おかえり
僕の目の前で、少女が飛んだ。
交通事故だ。少女の身体は軽々と、衝突の勢いによって地面を転がっていく。
よく身体がバラバラになったり、重症を負ったりしなかったものだ。
少女は奇跡的に助かり、緊急手術も難なく終えて、その日の内に動けるようにもなっていた。
だから学校で少女と出会った時、それは幽霊なのではないかと疑ったりもしていた。
しかし手に触れ、その冷たい感触と襲い来る痛みが、彼女が生きていることを証明していた。
その日、未来眼の能力を手にして……僕の「戦い」が始まった。
真っ白な空間の中で、僕の意識は浮かんでいた。
今までの出来事が、生き残りを賭けた能力者同士の戦いが、真っ白な空間を埋め尽くすように広がっている。
アエリアとの記憶。レオとの記憶。陽祐との記憶。時雨との記憶。河水樹との記憶。実行委員達との記憶。
数々のウインドウに区切られた僕の記憶が、映画のように映し出されている。
その奥、僕の一番古く一番傷痕の深い、幼い頃の記憶のスクリーンの先に、僕の意識は向かっていく。
重力も、縛るものもない今の僕は、すっとその先に進んで。
その奥にいる、人の形をしたモノに、向き合った。
『僕はもう視たくない』
それは、僕と同じ声をしていた。
『お前が視てきたモノを僕も視た。だけど、やはり無駄だった。人間は信じられない。慎次郎さん、エリクシル、二人とも本当に、信じようとしていたのに、裏切った』
それは、僕と同じ姿をした影。左目に銀色を抱える、孤独な影だ。
『何故僕はこんなモノを見なくちゃならないんだ、僕は何故あの時死ななかったんだッ! そうすれば、こんな真実を見ることなんかなかったのにッ!』
僕が、叫んでいる。僕の身に起きた「あの時の奇跡」を、嘆いている。
獣によって僕の命が絶たれようとしていた時。僕のポケットには、実行委員から手に入れていた“絶対”の欠片の黒水晶が入っていた。
あの欠片は戦闘不能になった能力者に触れることで、その能力を吸い取り星の意志に返す効果を持っている。獣に敗れた僕はその時、未来眼という能力をその水晶に吸い取られたのだ。だから未来眼は使えなくなった。
……そう、思っていた。
今の僕なら分かる。奇跡は星の意志が齎すモノだ。だから、この奇跡も星が望んだ事だったのだろう。
僕の身体が重症を負わなかったことを奇跡と呼んでいたんだ。それは、星の意志が僕に与えた最後のチャンスだったはずだ。
僕が人を信じられるようになる、最後のチャンスだったはずだ。
『僕には無理だった、この永らえた命は無意味だった! 人を信じることなんてもうできない。信じたそばから裏切られるなら、僕は最初から信じないッ!』
「でも、僕は信じた」
『ッ!?』
僕の嘆きが、息を止める。
「分かっているんだろう? 僕は志輝、お前なんだから」
『あ、有り得ないッ! 僕は僕だ、お前なんかじゃないッ!』
「いいや、僕だ。僕は紛れもない朔来志輝という存在だ。あの時、お前と僕が「立場を交代した」だけで」
この空間に来て、僕の意識がまるでデータベースのように様々な情報を統合してゆく。
今まで僕が見てきた世界の情報の中に、僕の中の答えは導き出せていたのだろう。
「朔来志輝という存在は、お前が自己否定してきた程酷くはないみたいだった。誰しも心には裏を抱えていたが、それでも決して裏切らない絆は、確かにあった。お前も、僕を通して見ていたはずだ」
僕が再び目覚めてから。人を信じようとする最後のチャンスに縋った僕の中で、僕は少なくない期待をしていたはずなんだ。
「アエリアを受け入れられなかったのは僕の意志じゃない。お前の意志が彼女の幸せを考え、彼女のためを想って導き出した答えだった。そうだろう」
『やめろッ!』
「……怖くない。お前はもう、目を開いていい。お前を信じてくれる人が、待っている」
『嫌だァッ!! 僕はもう……』
「“彼女”は、お前を裏切らない。目を開け、真実を見るんだ朔来志輝ッ!」
空間に広がる、幾つもの記憶の映画。
そのスクリーンの全てが、一人の少女を映す。
僕は、言葉を失い呆然とする僕に、歩み寄っていく。
「“絶対”を手にして叶えたいモノ、今の僕にはあるはずだ」
僕の中に、僕が入っていく。お互いが幽霊であるかのように、重なり合い、混じり合い、一つのモノへとなってゆく。
これは僕でも、僕でもない。外部からの能力だ。やはり、“彼女”は僕を裏切らなかった。
『僕は、僕を信じられる世界を手にしたい』
「僕は、僕を信じてくれる世界を守りたい」
「『僕は、真実を見る力が欲しい』」
溶け合う、僕と僕。
ひとつになる、銀と黒。
空間は消滅を始め、朔来志輝はその意識を現実に引き戻される。
映画はまだ、終わらない。
「……おかえり」
耳元に、少女の小さな声が届いて目を覚ます。
僕は目を開き、声のする方を向く。
「エリクシル」
「間に合ったのね。良かった」
彼女は僕と同じように地に伏して、僕の手を握っていた。
身体に力が戻った僕は身体を起こすと、彼女の身体が血に塗れていることに気付く。
「お前、僕を……いや」
「?」
「……ただいま、と言ってやる」
どうやら、彼女は僕の状況を理解しているらしい。
「貴方に、最後の操作指を使った。“絶対”に回収される前の回帰骸を、貴方に組み込んだ」
「僕が、あの不死の能力を?」
「自分で目覚めた能力じゃないから、効果は薄いけれど。無理をしなければ、少しずつ身体が治っていく」
だからなのか、僕の身体にあるはずの傷が、すでに痛みも無いほどに回復を始めていた。
「それと、貴方の獣は……」
「分かっている」
目を覚ました僕は、既に自分自身に感じるひとつの違和感が消えていることに気付いている。
僕の中に感じた獣が、今は全く感じられない。
奇妙な事だが、どうやら僕の中の獣は、僕の中にいたもう一人の僕だった、と考えるのが最適解のようだ。
ということは。
「今の僕自身が獣と同じようなモノ、という解釈で間違ってないな?」
「……」
エリクシルが静かに頷く。やはり、そういうことなんだろう。
僕は正真正銘の化け物になった。アエリア達とは違い、明確な意識を持ち姿も変わらない獣。
他の能力者も、この仕様で獣になってくれれば良かったのに。どうしてもそう思ってしまうが、今更どうしようもない。
「それにしても、ここはどこだ?」
冷静になってきたのか、周囲に目が行くようになると更なる異変に出会う。
住宅街の中にいたはずの僕とエリクシルは、まるで海底に沈む前の神殿か何か、白い壁によって入り組んだ遺跡のようなところで倒れていた。
空は依然として紫に染まっている。この空間がまだ隔離されていることの証だ。
「“絶対”を得た朔来慎次郎が、この世界の歴史を書き換え始めている。私達がいるここはもう、貴方の知る太刀川市ではない」
ファミリア……朔来慎次郎の目的である、この世界の歴史のリセット。そんな途方も無い絵空事が、今現実となって進行しているというのか。
「慎次郎さんはどこに行った?」
問いかけると、エリクシルはすっと迷宮の奥を指さす。紫の空の先、月のように淡く輝く天球が浮かんでいるのが見えた。
まさか、空にいるのか。
「今、この空間の中の星の意志が不規則に歪められている。空間そのものがひとつの道になって、あそこに繋がっている。まっすぐ歩いていけば、着くようになっている」
エリクシルの説明は相変わらず意図が伝わりにくい。鵜呑みにするなら、どこを歩いてもあの空の上に着くように空間が繋がっている、と取ることができるが。
「決着を付ける」
考えるのを一旦止め、迷宮を歩き始める。
僕が動き出すと、エリクシルもそれに続いてくる。
「僕と、僕の中の獣を統合させたのは何故だ」
「……何の話?」
あの奇妙な空間の中で、僕の外に現われていた獣の意識が、内側に眠っていたはずの僕の意識と融合した。
二人の自分が混ざり合う不思議な感覚の中で、僕らはどこか直感的に、これがエリクシルの手によるものだと理解していた。
「何故とぼける」
「とぼけてない」
緑の瞳は揺らがない。元から表情に乏しい彼女だから、からかっている可能性を捨て切れない。
そう思って、僕は何故だか口元に僅かな笑みを零していた。それが無性にむず痒く感じ、隠すように僕は前を向く。
「……朔来慎次郎に裏切られて、私も貴方を刺した。なのに、貴方は変わらない。むしろ変わっている。笑っている。私は、それに何故かと訊きたい」
前に向きなおった僕に、彼女が問いかける。
笑っているところ、見られたのか。
「貴方は、裏切った私を憎く思わないの?」
「ならお前は僕を裏切ったのか? エリクシル」
質問に質問を返し、彼女の不意を突く。僕の後ろに続く足音が止まった。
「僕はお前が僕を裏切ったとは思っていないようだ。正確には、僕に成り変っていた獣の方だが」
今の僕の中にあるのは、奇妙な安寧。悟った、とは少し違うが、僕の精神はこの状況で不思議と平静を保っていた。これが獣と融合した結果なら、都合が良い。
「お前、初めて僕の名前を呼んだな」
「……名前?」
「あれを最期に訊いた僕の獣は、お前が僕を心底裏切る気でなかったことを信じた。そして実際僕は死なず、むしろ不死の身体に改造されていた。お前が最後まで僕を馬車馬のように働かせようとしていることを、痛い程思い知った。だからお前は僕を裏切ったわけじゃない、と判断した。それだけだ」
「……やっぱり、変な人」
エリクシルの変わらない口調にも、ほんの少し、力が入ったような気がした。
そうこう無駄話をしている内に、歩いて行く中僕達を包む周囲の景色が変化していく。
彼女の言葉の通りだったようだ。感覚としては地に足を着けて歩いているはずなのに、まるで螺旋階段を上っているかのように足もとが浮かび始めた。
僕とエリクシルは、紫の空を歩き、月へ向かう。
自らが作り上げた「戦い」のルールを自ら破ってまでも、手に入れたかった力と果たしたかった目的を手中に収めた朔来慎次郎を、止めるために。
『邪魔はいけないよ。エリクシル』
上る途中、ファミリアと同じ感覚で、朔来慎次郎の声が響く。
『志輝もだ。万が一君が目を覚ました時のためにエリクシルを残していたのに、何で二人して私のところに近付いてくるんだい?』
「エリクシルは僕のパートナー、らしいからな」
想定外の状況であるはずだが、慎次郎の声に戸惑いや困惑は一切見られない。僕がこうして語気を強めてみても、返ってくるのは余裕の鼻息だった。
『そうか、知らない間にとても仲良くなったんだね君たちは。なら二人でいつまでも暮らせる世界を用意してあげるから、これ以上私の邪魔をしないでくれるかな』
「断る」
『君に拒否権は無い、ということを教えてあげなくちゃね』
慎次郎の声が途切れると、月から何か大きなモノがひとつ降ってきた。
それは見えない階段の上に着地すると、僕とエリクシルの上る階段を見上げてにじり寄ってくる。
「獣……!?」
いつか、僕を襲ってきたレオの獣。陽祐が焼き払ったと訊いていたが、今こうして僕とエリクシルを追ってきている。
「獣、力の結晶も目に見える星の意志の集合体。朔来慎次郎が“絶対”を使ってその一部を操っているのだとすれば」
「奴は瞬風脚そのモノ、ということか」
厄介な番犬を用意してくれたな、慎次郎さん。孤児院にもそれくらい立派な奴が欲しかったよ。
懐かしい感覚と共に、僕は左目にそっと手を翳した。
「グルアァッ!」
立ち止まったことで動きがぶれた瞬間を逃さず、獣が僕に向かって飛びかかってきた。
不意の出来事だが、僕にはもう「すでに分かっていたこと」だ。
左目の視界に銀色のシャッターが降り、右と左で時間の違う世界を映し出す。
僕は獣が狙うであろう位置から身体をどかし、その後勢い良く振り回されるであろう尾の鎌が伸びる先の死角に潜り込む。
「はああッ!」
僕の腕に掴まれた尾は強化された握力によって握られ、それを振るって一本背負いの如く獣を段上に叩き伏した。
「未来眼、使えるのね」
僕と獣の戦闘を横目に進んでいたエリクシルが、上階から声を掛ける。
僕自身の意識としては、ずっと未来眼を使っているだけなのだが。成り変っていた間に覚醒した「魔王眼」を扱っていた獣の記憶があるから、もしそっちで戦うにしても十分に扱えるだろう。
今や僕の両目が、それぞれ別の能力を有した。まさに獣で、化け物だ。
相変わらず、能力自体に攻撃力は無いけれど。
獣はそのまま沈黙した。未来眼で見ても動きはないし、放っておいていいだろう。
「行くぞ」
僕は足早に駆け上がってエリクシルに追いつき、そのまま追い越して進んでいく。
黒と、銀の目を見開いて。