朔来志輝
僕の意識は、虚無に飲み込まれた今もまだ、残り続けている。
この渦は全てを喰らった。もう吸収する星の意志は存在しない。ひとつの星が、地球が、この渦に消えたのだ。
だが、それで全てを終わらせてはいけない。
僕はまだ、信頼の責任を果たしてはいないからだ。
今の僕は星の意志そのモノでありながら、ひとつの独立した存在を確立した唯一の意識だ。
指先を動かすかのように、僕に満ちた地球ひとつ分の星の意志を操ることができる。
だが指先なんていうのは比喩の話だ。僕はもう意識だけの存在で、身体は既に残っていない。
それでも、僕の意識が定めた両眼は、開くことができる。
僕が最後に使う真実眼は、ブラックホールを起こす直前に僕が望んだ真実を、「創造の先にある真実」を創り出すんだ。
さあ、眼を開け。僕にはなんでもできる。
世界を作り直すことなんて、「世界を手に入れた」今の僕には造作もないことなのだから。
……これで、果たせたのだろうか。
僕の願いは、信頼の責任は、これで……
「行ってきまーすっ!」
元気な声を上げて、爽やかな朝の空の下に白羽千里は外へ飛び出す。
「気を付けてねーっ」
そんな少女を送り出すのもまた少女だ。正確には成人もしている立派な大人なのだが、その小柄な見た目は学生と間違えられてもおかしくない。そんな愛嬌ある笑顔で手を振るエプロン姿の女性の名は日向慧愛。ここさくらい孤児院に勤める、子供達の母親代わりだ。
昔から彼女はここで住みここで働き、子供達の世話をしている。今日も、昨日までと変わらず、いつも通り。
中庭は手入れが綺麗に行き届いており、小さな子供達も多いので家庭菜園を作り野菜を育てている。
瑞々しいトマトの赤が緑の隙間に見え隠れし、そろそろ収穫時であることを知らせている。
逞しく育つ野菜のように、ここに住む子供たちも逞しく生きてくれたなら。そう願い中庭を大改造してから、もうどれくらい経っただろうか。
昔のことは詳しく思い出せないけれど、それでもこれは私と子供達で作ったモノなんだ。そう思い、愛着を持って慧愛は菜園を大切にしている。
家事の傍らで流し見る、ニュース番組を付けたままのリビングから、ふと気になる話題が出たので慧愛はテレビの前に向かう。
それは、遠い地方の住宅が放火によって全焼したというモノだ。
何故だか、昔から火災の事件が気になってしまう。そして、その内容を聞く度に心を痛めている。
彼女自身は火事に遭った記憶は無いのだが、それでも彼女は火事を何よりも恐れ、火災で命を落とした人々を偲んでいた。
何故、炎を見るとこんなに切なく、恐ろしく、しかしどこかに熱ではない温かさを感じているのだろう。
「……洗濯物、干さなくちゃ」
違和感を覚えながら、それでも忙しい家事に没頭すれば忘れてしまっている、その程度の感情だけれど。
慧愛は、確かに炎に何かを感じていた。
「……であるため、ここの式にはこの公式を当て嵌めることで解を導き出すことができます」
私立姫梨ヶ丘学園では、今日も変わらず生徒たちがその本分を果たしに集まっている。
この教室では着任二年目の数学担当、雲雀青貴が授業を仕切っていた。
「雲雀先生」
「何ですか、千種さん」
問題の解答例を黒板に書き込んでいる雲雀教師に声を掛けたのは、千種かなめだ。
突然の挙手に、彼は眼鏡をくいと持ち上げてその様子を伺った。
彼女は今朝から顔色を悪くしていて、クラスの友達にも心配を掛けていた。
朝はまだ耐えられていたのだが、授業が始まると状態が悪化したようだ。
「すみません、体調が優れないので保健室に行かせてください」
「わかりました。では、保健委員の……」
「いえ、一人で行けます」
かなめは覚束ない足取りで教室を出て、保健室へ向かう前に女子トイレに寄ると、洗面所で耐えきれずに吐き出した。
何で? どうして? 意味わかんない。
「どうしちゃったの、みんな……」
消化しきれなかった朝食を全て胃から出し切ると、かなめは改めて保健室に向かった。
「どうした、急患か? 顔色が悪いようだ」
迎えてくれたのは、養護担当であり落ち着いた雰囲気を持つ女性、時雨泉だ。
彼女は表情からかなめの容体を察し、清潔なベッドを用意してそこにかなめを寝かせる。
「気分はどうだ? 昨日、何か無理でもしたのか?」
「……先生、怒らないで、笑わないで、聞いてくれますか?」
布団を被ったかなめは、震えた声で時雨教諭に告げる。
「あなた、レイズさん、ですよね……? 何で、この学校で先生、やってるんですか……?」
目を覚ました。白い天井は夕焼けに染まっていた。
重い身体を起こして、私は枕元に置かれた小さなメモを手に取る。
『相談にはいつでも乗る。今日はゆっくり休みなさい』
時雨先生の字だった。どうやら、精神的な病気を疑われちゃったみたい。
おかしいのは私なの? 私のまわりの、あなたたちじゃないの?
だって、志輝がいないんだよ?
陽祐も、アエリアちゃんもレオも、慎次郎さんだっていなくなっちゃった。
またあの怖い戦いかなって思った。だけど、まるで志輝そのものがいなくなっちゃったみたいに、みんな志輝を忘れていて。
あの日、戦いに関わっている人たちが孤児院に集まっている時に見た人たちが、最初からそうだったようにこの学校やさくらい孤児院に居て。
千里ちゃん達ですら、志輝の事を知らなくて。
また私、怖い夢を見ているのかな?
現実、なのかな、また。
教えてよ、志輝。
ここが現実でも夢でも、どっちでもいいから、志輝に会いたい。
お母さんにだって頼れないんだよ。
私だけが覚えてるの、辛いよ。
すっかり日が落ちてしまっていた。私はもう一度、さくらい孤児院を訪れていた。
朝いちばんに会いたいなって思って来たけれど、私の会いたかった人は既にいなくて。
それどころか、みんながその人のことを忘れていて。
混乱して、逃げてきちゃった。
だけど、やっぱり逃げられないよ。逃げても、志輝は来てくれなかった。
こんな突然さよならだなんて、あんまりだよ。
私は孤児院のチャイムを鳴らす。
朝に私に会って話した女の子が、玄関まで出てきてくれた。
「中にどうぞ、かなめちゃん」
名前、なんて言ったっけ。私の知る貴女の名前はケアちゃんだったはずだけど、今朝そう呼んだらきょとんとされちゃったんだよね。
ケアちゃん改め慧愛さんは、私の事を昔から知っているようだった。千里ちゃんたちとよく遊んでくれたねって言われたけれど、確かにそうだけど、でも私はそこに必ず志輝も居たことを覚えている。
陽祐のこと、アエリアちゃんのことも聞いてみたけど、全然ダメ。慎次郎さんはここの大黒柱だったのに、それすらもいなかったことになっているみたいだった。
何で、私だけがそれに気付いてしまったんだろう。何で、みんなが忘れていることを私だけが覚えているんだろう。
志輝の部屋があった場所は、昔に何かあって立ち入り禁止にしたって慧愛さんから聞いた。きっと、そこに入れば何か分かる。そんな気がする。
鍵を受け取って、私は志輝の部屋に入った。
最後にここに来たのはいつだっただろう。でも、その時とほとんど変わらない志輝の部屋。月明かりだけが差し込むこの部屋だけは、確かに志輝の居た証だった。
やっぱり、私は間違っていないんだ。志輝は、確かにここにいたんだ。
じゃあ、志輝は今どこにいるの? みんなはどうして志輝を忘れてしまったの?
ふと机の上を見ると、チェス盤の上に一本、駒に紛れて横たわっている何かに惹きつけられた。
暗闇の中で月明かりが差し込む、その唯一の光の先で、鈍い銀色を視覚に反射させるモノ。
「クレヨン……?」
鍵の掛かった立ち入り禁止の部屋なのに、子供がこれを置いて行けるはずない。志輝が持ち込んだのかな……
手にとってみようと、クレヨンに触れようとした途端。
私の意識は、そこで途切れた。
光だ。眩しい光が見える。
それに暖かい。とても居心地が良くて、波の音も聞こえてきて。
絵に描いたような、穏やかな島。そこに、私は寝ころんでいたみたい。
背中にくっついちゃった土や草を払って立ち上がると、見上げた視線の先に、見覚えのある背中が立っていた。
見覚えがある、なんてモノじゃない。ずっと探してた。
私はその背中に駆け寄り、でも、途中で立ち止まってしまう。
彼は海を見ていた。
遠くに見える、白い鯨を見ていた。
でも、私がその傍らに立って見た、彼の左目は銀色をしていて。
夢、だからかな。
「……ここで、まさかお前に会うとは思わなかったぞ。かなめ」
呆然としてしまった私に、彼は、志輝は、微笑みかけた。
僕が僕のために作った、星の歴史。
これまでと同じ過去から始まり、これまでと同じ歴史を辿りこれまでと同じ世界を再構築する。
だが、ただ同じことを繰り返すだけでは再び朔来慎次郎が「戦い」を仕組んでしまい、同じ結果を生み出してしまう。
だから、僕は慎次郎の存在のみを否定した歴史を作った。
しかし彼は既に星の意志を支配する、最も星そのモノに近い存在だ。存在の痕跡、その密度は計り知れない程大きかった。
僕という存在そのモノすらを引き換えにしなければ、最後の最後で逆転を許す結果になっただろう。
そして作り上げられた世界は動き出し、慎次郎に深く関わった人物達は新たな世界の中で新たな役割を持って、その記憶を都合良く捏造することで平穏を取り戻したのだ。
慎次郎を葬ったからと言って、改変前の歴史で死んでいった人々が生き返るわけではない。それを真実として見通すには、僕という星の意志はもう殆ど足りなかった。
僕の中にいた参加者たちやエリクシルの存在も、歴史改変によって星そのモノに還元され、安らかな眠りについた。
僕はひとりで、新たな世界の創造者として、この星を見守るだけの意識と成り果てていたというのに。
夢でも見ているのだろうか。
懐かしい顔が、僕の隣に姿を見せていて、ふと気が弛んでしまった。
「何故、お前がここにいるんだ」
「逆だよ逆っ! 志輝、あんた、何でいなくなっちゃったのよぉっ!」
涙で瞳を潤ませるかなめ。この騒がしさは、少し前まで当たり前のモノだったはずなのに、今ではとても懐かしく響いてくる。
「みんなおかしくなってるの! 志輝もアエリアちゃんも陽祐も最初からいないことになってるし、ケアちゃんとかバリアさんとかが最初から私の周りにいたって誰も疑わないの!」
それはそうだ。そういう世界を、僕が創ったのだから。
むしろ何故かなめが歴史改変の影響を受けずに僕を認識しているんだ。何故星の意志に直接入り込んで来ているんだ。そっちの方が僕には不思議でならない。
「何だか別の世界に来ちゃったみたいで、怖かったんだよ……まるで、覚めない夢の中にいるみたいで」
「……お前の生きる世界が現実で真実だ、かなめ」
言いながら、僕は右目に意識を集中させる。魔王眼、開け。
『Open Your Eyes……』
言葉が右目の黒い視界に浮かぶと、そのまま僕は隣のかなめを見た。
僕の思考、意志を対象に与える魔王眼の能力。
「僕という人間は歴史上から消えている。その代わり、僕が創り出したそれが、最善の歴史を歩んだ世界なんだ。だからお前も、僕を忘れてくれ」
「い、いや……いやだよ、志輝……っ」
僕が与えるのは、歴史改変を経た世界、それが紡いできた彼女の“新たな”真実の記憶だ。
何故か覚えていたらしい僕の記憶は完全に上書きされ、彼女の中にある僕の存在の痕跡が消え去った。
記憶をその場で作り変えたそのショックが強過ぎたのか、かなめはその場に倒れてしまう。
まったく、最後まで世話が焼ける幼馴染だ。
『千種かなめを真実の世界に帰し、あるがままの歴史とその未来を約束する』
今度は両眼で。真実眼を開いてかなめをこの空間から優しく拒絶する。
世界に帰れば、今度こそ自然とその世界に馴染んでいるはずだ。だからもうこんな所に迷い込まないでくれ。僕の知る変わらないその姿で、僕の存在を否定しないでくれ。
僕は星の意志として世界を見守る。それだけでいいんだ。
かなめの記憶という、僕が人間であったことを知る最後の楔を引き抜いて。
僕はようやく完全に、「朔来志輝」からただの星の意志になることができた。
島の周囲を広がる海、その向こうに、白い鯨が見える。
僕は島に生える一本の大きな樹の根に腰掛け、ただそれを眺める。
それは「戦い」の存在しない世界。
誰も僕を知らない、拒絶も裏切りも信頼もない世界。
そして。
「……お前も見るか?」
「……白い、鯨」
「ああ」
「本当に……白いのね」
桜色の影が隣に寄り添う、無限の世界。
この眼に映る世界は、鮮やかに彩られた。