歯車は噛み合った
僕の目の前で、少女が飛んだ。
信号を無視して突っ込んできた車が、僕の目の前を横切っていた。
それが一般的に言う“交通事故”だと気付くのに、ほんの数秒、時間がかかった。
ここがそんなに大きい通りじゃないせいか、周りには誰もいない。
見てみぬ振りをして帰ろうかと思ったが、こんなものを見た後に自室でチェスをやるとなると、その場の判断に支障を来す恐れがある。
この僕、朔来志輝のチェス連勝記録を、こんな事なんかで打ち止めしたくないから……仕方なく携帯を取り出して、救急車を呼び出した。
数分の後にサイレンの音が近づいて来る。この少女を轢いた車は、気付かない内に逃げていた。轢き逃げか。……馬鹿な奴だ。
少しして、救急車から三人の救急隊員が駆け付けた。
僕は大まかな状況を説明すると、隊員の一人にそっと耳打ちをしておく。
「この娘を轢き逃げした車のナンバー、〇〇県の××‐××でしたよ」
唖然とする隊員。僕は作りの柔らかい笑みを浮かべると、少女を救急車に運んでいく光景を眺める。
隊員はどこか(おそらく警察だろう)に電話を掛け、残りの二人も少女を運び込む作業を続けている。
さて、今の内にこの場を離れよう。
そう思った矢先、肩に一人の隊員の手が乗った。四人目が出てきていたか。
「キミ、この娘の関係者だよね?病院まで救急車で一緒に連れていこう」
……とんだ勘違いだ。こんな女、僕は知らない。
しかし、人の心からの親切は、世の中を渡る上では無下に断れない。いつ自分に返るか分からないからな。
「では、お願いします」
「仲の良い誰かがいると、気が付いた時に安心できるからね。さあ乗って」
「わかりました。僕が力になれるのなら」
チッ、時間の浪費だな……
長い間病院のロビーで暇潰し用のオセロを弄っていると、医者がこちらに向かって来るのが見えた。
脱いである上着をオセロ盤に被せる。同時に医者が僕の目の前まで来た。
「どうでしたか?僕、不安で落ち着かなくて」
勿論嘘だ。不安などない。
「安心してください、手術は成功しました。今は意識もあります」
優しそうな、でもどこか事務的な笑顔で医者は告げた。僕と同じく、作った笑顔なのだろう。
医者は少女の病室の番号を僕に伝えると、自らの行くべき場所へと去っていった。
ここまでしたんだ。今更時間を気にする必要も無いし、病室に行ってみるか。
オセロ盤を片付け、僕は上の階へ向かうエレベーターに乗った。
ノックをした後病室に入る。
清潔感の塊のように白いベッドの上、少女が横たわっていた。
少し近づいてみる。すると、淡いピンクの髪が、桜が風に吹かれたようにふわりと揺れた。
むくりと、少女の小さな身体が上体を起こした。
無言のまま、少女は僕に深緑の双眸を向ける。何を考えているのか読み取れない、謎の視線を受ける。
整った顔立ちが微妙に傾いた気がした。首を傾げたのか?
見ず知らずの男がいきなり来たんだ。当たり前の反応なんだが、少し無用心過ぎる。
「ああ、僕は……」
名乗ろうとした僕を、ゆっくりと上げた左手で指差した。
僕の顔?……目?
「左目」
「なっ!?」
僕はすぐに手で左目を隠す。
動悸が速まり、思考もまとまらず、動揺が止まらない 。
何故だ?何故僕の“左目”を知っている?コンタクトが取れたのか?だとしたらまずい!
病室の中にあった鏡を見る。
左目は、黒。
コンタクトが取れた訳ではなかった。軽く息を吐くが、まだ疑問は残る。
「お前、何故僕の左目を知っている。この事を知っているのは僕に近しい人だけのはずだ」
少女は表情も変えず、視線をこちらに向けるだけ。
「その左目、色が違う」
ぎっと奥歯を噛み締める。
僕は左手で顔の左半分を隠し、ゆっくりと手を下ろすと共にコンタクトを外した。
コンタクトを外した僕の左目は、こいつの言う通り、黒ではない。
「銀」
そう。僕の左目は黒ではなく、銀色だ。
何故黒のコンタクトをしているのに気付いたのかは知らないが、これでもう余計な会話は続かないだろう。
大半の奴は、この左目を気味悪がって、僕を避け、怯え、恐れる。“あの時”のように。
こいつも同じはずだ。まるで汚い物を見るかのように、僕を否定する奴らと……
僕は再びコンタクトを付けると、病室を出ようとする。
「未来を見通す瞳、「未来眼」」
小さな声が、病室にうるさい程に響いた気がした。
「……何を」
聞き慣れない言葉を受け、少女の方に振り返る。
少女は、一瞬の内に僕の背後に立っていた。
「私が、あなたに与える事のできる能力」
「能、力?」
一体何を言っているんだこいつは?事故で頭がやられたのか?
しかし僕は何故か、少女に問いかけていた。
「何のために?」
「「戦い」のため」
少女は淡々と答える。戦い?何の戦いだ?
「「世界を手に入れるための戦い」……それに参加するなら、私はあなたに未来眼の能力を与える事ができる」
世界を、手に入れる。今こいつは確かにそう言った。
フン、馬鹿馬鹿しい。
「そんな胡散臭い話など信じられないな。元気のようなら僕は帰る」
じっとこちらを見るだけで反応もしない少女にもう一度背を向け、今度こそ病室を出た。
閑静な住宅街の中に、僕の住む“家”はある。
家の前に来た時は、すでに日が沈みかけていた。どうでもいい事に関わってしまったからな。
自分の部屋に入ると、僕は机の上に置いてあるチェス盤を眺めた。
色々無駄な時間を過ごしてしまったせいかやる気が湧かない。慎次郎さんと約束していたが、今日は破棄する事にした。
連勝記録は、次の機会に更新するとしよう。
重い体をベッドに倒し、ぼうっと天井を見るでもなく見る。
そっと、自分の左目に軽く触れた。
まさかコンタクトを付けているのにも関わらず、左目の色を見破れる奴がいるとは思わなかった。
僕の左目は、ある日突然銀に変色した。
何の予兆もなく、この目は僕から全てを奪ったのだ。
友達、家族、周囲の人間……
全て左目の所為で気味悪がられ、突き放された。
住む場所すら追われた僕を拾ってくれたのは、この家「さくらい孤児院」の管理人の朔来慎次郎さんだった。僕はこの人の名字を貰い、父親同然に思って今まで過ごしてきた。
何で関わりの無い僕に、ここまで親切にしてくれるかは分からないが……
「志輝、いるのかい?」
ガチャリと扉が開くと共に、慎次郎さんが入ってきた。
どうやらぼうっとし過ぎてノックの音が耳に入らなかったらしい。
慎次郎さんは部屋を見回し、僕を見つけると柔らかい笑顔を見せた。作り物ではない、本物の笑顔を。
「お帰り、志輝。今日はやらないのかい?チェスは」
「慎次郎さんが相手だと張り合いがなくてね。攻撃の手が丸分かりだ」
慎次郎さんはとにかくポーンを前に進ませたがる。あまりにその作業に熱中しているから、簡単にチェックをかける事ができてしまうのだ。
「だって、ポーンでキングを討てたら格好良いと思うんだ」
よっぽどの状況でない限り難しい。何とも残念なポリシーだ。まともにやれば強いのに。
「……今日は色々あって疲れて、チェスをやる気分じゃないんだ。また今度にしてもいいかな?」
あの少女の姿が、言葉が、頭の中で渦巻いて消えない。こんな状態では慎次郎さん相手でも苦戦してしまう。
「わかったよ。それじゃ、夕飯ができたらまた呼びに来るね」
慎次郎さんは微笑みを絶やさず、部屋から出ていった。
再び部屋に静寂が訪れ、ゆっくりと目を閉じる。
(世界を、手に入れる……か)
気付けば、僕は慎次郎さんに呼ばれるまでの間、ずっとその事を考えていた。