この眼に映るモノ
この感覚には覚えがあるが、感触が違う。温かさも違う。
回される腕は同じように細いが、それでも違う。
僕は抱きしめられていた。
「見つけた」
囁かれた声が、僕の耳に近く届く。
「さっきから疑問に思っていたんだが、何故この空間は五感が働いているんだ。真実眼で星の意志を支配する時と、この空間は状況が違うのか?」
それに特に驚くこともなく、僕は背後の彼女に問いかける。
「……さあ」
「何故投げやりなんだ」
お前に抱きつかれても変な気は起こらない。こんな無愛想な奴、誰が好き好むというのか。
「エリクシル、どこに行っていた」
「貴方こそ。ここ……孤児院なのね」
すでに消滅を始めていた景色だが、まだ多少はその面影を残している。
エリクシルは僕から離れると、色素の薄くなった食卓の上に乗っていた、何かモノをひとつ摘まんで観察している。
彼女が手に取ることで再び色と存在感を取り戻したそれは。
「クレヨン?」
「お前が持っているんだからお前しか判断できないぞ」
言うと、無言のままこちらに持ってくる。子供か。
受け取ると、グレーの色のクレヨンだとはっきり分かる。
何故クレヨンがひとつだけ、残っていたのだろう。誰かが絵を描いた後、片付けるのを忘れてしまったのだろうか。
「ここが消えたら、千里はどうなるの?」
エリクシルの声が、ぼうっとクレヨンを見つめていた僕の意識を呼び戻す。
「ここは現実の世界じゃないだろう。僕らはもう、消滅してしまったのだから」
「消滅、したの?」
エリクシルは僅かに首を傾げた。またとぼけているのか?
「世界が白くなったと思ったら、一人になっていた。途中で遠くの方に懐かしい景色が見えたから、来たら貴方がいた」
「僕もお前も、星の意志になって消滅したんだ。さっきはアエリア達もいた。ここは死後の世界か何かなんじゃないのか」
嘘だ。そんなことは有り得ない。
アエリア達に言われた言葉、この状況。ここは死後の世界なんかじゃない。恐らく、僕はまだ生きている。
「お前は、何か分からないのか?」
「……分かっている。とぼけてみただけ」
今度は自分から言ってきた。読めない奴だ、本当に。
「この世界に千里はいない。でも、この世界は確かに僕にとっての現実であるようだ」
景色こそ色を失っているものの、僕の手に触れ足に感じるモノの存在は確かにある。
こんなに生きた心地のする死後の世界があってたまるものか。
「僕は恐らく、心の安息を求めていた。無意識の内に、「戦い」の無い世界を望んでいたらしい。そこに千里や子供たちじゃなく、「戦い」の参加者が来たのには驚いたがな」
「……なんでもできる?」
僕があの時言った言葉を反芻するエリクシルに、僕は頷く。
「僕の心が、慎次郎の言葉で揺らいでしまった。だから真実眼が効力を発揮しなかった。本当は、あの妨害も跳ね除けて真実を作り出せたはずだった」
真実眼の能力は正しく機能していた。僕の瞬間でも弱気になってしまった心が、慎次郎の介入を許し、それに流されてしまった。
真実眼の能力はまだ生きている。僕は自分自身でそのことを理解していながら、揺さ振られた心のままに死後の世界なんて空間を作り、閉じこもってしまったんだ。
それを自分で再確認するために、弱くなった心を突き付けるために、死んでいった参加者たちの幻影まで作り出して。
確かにさっきまでの世界は、僕が望んでいた世界だったのだろう。「戦い」などなく、殺し合いなど起きなかった世界だ。友と思っていた彼らの顔を見て、穏やかな気持ちになったことがその証拠になる。
わかっていた。だが、わからないフリをしていた。
今まで戦ってきた参加者との奇妙な信頼関係も、人から人への好意も。意味を理解していながら、その本質を理解したくなかった。人を信じたくない自分が人を信頼していくことを認めてしまったら、今信頼を信じられない自分はどうなってしまうのか。それが怖くて、逃げ続けていた。
「なんでもできる」
また、エリクシルが言う。
彼女も、僕が作り出した星の意志だ。星の意志に分解され、僕が掌握した星の意志のひとつのカケラであるだけの、儚い存在になってしまった。
「気に入ったのか?」
返事は、首を振るだけ。
『もう、わかっているはず』
声が、僕の世界に渡る。
これは彼女が口を動かし発したモノではない。彼女の像を通じて僕自身が僕に告げる、僕の意志そのものの言葉だ。
「ああ、わかっているさ。なんでもできる」
たとえひとりでも。
心の中に在る、参加者たちとの、エリクシルとの、信頼の責任を果たす。
だから、なんでもできる。
クレヨンを握ると、僕はすっかり白に染まった世界を前に、文字を書いていく。
『あるがままの歴史を刻み続ける』
銀色の文字を描き、白い世界に終わりを告げる。
「真実眼、開け」
その言葉で、世界は光となって霧散する。
エリクシルの姿も、その桜色の髪先ひとつすら、光となって消えていく。
僕だけが、その先を見る。
この眼に映るモノを、受け入れる。
受け入れて……受け入れた上で、僕は本当の望みを果たす。
生暖かい風を全身に受け、僕の意識の全てが覚醒する。
僕が立っているのは、太刀川市に掛かる大きな橋、鞘橋の中央。
深黒の闇と散りばめられた星々、遠くに見えるわずかな街明かりによって空は染まっている。紫の空は、僕の目覚めと共に罅を刻み消滅した。
「馬鹿な……何故だ……」
橋の車道を挟み、僕と対峙する慎次郎が呻く。彼が否定し、書き換えたはずの歴史が、修正前に戻されたことに苛立っている。
勿論、それだけじゃないのも理解している。
「志輝ィ! 何故お前は消えて無くならないッ!? まだ私の邪魔をするつもりかッ!!」
車も通らず静まり返った橋の上に、慎次郎の絶叫がこだまする。
「私は神になったんだッ! 私に刃向おうとするんじゃない、価値を失った化け物めェッ!!」
僕は、何も言い返さない。ただ、かつて父と思っていた男の呪詛の声を受け入れる。
「もう一度だ星の意志! クソみたいな世界をやり直せ、私を英雄と讃える世界を作り上げるんだーッ!!」
彼の声が合図となり、僕の景色はもう一度崩れ、剥がれ落ちるように月の神殿の景色に変わる。
僕の両目はその変化を見ながら、その視界に言葉を記す。
『世界は過去と共に在る』
言葉が弾ける。すると月の神殿は更なる景色へ、時代を遡るように昼と夜を繰り返す街の景色を映し出す。
「これは、過去に戻り歴史を修復する星の意志の力! はは、やったぞ、今度こそお前をこの流れの中に消してやるぞ志輝ィッ!!」
この景色が僕によるモノだと気付かぬまま、慎次郎は僕の心臓部に、正確に拳銃を発砲する。
僕の身体は銃撃によってよろめくが、川へのフェンスによって支えられ落ちることはない。
そして、僕の身体は緑色の光を伴ってその傷を癒していく。忘れたのだろうか、僕は不死の能力を得ていることを。
『世界は未来と共に在る』
僕が打たれても平気な様子を見て言葉を無くす慎次郎、彼を気にも留めずに僕は新たな言葉をその両目に記す。
すると昼夜の明暗は逆方向へと廻り出し、この世界を僕らのいた時間よりも未来の世界へ景色が変わっていく。
橋の周りに見たこともないような建造物が建ち、この橋以外の全ての時間を早送りの映像のように推し進めていく。
「な、何だ、どうなっているんだッ! これは私の望んでいた世界の形ではない……まさか真実眼だとでも言うのかァア!!」
慎次郎の眼前に緑光が集まると、骸骨の頭部と猛々しい筋骨の胴体、背に禍々しい翼を生やし九尾の尾先に無数の砲身が取り付けられた獣が作り出される。骸と圧倒的な力と射撃の特性は、それに近しい複数の能力を持った河水樹と同じモノだろう。複数の能力が継ぎ接ぎに合わさった、鵺のような獣だ。
獣は逞しい四肢でこちらに向かうと、その勢いを利用し僕の腹に右前脚を貫かせた。
激痛を、僕は感じなくなっていた。さっきの銃撃もそうだが、今の僕には痛覚がなくなっているようで、衝撃を受けて身体は動くものの、そこにダメージを一切感じなくなっている。
僕が星の意志そのものになったからだろうか。もしくは、これが「回帰骸」の能力の真髄なのかもしれない。
結果として、僕の意識は失われない。僕はさらに、言葉を浮かび上がらせ、散らす。
『世界は平和と共に在る』
今度は、景色に夜がなくなった。穏やかな早朝の澄み切った青空が広がり、建造物の壁面に緑が這い上がっていく。
見るうちに、外の景色は大樹が連なる雄大な自然に包まれていた。
「化け物め、私の世界を好き勝手に弄るんじゃない!! 私は私の手で消してやりたいんだ、何もかもが無意味な歴史を歩み、緩やかに腐っていくだけのこの星を、私が神となって作り変えてやらなければならないんだッ!!」
獣は僕を貫いてから動かない。僕の回帰骸の回復速度が上がったのか、僕の身体は獣の腕を体内に残したまま修復を始めてしまっていた。
「ギュ、ギュゲェ……」
獣は僕の身体に、僕を構成する星の意志に飲み込まれ、消滅した。僕の掌握する星の意志が、さらに増大したのだ。
僕の目は、新たな言葉と共に、新たな景色へ世界を動かす。
『世界は争いと共に在る』
次の景色は、平和だった上空にひとつの戦火が流星のように遠くへ駆けて行くことで作り出される、赤の世界。
広がっていた木々は燃え、黒く煤けていく。景色は、空は、赤と黒に支配された。
「何故だ、何故たった一匹消すこともできないんだ星の意志! 私は“絶対”であるはずなのに……ッ!!」
喚きながら、慎次郎は次々と多様な獣を作り出しては僕に攻撃や妨害を仕掛ける。しかし、獣の爪が身体に食い込もうと、腕を噛み千切られようと、僕の身体は瞬く間に何事も無く蘇っては片っぱしから星の意志に還元して僕の支配下に置く。攻撃はむしろ、僕の能力をより強化する燃料でしかない。
『世界は破壊と共にある』
また、言葉を散らす。煌々と燃えていた空には流星群がなだれ込み、地表に墜落しては大地を揺るがす。
景色という景色が、破壊されてゆく。建造物は崩れ、川は氾濫し、この景色を平坦なひとつの水平線に書き換えてしまった。
「私は……私はこの世界が、歴史が、美しさを保てず汚らわしいまま衰退してゆくのが許せないんだ。美しい世界を、美しいままにとどめておくには、全てをやり直すしかない。そうだろう、父さん……」
慎次郎は遂に膝から脱力し崩れ落ちる。獣の妨害も止まり、世界は破壊の後の静寂を水没した景色の波の音だけが破ることを許されている。
僕の感覚は、景色を移り変らせる度に鈍っていくようだった。痛覚だけではない。触覚、聴覚、嗅覚、そして視覚までもが急速に衰えていく。
星の意志を用いて、別の世界の歴史を無理やり書き換えているのだから、消費する力も相当なモノだと覚悟している。しかし、思った以上にしんどい作業だ。
「……くくく」
僕の一瞬の慢心を知ってか知らずか、慎次郎は地に伏せたまま、この瞬間にもう一度景色を月の神殿に作り替えた。
「はははははははッ!! 私の否定した歴史を支配して都合の良い世界を作ろうとしていた、その魂胆なんか最初から見通しているんだよォッ!! 利用させてもらったぞ真実眼!」
伏せておとなしくなっていたのは力を溜め込んでいたからか。慎次郎は今までとは比にならない量の星の意志を用いて作り上げた人型の獣……左右半分に特徴が分かれ、右は漆黒の、左は銀色の瞳と異種の鎧を持つ魔人の姿、僕の持つ魔王眼と未来眼の特徴に合致するモノを仕向けてきた。
「だが最後のフェーズは、チェックメイトはこの私が決めるッ!!」
『歴史の忘却に失せろ、朔来志輝ィッ!!』
獣の突撃と共に、僕の視界に浮かぶ言葉が慎次郎の言葉に上書きされる。
僕の身体はそれまでとは違い、確かな痛覚を以て獣の拳を受けた。
吹き飛ばされた身体は成す術なく白い地面を転がり、血による赤い一線を描く。
回帰骸に回数制限は無い。だが、治しきるより先に大きなダメージを受けてしまうと回復までに時間が多く掛かるようになってしまう仕様のようだ。ぼろ雑巾のように傷付き汚れた僕は、立ち上がることができない。
それでも意識は消えない、僕が僕でいる限り、慎次郎は僕を完全に支配できない。
『さあ最後の仕上げだッ! 世界よ、我が支配による創造と共に在れッ!!』
獣を用いて僕の意識を集中させない間に、慎次郎は星の意志に最後の支配を命ずる。
神殿の上空に広がる紫の空に、罅が入る。罅割れた先から光が漏れ出て、慎次郎の思うがままに歴史改編が行われた世界が現実の世界に上書きされようとしている。
だが、僕は獣に痛めつけられながらも、真実を見ることを止めない。止めていない。
諦めていない。だから、なんでもできる。
『世界は、僕の創造と……その先に映る真実と共に在るッ!!』
両眼から迸る熱が、僕の身体から解き放たれるように、世界全体に満ちていく。
熱は広がっていく先でその景色を黒く塗り潰していき、罅の先の光諸共飲み込んでいく。
「馬鹿なッ!? この闇は私を、星の意志そのモノを吸い取る「星の墓場」だとでも言うつもりかァッ!!」
僕の放つ星の意志は、慎次郎の、“絶対”を構成する星の意志を吸収しては肥大化していく。
吸い込んでは強くなり、もっと強力な吸収で星の意志を取り込む虚無の渦。世界は、黒よりも深い虚無によって飲み込まれた。
遂には、発動した僕自身をも。僕という星の意志を渦の中心に取り込んでしまう。
僕も、慎次郎も、星の意志も、歴史も。
全てが、虚無に喰らい尽くされた。