赤と白と紅
僕が魔王眼の能力に目覚めて、「戦い」の状況は一変した。
まるで運命の歯車が、音を立てて回り出したかのように。
僕がアエリアの獣と戦っている間に、陽祐はレオの獣と戦っていた。
レジストが獣に殺され、そして獣は陽祐が焼き尽くしたと言う。二人は、塵一つ残さず消滅した。
それが、本来の「戦い」の結果だ。実行委員は別としても、敗退した参加者は戻らない。
僕も同じだ、負けは死を意味する。そんな「戦い」を、僕はしているんだ。
スペリオル、アエリアの獣。どちらも魔王眼の能力のおかげで生き残ることができた。無論、魔王眼のみがその結果を引き寄せた原因ではないとしても。
これが、僕本来が持ちえたはずの能力。対象の意識を掌握し、支配する能力。
未来眼とは違い、僕自身の行動を有利にする情報を得るのではなく、相手の行動を鈍らせることで直接戦闘不能に追い込むことができるちからを持てるようになった。
僕が直接、戦える能力を手にできた。望んでいた、力だ。
捏造された未来眼であるうちは文字通りの非力であった僕も、もう一人で戦えるはずだ。
「そう、一人で……」
暗闇の中に僅かな月明かりが差し込む部屋の中。ベッドの上で仰向けになり、僕は右目に右手を翳した。
この眼、僕の正常であるはずの黒の瞳が、僕の異能の正体だとは思わなかった。
未来眼が偽物の能力だとするなら、何故魔王眼も左目ではないのか。
僕を疎んだ人々は、この左目にこそ恐怖を覚えていたというのに。
この左目に、ようやく価値が与えられたというのに。
銀の瞳は、やはり嫌いだ。
そう考えた時、初めて僕は未来眼である時の左目を、気味の悪い銀の瞳を受け入れ始めていたことに気付いた。
今度は左目を、左手で覆う。右手もそのまま返すことで、僕の視界は完全な黒に染まる。
この「戦い」を生き残り“絶対”を手にする。
僕にはもう明確な目的がある。叶えたい願いがある。
暗闇の中、僕の口元は歪んでいた。
“絶対”を手にしたいという、欲望だった。
参加者達が集まり、寝床としているさくらい孤児院には、事態の急激な進行で沈む「戦い」の関係者たちとは裏腹に、子供たちの元気な笑い声が聞こえてくる。
「あれ、夢積ちゃん。お絵描きですかっ?」
夕飯を終えた千里は、リビングの奥まったところに落書き帳とクレヨンを広げていた夢積に近寄る。
最近の夢積は、度々孤児院の中で見かけるレオの存在に恐怖を感じており、夕飯は子供部屋で食べることが多かった。しかし今日は久々にこっちに顔を見せている。お姉ちゃんとして心配していた千里は内心で胸を撫で下ろしていた。
「お姉ちゃん、かく?」
夢積は千里に、ねずみ色のクレヨンを差し出す。広げたページでは、優しい笑顔をする男の子の絵が描かれている途中だった。
千里にはすぐに分かる。自分もよく描いていたのを思い出したからだ。
「これ、お兄ちゃんですねっ」
自信満々に答えてみれば、夢積は嬉しそうに恥ずかしそうに、頷いた。
小学生の落書きといえばそれまでだが、一生懸命に描いている様を見ているとその絵に込められた志輝への信頼が伝わってくる。ぐるぐるした目と、嬉しそうに口の端を持ち上げるような弧を描いて……
ふと、その眼に千里は違和感を覚えた。
「ねえ夢積ちゃん、お兄ちゃんの右目と左目、なんで違うんですかっ?」
絵の中の彼は、左目が黒ではなくねずみ色で塗られていたのだ。
千里の前では、いや孤児院の子供たちと触れ合う間は、志輝はその左目を晒したことはない。
それは千里にも、夢積にも見せていないはずの色だ。
夢積はちょっと間を置いて、
「なんで?」
と首を傾げる。
「わたしに聞かれてもわからないよぅ……」
二人とも、揃って考え込んでしまう。
「お兄ちゃんの目、銀色できれいだよ?」
「きれいかどうかを聞いてるんじゃ……へ? 銀色?」
夢積はどうやら、本当に志輝の左目が違う色であることを、彼の左目が銀色であることを信じているようだ。
「そ、そうだったかな……ほんとに、違う色だったかな?」
決して騙そうとはしていない夢積の素直な反応に、むしろこっちの認識が間違っているような気がして不安になる千里。
思い出してみても、いつも志輝は両方とも同じ黒色をしていたはずだ。
何で変にずれているのか、ともう一度絵を見てみると、今度は志輝の周りの風景に目が行った。
彼を囲むのは、一面の青。ところどころ白と黒でかもめが描かれていたり、彼自体も白い鯨の上に立っているように見えたりする。
「海……?」
口を突いて出た直感的な言葉は、聞いていた夢積をまたコクリと頷かせた。
「夢を見たの。お兄ちゃんが、くじらさんと一緒にいる夢」
「夢、ですか?」
「その時のお兄ちゃんは、左目が銀色で、きらきらしてて、きれいだったの」
それで、銀色。
千里は全て納得した。この絵は、実際に居る志輝ではなく、夢の中の志輝を描いていたのだ。
そういう事なら、実際の姿と少しくらい違っていても何も問題はない。だって、それは夢積の見た夢なのだから。
「夢の中のお兄ちゃん、パパみたいな顔してたの。いたずらを謝ったら許してくれる時の顔なの」
夢積の指すパパは、肉親ではない。この孤児院では、子供たちのパパといえば朔来慎次郎のことだ。
言われてから絵の志輝の笑顔を見てみると、確かにどことなくパパのする少し困ったような笑顔に似ている気がする。
そして改めて絵の中の志輝を見てみると、そこには左右異色のアンバランスなイメージなど無く。
「お兄ちゃんの眼、キレイでカッコイイですっ」
「そうなの。お兄ちゃんは、かっこいいんだよ」
大好きなお兄ちゃんのことを考えてぽかぽかした気持ちになる二人は、無意識のうちに、同時に大あくびをする。
それがおかしくて、つい顔を見合わせて笑ってしまった。
「そろそろお部屋戻りましょーか」
「うん。宿題やらなくちゃ」
「わ、そうでした……あとはぐっすり寝るだけだと思ってました……」
二人は広げていたモノを片付けて、リビングを後にする。
出る直前に千里はクレヨンを落としたことに気付かず、また夢積も千里にクレヨンを渡していたことを忘れていた。
ねずみ色のクレヨンは帰る場所を失い、一人きりでリビングに残ってしまった。
子供たちが寝静まり、静寂だけがあるはずの孤児院。
その闇の中に、紅い水風船が流れ落ちてきた。
庭に音を立てて着弾したそれは、真紅をその周囲に撒き散らす。
散らされた中には赤黒く瑞々しいモノや白くバラバラに砕けたモノがあったのだが、その塊の上にさらに何かが落ちてきた。
塊を着地台にしたそれは、何事も無かったかのように元気に飛び上がると、何もない空間から自分の背丈より一回り大きな球体を作り出す。
「こんどはいっぱいたべるぞー! でも、ちっちゃいにんげんっておいしいのかな? たべたことないし、きになるきになる!」
球体の上にそのまま飛び乗り、宙に浮かぶ小柄なその姿……キュリオは、先程食料にしていた通行人を投げつけた音で起きてきた孤児院の子供を見下ろしながら、そんなことを気にしていた。
子供が中庭を覗いてみると……そこは、まるで地獄の様であっただろう。
「うわああああああああああああああああああああっっ!!」
刺激の強過ぎる凄惨な光景に、少年は喚きながら裸足で外に逃げ出してしまった。
「あ、さっそくみっけ! いただきまーす!」
逃げ出した少年を追うように、球体は速度を上げて動き出す。その気配に気付いた少年はさらに動揺し、足を滑らせてしまう。
球体は勢いを止めず、その球面にぽっかりと大きな口を開く。獣のように棘々しい歯をぎらつかせながら、倒れた少年に近づいていき……
「きっかり零時だ。今度こそ、間に合って良かった」
声と共に球体の前に、瞬間炎が吹き荒れた。
球体は何かの衝撃を受けて、その球形を歪ませながら夜の住宅街を転がってゆく。
球体には、拳の跡が火傷のように黒く張り付いていた。
「あいつは時雨の仇。隔離空間も張らずに、また人を喰いに来たのか」
少年を背にして陽祐は、殴り飛ばしたキュリオの反撃を窺うべく身構える。
「よーすけ、にいちゃん……」
「無事で良かった。ここは危ない、離れて目を閉じているんだ。いいな?」
少年にとっては、ここはもう悪夢の世界だ。普段の様子からは想像できない、今まで見たこともない陽祐の鋭い視線に少年は怯み、近くの電柱の陰に隠れて縮こまる。
それを横目で確認した陽祐は、隔離空間を展開した。能力者でない少年はこの空間から隔離され、陽祐一人が残る。
「来い、キュリオ。お前を倒し、時雨の無念を晴らす」
彼の橙の瞳の先には、球体が転がったことで巻き起こった土煙。突然その曇りが晴れると、先程よりもさらに速く、球体が口を開けて突進してくる。
「このそらのいろ、や! もとのせかいにかえしてよ!」
陽祐の腕が煌々と輝く。その腕から濃密な炎が湧き出ると、巨大な炎の腕となって陽祐の腕を包み込む「迩迩芸命」となる。
「お前はもうここから出さない。俺の炎に焼かれ、灰と消えろォッ!!」
紅蓮の両腕が球体の口の上顎と下顎を掴んだ。紅蓮拳の能力によって強化された握力で、握り潰さんとばかりに力を込める。
「あ、あああああああっっ! いたい、いたいよおおおおおっっっ!!」
球体と感覚をリンクさせているキュリオは、球体のダメージがそのまま同じように与えられる。
口を押えて悶える少女に見向きもせず、陽祐は力を込め続ける。炎の勢いも増し、口の中も炎で炙る。
「ゆるしてぇっ! ゆるしてよぉおっっ!!」
「許さない。お前は、ここで焼き尽くすッ!!」
何度も、何度も、拳に力を込めなおす。
ついにキュリオは何も言えなくなり、声にならない悲鳴を上げ続ける。
それでも、陽祐は力を込める。
彼の心の中の炎が、彼の理性をすでに溶かしていた。
「おやおや、幼女相手に容赦がないのね」
その声を、存在を察知して、陽祐は掴んだキュリオをその気配の方へ投げ飛ばした。
「河水樹白里……丁度いい、俺はお前に訊きたいことがあったんだ」
「おっと危ない。何よ? あたしはあんたに訊かれたいことなんてないんだけど」
白里は飛んできたキュリオを受け止めもせず回避し、首を傾げてみせる。キュリオはそのまま地面を転がり、家の塀にぶつかって大人しくなった。
「お前、三つの能力を持っているんだろう? 自分の内側に能力を与える獣がいることに、恐怖を感じないか?」
陽祐の脳裏には昼間の戦いが、レオの獣との戦いが焼き付いている。
人間だった頃を忘れ、パートナーだったレジストを殺してしまう、本能のまま蹂躙する殺戮兵器。自分も、そうなる可能性が十分ある。
自分が自分でなくなるかもしれない恐怖、傷付けたくないモノも判別できず暴れ回るかもしれない恐怖の感情が、彼女にもあるはずだ。そしてそれが分かれば、能力を行使することなく戦いを止めることができるはずだ。
そんな陽祐の考えは、白里が鼻で笑うことで一蹴される。
「別になんとも」
「何ッ……!?」
「だってあたし、獣になったって関係ないもん。むしろ今のあたしだって獣と同じ。目の前の邪魔なモノを壊してるだけだし」
淡々と話しながら白里は、麦わら帽子を手に取ると空中に掲げる。
その一連の軌跡に合わせて、帽子の軌道上にガトリングの砲身が幾重にも重なって創られた。
「あんたも、邪魔。"絶対”なんざ知ったこっちゃないけど、不死身のあたしを殺してくれるのはそんな力くらいでしょ? あたしはあたしのために、戦いを続けるんだから」
「……やはり、ダメか」
拳を握り締め、その指の間から炎を滲ませる。
「なに? もしかしてあんた、あたしを怖がらせたり改心させたりしようとか考えてた? バカね、おバカさんね、もうカバさんよあんた」
嘲笑混じりに喋りだす白里、その真紅の瞳だけは笑わずに陽祐を見据えている。
「志輝くんですら操るのを躊躇うあたしの心、そう簡単に変えられたりするもんですかってのッ!」
掲げていた帽子が振り下ろされる。それを合図に、一斉に弾丸の雨が放射された。
「天忍穂耳ッ!」
陽祐の腕に込められていた力、炎が彼を覆うように解き放たれる。爆炎は炎の防護壁となって、弾丸の雨を阻み溶かしていく。
そして、その炎を展開したまま陽祐は一歩一歩白里ににじり寄る。腕の位置に連動する炎も同時に前へ進み、少しずつ距離を詰めていく。
「お前の能力の一つは不死。それはどんな傷を負っても瞬く間に復元されるモノだ」
一歩。
「そうよ、それが回帰骸。あたしのカラダをゾンビみたいにさせた、どうしようもない呪いよ」
一歩。
「だとしたら、回復が追い付くより先にお前を骨まで焼き尽くせたとしたら……どうだ」
距離が近付いてくる。
「無理よ。あんたの目の前で、焼かれてる最中のあたしが回復していく様を見せたでしょ? あんなグロい光景忘れちゃったの?」
弾が切れた砲台が消えていく。
「俺はあれから強くなった。力の結晶を、大切な仲間をも、塵も残さず焼き尽くせる力を手にしてしまった」
炎の展開を止め、なお近付いてゆく。
白里は以前対峙した時の陽祐と様子が違うこと、その違いが狂気によって齎されていることを直感し、僅かに後ずさる。
「俺にはわかる。もうすぐ、俺は俺でなくなる。純粋な力のみになって、見境なく全てを壊す獣になる」
「それが、何? 何よ急に」
絞り出された声が震えていることに気付く白里。彼女は、陽祐を相手に恐怖を感じているらしいことを知った自分が情けなくなる。
「あんたの念仏なんか聞きたくない! 何よアンタ、狂ってんならさっさと寝たらいいのに!」
そんな自分を消し去りたい。白里は詰められた距離の間を埋めるように、砲台を創り出す。
なお前進を続ける陽祐は、必然的にその腹に砲口を押し付けることになる。
「発射ッ!」
零距離爆撃。爆熱と爆風が砲台を挟んだ二人に襲い掛かる。白里自身が不死身の能力を持っているがゆえに強行できた捨て身の攻撃だ。
二人の身体が軽々と吹き飛ばされる。白里は受け身も取らずに転がり続けるのに対し、陽祐は炎の噴出によって空中に逃れて衝撃を逃がした。
陽祐の目は鋭く白里を捉え、着地と共に一気に詰め寄ろうと両腕に改めて炎を灯す。
「ひは、たべものをやくときにつかうんだよね?」
無邪気な声は、背後からかかった。同時に、陽祐の右肩に強烈な痛みが走る。
「キュリオ、貴様ァッ!!」
体勢を立て直していたキュリオが、陽祐の隙を狙って球体を飛ばしていたのだ。球体は陽祐の右腕をそのまま飲み込むように、右肩を噛み千切ろうとしていた。
重力に従い落ちていく陽祐。このまま行けば、着地より先に右肩がなくなってしまうだろう。
「うあああああああああッッ!!」
激痛と、以前キュリオに喰われて血溜まりとなった時雨の光景のフラッシュバックで、陽祐は叫ぶ。
神経が傷付けられている痛みと、自分の身体から血が流れ始めている感覚を少しでも掻き消そうと、かぶりついた球体の内側にある腕が濃密な炎を撒き散らした。
噛み付く力が、抑えられない。球体はさらに顎を締め、鋭い歯をより深く食い込ませる。
「よくもらんぼうしたな! きゅりお、おまえきらいだけどくってやる!」
「黙れええええええええええッッ!!」
陽祐の残った左腕に爆炎が凝縮され、太陽光のように煌めきだす。
自分の拳を自分に振るうようなものだが、仕方ない。陽祐は叫びながらも冷静に判断を下し、躊躇なく球体に「天照」を叩き込む。
グエエ、と悍ましい悲鳴を上げて、球体がようやく離れる。拳の熱に張り付いた球体をその勢いのまま真下に叩き付けて、自身の落下のクッションにした。
球体の上に着地した陽祐は、降り際にもう一度拳を上から振り下ろしてコンクリートの地面と共に球体を砕く。
巨大なトマトを落としてしまったかのように、陽祐と球体の周囲に夥しい量の鮮血が飛び散った。
球体は何も言わず、そのまま沈黙した。
「……河水樹白里」
顔を上げて、陽祐は先ほど吹き飛んでいった白里の様子を伺おうとする。
そうして身体を起こして初めて、陽祐は自分の身体が少し軽くなっていることを、右腕が自分から離れていることを知った。