムニフの関係は良好になると信じて・・・。
「私にはよくわからないのだけど、あなたは何が面白いと思うの?」
ソムニフの問いに僕は答えられなかった。
時間がゆったりと刻まれていく。
僕をまっすぐに見つめているソムニフの目には俯いた僕が映っているはずだ。否定的な考えを述べるときには饒舌になる。否定によって保たれる自己肯定などちっぽけなのに、そのちっぽけな自己の為に周り全部を否定しないと安心できない。
ソムニフは静かに移動して、椅子には座らずに隣の机に腰掛ける。その姿がとても自然で初めからそうであるかのような佇まいであった。
「僕はずっとソムニフの傍に居たい・・・」
・・・違う。
「ソムニフと一緒ならここでずっと暮らしたいよ。ここでは空腹にもならないみたいだし、誰からも怒られたりせずにのんびりできる。そのうちにやりたいこともきっと見つかるはず」
・・・無理だ。
「それにソムニフだって僕が来ないと寂しいじゃん。ここでなら僕が寝るのを我慢すればいいわけだしさ。何の問題ないでしょ?」
・・・言い訳だ。
ソムニフは腰掛けている机の上で体を後ろに反らせるようにして両手をついた。その体勢のまま僕の方に顔を向ける。
机に腰掛けている所為か少しだけ見上げるようにして僕を見つめた。
「あなたが眠るのを止められるとは思えないわ、多分だけど・・・」
「そんなことない!」
間髪入れずに反論する。が、それと同時に意識が朦朧としてきた。
視界が霞む。遠くで鐘の音が聞こえてくる。
「ソ・・・ソム・・・ニ・・・フ・・・」
声が出ない。
ぼやけた視界に見えていたソムニフはまったく動揺せずに微笑んでいた。口が動いているようだが、何を言っているのかは聴こえなかった。
(おやすみなさい。それともおはようかしら・・・)
誰の耳にも届かない声が聴こえた気がした。
誤字、脱字があったかもしれませんが、読んで頂きありがとうございます。