入居型老人ホームで働く私、じいさんをかばって階段から落ちたら異世界に転生していました
私は、入居型介護施設で働く二十八歳。
ここは少しお高い施設なこともあってか入居者も上品な方が多く、しんどいと言われる介護の仕事の中では、わりと当たりな職場に勤めていると思う。
もちろん、楽な仕事というわけではない。
人手が足りない日もあるし、腰も痛くなる。何度説明しても伝わらないこともあれば、昨日まで喜んでいたものを、今日は嫌だと言われることもある。
ただ、夜勤明けに「あなたもちゃんと寝なさいよ」と心配してくれる人がいるのは、ありがたい。
「今日は何を着ましょうか」
クローゼットを開けると、藤色、薄桃色、若草色と、きれいな春のような色の服が並んでいた。どれも手触りがとても心地よい。
「あなたが選んでちょうだい」
「では、こちらはいかがですか?」
「それは昨日着たでしょう」
覚えてるならご自分で選んでいただきたい…とは思うけれど、もちろん口には出さない。
「こちらはどうですか?」
「少し地味ねえ」
「では、こっち」
「あら、いいじゃない」
よかった。無事に決まった。
朝食を終えたあとは、外出の準備だ。
今日は希望者を連れて、近くの庭園へ出かけることになっている。今の時期は香りのいい花が咲いていて、眺めながらお茶を飲むこともできる。もちろん予約制だ。お高い施設だからこそ出来ることのひとつ。
「お迎えの車が来ましたよ」
「もうそんな時間?」
「上着をお持ちしますね」
車に乗るまで付き添って、人数を確認して、忘れ物がないか確かめる。
「四時には戻りますからね」
「あら、もう少しゆっくりしたいわ」
「夕食に間に合わなくなっちゃいますから」
そうして出かけた皆さんを担当職員に託して見送ったあと、私は廊下の向こうから歩いてくる男性に気がついた。
寝癖など無縁と言わんばかりに白髪をきっちり撫でつけ、シャツの上にベストを着た、八十二歳の入居者。
いつも身なりが整っていて、食堂の椅子に座っているだけでも、ちょっとした貫禄がある。
「今日は庭園へ行かれなかったんですか?」
「同じ庭ばかり見ても、仕方がないだろう」
「季節が変わると、お花も変わりますよ」
「花なら、ここの庭にもあるさ」
それはそう。
「でしたら、あとで一緒にお庭を歩きましょうか」
「君は忙しいだろう」
「少しなら大丈夫ですよ」
彼は返事をせず、軽く手を上げた。
断られたかと思ったが、午後になると、玄関近くの椅子に座っていた。帽子までかぶっている。
行く気満々じゃないですか。
「お待たせしました」
「待ってはいない」
「そうですか。では、ちょうどよかったですね」
そう返すと、口元が少しだけ緩んだ。
庭を一周して戻る途中、彼は玄関へ続く短い階段の前で足を止めた。
「手すりを使ってくださいね」
「わかっている」
片手が手すりにかかったのを確認して、念のため私は数段降りた場所で彼が階段を降りるのを見守ることにした。
次の瞬間、背後で靴底が擦れる音がしたので慌てて振り向くと、彼の体がこちらへ傾いていた。
「危ない!」
腕を伸ばした。
ベストをつかみ、手すりの方へ押し戻す。
その勢いで、今度は私の足が段の端を踏んだ。
あ、まずい、足元がなくなる。
彼が手すりにしがみついているのが、視界の端に見えた。
よかった。
そのあと、背中に衝撃が来て――。
———
「お嬢様?」
目の前に、若い女性が立っていた。
白いエプロンに、長いスカート。
両手には、小さな靴を持っている。
「どうかなさいましたか?」
私は、自分の手を見た。
小さい。
指も短いし、爪も小さい。
足は床に届いていない。
……ああ。
私、五歳だった。
いや、待って。
今の「五歳だった」って何?
ここで暮らしてきた記憶はある。
父も母も知っているし、目の前の女性が、いつも私の世話をしてくれる侍女だということもわかる。
でも、それとは別に、二十八年分の記憶がある。
仕事、職場、階段。
そしてあのじいさん。
「お嬢様、お加減が悪いのですか?」
侍女が靴を置き、私の顔を覗き込んだ。
「……だいじょうぶ」
とりあえず、そう答えた。
大丈夫かどうかは、まだわからない。
ただ、熱はないし、どこも痛くない。
私はじいさんをかばって階段から落ちた。
そして今、五歳の女の子になっている。
しかも、ただの女の子ではない。
父は伯爵だ。
そしてここは伯爵家のお屋敷で、私はその娘。
異世界の貴族に転生していました!ってやつか…ってそんなこと、ある?
———
数日かけて、自分なりに状況を整理した。
まず、やはり夢ではないらしい。
寝て起きても、私は五歳のままだった。
前世のことは誰にも話していない。
説明できる気がしないし、私の方こそ可能ならもう少し説明してほしい。
それよりあのじいさん、無事だったかな。
最後に見えた姿を何度も思い返した。
手すりはつかんでいた。体も階段の方に戻せたはずだ。
どうか、あのまま踏ん張れていてほしい。
そして、今の私。
両親は優しいし食事はおいしい。
部屋は広いし、ベッドはふかふか。
欲しいものがあれば、大抵は用意してもらえる。
前の人生では、家賃や光熱費を気にしながら、夜勤もしていたというのに。
ぶっちゃけこれは、かなり当たりなのでは?
そう思ったのだが。
「お嬢様、本日はどちらのお召し物になさいますか?」
侍女が、薄桃色と、若草色のドレスを広げた。
「…こっちで」
薄桃色を指すと、彼女はにっこり笑った。
「よくお似合いになると思います」
服を脱がせてもらい、着せてもらう。
後ろのボタンも留めてもらう。
髪を梳かして、リボンを結んでもらい、靴まで履かせてもらう。
五歳だからね。
まだ難しいこともあるものね。
そう納得していたのだが、母の支度を見て、少し考えが変わった。
母も、服を広げてもらっていた。
後ろを留めてもらって、髪を整えてもらって、首飾りをつけてもらっている。
……大人になっても、これなのか。
食事は時間になると用意される。
食事介助こそされないものの、好みは完全に把握されていて、苦手なものはあまり出てこない。そして食べた量が少ないと、心配される。
「お嬢様、もう少し召し上がりませんか?」
「もう、おなかいっぱい」
「では、果物だけでも」
このやりとり、知ってる。
お風呂も用意してもらえる。
湯加減を確かめてもらって、滑らないように付き添われる。
「足元にお気をつけくださいね」
うーん、私、それ言ってたな。
庭へ出ようとすれば、上着を持って追いかけてくる人がいる。
ちょっと部屋でぼんやりしているだけで、様子を見に来る人もいる。
手厚い…大変、手厚いのだが。
何だろう…この、なんとも言えない感じ。
仕事中にずっと見ていたような生活は。
———
ある日、母とお茶会へ行くことになった。
「お嬢様、馬車の用意ができました」
玄関で上着を着せてもらい、侍女に付き添われて外へ出る。
馬車の前には踏み台が置かれ、手を取って乗せてもらった。
向かいには母が座り、隣には侍女が座る。
「夕方には戻る予定よ」
母がそう言うと、見送りに来た家令がうなずいた。
「お気をつけて、行ってらっしゃいませ」
馬車が動き出す。
私は窓の外を眺めながら、胸の奥に引っかかっていたものを、ようやくつかんだ。
この既視感…。
迎えが来て、付き添いがいて、皆で出かけて、帰る時間も決まっていて…
あ!
デイサービスの送迎じゃん!
「どうしたの?」
急に顔を上げた私を見て、母が首を傾げた。
「…なんでもないです」
危ない、口に出すところだった。
訪問先では、お茶とお菓子が出てきた。
母たちは互いの服や庭の花を褒め、共通の知人の近況を話している。途中からは、その場にいない人の話も始まった。
あの方は最近お見えにならない。
腰を痛めたらしい。
珍しく息子さんが迎えに来ていた。
あそこのご夫婦は、どうも仲がよろしくない。
聞いたことあるなあ、こういうの。
私は隣の席の女の子と焼き菓子を食べながら、前世の社員食堂の記憶も思い出していた。
帰りには馬車まで送ってもらい、屋敷に着けば使用人が迎えてくれる。
「お帰りなさいませ。お疲れではございませんか?」
「大丈夫よ。楽しかったわ」
母は満足そうだった。
その姿を見ながら、私は思った。
貴族に転生して、ラッキー。
単純にそう思っていたけれど、内容は入居型ホームの老人じゃん。
いや、屋敷はずっと大きいし、服も豪華だ。
でも、身の回りのことをしてもらって、食事が出てきて、外出にも付き添いがいる。
あのじいさんは、実質貴族だったのか。
……いや、そうじゃなくて。
———
夕食には、温かいスープと、肉料理と、白いパンが並んでいた。
私が食べやすいように、肉は小さく切られている。
「今日のお茶会はどうだった?」
父に聞かれ、私はパンを置いた。
「楽しかったです」
これは本当だ。
お菓子はおいしかったし、同じ年頃の子とも話せた。
ただ、帰ってからずっと、一つ気になっている。
前の職場は、少しお高い施設だった。
入居者は、その費用を払っていた。
自分の貯金だったり、年金だったり、家族が負担していたり。事情はそれぞれだけれど、あの暮らしにはかなりお金がかかっていた。
では、私は?
「お父様」
「何だい?」
「このおうちのお金は、どこから来るのですか?」
父は少し驚いたあと、笑った。
「急にどうしたんだい?」
「ごはんも、お洋服も、馬車も、お金がかかるでしょう?」
当たり前に出てくるけれど、無料ではないはずだ。
父は、うれしそうに身を乗り出した。
「そうだね。私たちの家は、領地から納められる税で支えられているんだよ」
「税……」
「領地で暮らす人たちが納めてくれるんだ」
私は、食卓に目を落とした。
白いパン。
まだ湯気の立つスープ。
きれいに磨かれた銀の食器。
それから、壁際に控える使用人たち。
私の貯金でも、年金でもない。
両親が夜勤をして稼いだお金でもない。
領民が納めたお金。
…その人たち、何を食べてるんだろう。
私と同じパン?
もっと硬いやつ?
肉は毎日食べられるの?
どんな服を着て、どんな家に住んでいるんだろう。そもそも一日働くと、いくらくらいもらえる?そしてそこから税を払ったら、いくら残る?
知らない。
一つも、知らない。
貴族になってよかったと喜びながら、その暮らしを支えている人たちのことを、何も知らずにいた。
やば。
ちゃんとやんなきゃじゃん。
いや、その前に勉強だ。
何がどうなっているのか、まず確認しないと。
「お父様」
「うん?」
「このパン、一つでいくらですか?」
父は、手元のパンを見た。
「……いくらだったかな」
それから、壁際へ顔を向ける。
「わかるかい?」
問いかけられた家令が、一歩前へ出た。
「屋敷では粉を仕入れて焼いておりますので、店で売られているものとは値段が異なりますが」
彼は少し考え、町で売られているパンの値段を教えてくれた。
なるほど。
でも、その金額だけ聞いても、まだわからない。
「では、町で働いている人は、一日にいくらもらえるのですか?」
父は目を丸くした。
家令は、すぐには答えなかった。
私の顔を見てから、静かに尋ねる。
「どのようなお仕事をしている方でしょうか」
「お仕事で違うの?」
「はい」
「では、それも知りたいです」
父の顔が、ぱっと明るくなった。
「領民の暮らしに興味があるんだね! それはいいことだ。お父様が教えてあげよう!」
頼もしい。
ぜひ、お願いします。
「まず、この領地では、どんなお仕事をしている人が多いのですか?」
父はにこにこしながら口を開き、それから、もう一度家令を見た。
家令は、父の視線を受けて、慣れた様子でうなずいた。
「農業に従事する者が多くございます。町には商人や職人、その店で働く者などもおります」
「そう、そうなんだよ」
父は満足そうにうなずいた。
なるほど。
お父様が教えてくれるというのは、お父様を経由して家令が教えてくれるという意味らしい。
「畑で働いている人も、お金をもらうのですか?」
「人に雇われている者もおりますが、自分の畑で作物を育て、売る者もおります」
「では、毎日同じだけもらえるわけではない?」
「そのとおりでございます」
そうか。
まず、そこから違うのか。
私の前世では、働いた時間に応じて給料が出ていた。
でも、畑で作物を育てるなら、働いた日にお金が入るわけではない。
収穫できるまでの生活費も必要だろうし、雨が降らなかったり、降りすぎたりすれば、収入も変わるはずだ。
「税は、いつ払うのですか?」
「農家の場合は、主に収穫のあとでございます」
「お金で?」
「作物で納める場合もございます」
聞けば聞くほど、わからないことが増えていく。
でも、たぶん、それでいい。
わからないまま、わかったことにするよりは。
「では、作物があまり採れなかったときは?」
父が、今度こそ自分で答えた。
「その場合は、税を減らしたり、納めるのを待ったりするんだ。暮らしていけなくなっては困るからね」
私は少し安心した。
よかった。
採れようが採れまいが同じだけ持ってこい、という家ではないらしい。
「その人の畑が、あまり採れなかったことは、どうやってわかるのですか?」
父が止まった。
家令が、私を見た。
「村ごとの報告を受け、必要に応じて現地を確認いたします」
「そうなのですね」
仕組みはある。
それなら、まず、その仕組みを教わろう。
前の世界の知識だけで、こっちの事情までわかるわけではない。
私が少し考えていると、父が母の方を向いた。
「この子には、そろそろ家庭教師が必要かもしれないね」
「ええ。知りたいことが、たくさんあるみたい」
二人とも、うれしそうだった。
「いい先生を探そう。何でも聞くといい」
ありがたい。
私は五歳なので、自分で先生を雇うことも、本を買いに行くこともできない。
勉強したいと言ったら、すぐに協力してくれる。
これは、かなり恵まれている。
「ありがとうございます、お父様」
父は、照れたように笑った。
その横で家令が、私の皿を見た。
「お嬢様。お勉強の前に、まずはお食事を」
スープが冷めかけていた。
……はい。
そこも、前の職場と同じだった。
———
家庭教師が来るようになって、私の日々は少し忙しくなった。
まず、文字。
五歳までの私が覚えていたのは、自分の名前と、絵本によく出てくる簡単な言葉くらいだった。
前世の記憶が戻ったからといって、こちらの文字まで急に読めるようになるわけではない。
私は小さな手でペンを握り、紙の上に文字を書いた。
頭の中では、もっとすらすら書けるつもりなのに、指がついてこない。
丸が、丸にならない。
前の職場で、手先を使う時間に「難しい」と言っていた人を思い出した。
簡単そうに見える作業でも、自分でやると、意外と難しい。
「お上手ですよ」
先生が褒めてくれた。
ありがとうございます。
でも、それ、昨日の私より上手という意味ですよね。
そのあとは、数の数え方と、お金の種類。
銅貨、銀貨、金貨。
同じ銅貨でも大きさが違い、交換できる枚数も決まっていた。
私は教わったことを、何度も紙に書いた。
パン一つの値段。
卵一つの値段。
薪の束の値段。
全部を並べてみても、まだ生活は見えてこない。
家賃は?
水は?
病気になったら?
靴が駄目になったら?
前世でも、食費だけ払えば暮らせるわけではなかった。
先生は、私の質問に丁寧に答えてくれた。
ただ、村での暮らしについては、詳しくないこともあるらしい。
「それは、家令に聞いてみましょう」
そうして、私の勉強に家令が加わるようになった。
———
「お嬢様、こちらが領地の地図でございます」
机に広げられた紙には、町と村、川、道が描かれていた。
私は椅子の上で少し身を乗り出した。
「ここが、このお屋敷?」
「はい」
「この村までは、どれくらいかかるのですか?」
「馬車で半日ほどでございます」
「歩いたら?」
「道の状態にもよりますが、一日近くかかるかと」
遠い。
地図では、指一本分くらいなのに。
私は、村と町をつなぐ線を目で追った。
「この人たちは、お買い物をするとき、町まで来るのですか?」
「村で手に入るものもございます。商人が回ることもありますので、すべてを町で買うわけではございません」
なるほど。
訪問販売もあるのか。
「ただ、品物によっては、町や製粉所まで出向く必要がございます」
「製粉所?」
「麦を粉にする場所でございます」
家令は、川沿いの印を指した。
水の力を使って、麦を挽くらしい。
農家が麦を持ち込むこともあれば、粉を買いに来る人もいるという。
私は地図を眺めた。
ここから、ここまで。
この道を、買い物のために歩く。
荷物を持って、帰ってくる。
「……実際に、見に行ってもいいですか?」
家令は、地図から顔を上げた。
「製粉所へ、でございますか?」
「はい。どんなところか、見てみたいです」
地図を見て、説明を聞いても、私には想像できていないことが、まだある気がした。
家令は少し考えたあと、うなずいた。
「旦那様にご相談いたしましょう」
父は、すぐに賛成してくれた。
「いいね! 実際に見れば、もっとよくわかるだろう」
「ありがとうございます」
「私も一緒に行こうかな」
「旦那様は、その日、商人とのお約束がございます」
家令が静かに言った。
「ああ、そうだった。新しい馬具の話だったね」
「はい。ご契約の前に、私も内容を確認いたします」
「そうしてくれると助かるよ。なかなかよい話だったから」
家令は、わずかに眉を動かした。
私はそれを見逃さなかった。
お父様。
その、なかなかよい話は、ちゃんと確認してもらってください。
———
見学の日も、馬車は玄関まで来た。
上着を着せてもらい、靴を確認され、手を取って乗せてもらう。
今日は隣に侍女。
向かいに家令。
行き先は製粉所。
送迎付きの社会見学だ。
「お疲れになったら、すぐにおっしゃってくださいませ」
侍女が、膝に薄い布をかけてくれた。
「はい」
私は窓の外を見た。
屋敷の庭を出ると、道沿いに家が増えた。
その先には畑が広がり、畑の間を人が歩いている。
荷車を引いている人。
腰を曲げて作業している人。
道端で、靴の裏についた泥を落としている子供。
私が朝食を食べている間にも、この人たちは働いていたのだろう。
馬車は、ときどき大きく揺れた。
屋敷の中の床とは違う。
雨が降ったら、もっと歩きにくくなるのかもしれない。
「この道は、冬も通れるのですか?」
尋ねると、家令が窓の外を見た。
「通れますが、雨や雪のあとには、時間がかかります」
私はうなずいた。
地図に描かれた線は、いつでも同じ線だった。
でも、本当の道は、そうではないらしい。
———
製粉所では、低い音が響いていた。
回る水車。
大きな石。
積まれた麦の袋。
管理を任されている男性が、私たちを迎えてくれた。
「こんな場所へ、お嬢様がお見えになるとは」
緊張しているのがわかった。
私は、とりあえず笑った。
「お仕事を見せていただきたいのです」
家令が説明を補ってくれて、私たちは作業の邪魔にならない場所から見学した。
粉は、白いものもあれば、少し茶色いものもあった。
屋敷で食べるパンには、細かく挽いた白い粉を使っているらしい。
値段も違う。
私は先生に教わった金額を思い出しながら、木の札を見た。
そのとき、入口の方で声がした。
「いつものを、これだけ頼む」
振り向くと、年配の男性が立っていた。
色の褪せた上着に、泥のついた靴。
手には、小さな布袋を持っている。
店の人は慣れた様子で粉を量り、その袋に入れた。
男性は硬貨を数えて渡したあと、袋を持ち上げた。
片手で持って、それから反対の手に替える。
入口まで歩き、また持ち直す。
私は、その動きを目で追った。
重いのかな。
若い人なら、気にせず持てる量かもしれない。
でも、持ち上げられることと、家まで運べることは別だ。
「こんにちは」
声をかけると、男性は私の服を見て、慌てて頭を下げた。
「ああ、お嬢様。これは、失礼を」
「どちらから、いらしたのですか?」
彼が答えた村の名前を、私は地図で見たばかりだった。
製粉所から、細い道を進んだ先の村。
「ここまで、歩いていらしたの?」
「ええ。朝に出まして」
今は、もう昼に近い。
「帰るのも、同じくらいかかるのですか?」
「帰りは、少しゆっくりですな」
男性は、粉の袋を持ち直した。
「休み休み、帰りますので」
私はその袋を見た。
大量ではない。
けれど、一食分でもない。
何日か食べるための粉なのだろう。
「どなたかに、頼めないのですか?」
「隣の者が来るときは、頼むこともあります。ただ、今は皆、畑が忙しいもので」
申し訳なさそうに、彼は笑った。
「わしは時間がありますから」
時間があるから、半日歩いて、重いものを持って、また半日歩く。
私は、前世の職場で聞いた言葉を思い出した。
『自分で行ける』
『まだ、それくらいできる』
『人に頼むほどのことではない』
できることは、できるだけ自分で。
それは大切だ。
でも、できるからといって、毎回そうしなければならないわけでもない。
私は家令を見上げた。
「この粉は、お屋敷のものより安いのですよね」
「はい」
「でも、買いに来るのが大変ですね」
家令は、男性の手元へ目を向けた。
「……そうでございますね」
「村まで、届けることはできないのですか?」
口にしてから、私は少し考えた。
届ける人には、お給料が必要だ。
馬車にもお金がかかる。
この人のために誰かが丸一日働くなら、簡単な話ではないのかもしれない。
「その方が高くなって、買えなくなるなら、困るけれど」
家令が、もう一度私を見た。
今度は、何かを確かめるような目だった。
「お嬢様は、粉の値段だけを、お知りになりたかったのではないのですね」
私はうなずいた。
「買って、おうちに持って帰って、食べられるところまで知りたいです」
値札だけ見ても、この人の昼食はわからない。
朝からここへ来て、帰る途中で何か食べるのか。
家で待っている人はいるのか。
雨の日も、同じように歩くのか。
聞いてみなければ、わからないことばかりだった。
家令は、しばらく黙っていた。
そして、男性に向き直った。
「少し、お話を伺ってもよろしいでしょうか」
———
帰りの馬車で、家令は手帳を開いていた。
男性の村では、何軒かがまとめて粉を買うこともあるという。
ただ、誰が行くか決まらないこともあれば、一度に運べる量にも限りがあるらしい。
私は、その話を思い返していた。
「さっき、すぐに届けると言わなくてよかったです」
家令が顔を上げた。
「どうして、そうお思いに?」
「まだ、できるかわからないから」
前の職場でも、その場で「大丈夫です」と言ったあとに、次の勤務の人が困ることがあった。
いいことのつもりでも、誰が、いつ、どうやってやるか決まっていなければ、続かない。
「……誰かが運んでくれるといいなとは、思います。でも、その人も忙しいかもしれないし」
家令は、静かにうなずいた。
「まず、調べましょう」
私は顔を上げた。
「調べてくださるのですか?」
「はい。荷馬車の通る道と日程を、確認いたします。村へ向かう便がございますので」
それは、私の知らないことだった。
家令は手帳に何かを書き足した。
「すぐにお約束はできませんが、できる方法があるかもしれません」
私は、少しうれしくなった。
疑問を持つだけでは、粉は届かない。
私は馬車も動かせないし、領地の仕事も知らない。
でも、この人は知っている。
そして、私の話を聞いて、一緒に考えてくれる。
「よろしくお願いします」
そう言うと、家令は丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ。お嬢様のお気づきになったことを、またお聞かせください」
私はうなずいて、窓の外へ目を戻した。
さっきの男性は、今ごろ、まだ道を歩いているのだろう。
私たちの馬車は、その道を軽く揺れながら進んでいく。
送迎付きでよかった、と思う。
数日後、家令が私の勉強部屋を訪ねてきた。
手には、何枚かの紙。
「お嬢様。製粉所の件で、ご報告がございます」
私はペンを置いた。
紙の上には、少しずつ上達してきた文字が並んでいる。
少なくとも、昨日よりは読める。
「何かわかりましたか?」
「はい。あの村には、屋敷の荷馬車が十日に一度ほど、通っております」
家令は、机に地図を広げた。
村の向こうには、領主家が管理する林がある。
荷馬車はそこで薪を積み、屋敷や町へ運んでいるらしい。
「林へ向かう際は、道具などを載せますが、荷台には余裕がございます。製粉所で粉を積み、途中の村で下ろすことはできそうです」
私は、地図の線を指で追った。
製粉所。
村。
林。
わざわざ粉だけのために行くのではなく、もともと行く馬車に載せる。
「では、届けられる?」
「ただ、決めなければならないことがございます」
家令は、もう一枚の紙を出した。
誰が注文を集めるか。
代金を、いつ、誰に渡すか。
粉をどこで受け取るか。
注文と違う量が届いたときは、誰に伝えるか。
思ったより、いろいろある。
「粉を馬車に載せるだけでは、駄目なのですね」
「はい。毎回その場で確認していては、御者も製粉所も困りますので」
私はうなずいた。
前の職場でも、送迎車に人を乗せるだけでは済まなかった。
誰が乗るか、どこへ行くか、何時に戻るか。
変更があれば、関係する人に伝える必要がある。
馬車が通る。
粉を載せる。
その二つだけで、私の頭の中では、ほとんど解決しかけていた。
危ない。
私もちょっと呑気だった。
「それから、届けるための費用でございます」
家令が、紙に書かれた数字を示した。
積み下ろしの手間。
注文を取りまとめる人への支払い。
袋を用意する費用。
馬車がもともと通るからといって、全部が無料になるわけではない。
「村で話を聞いたところ、少額の配送料であれば、利用したいという者がおりました」
「そのお金を払う方が、自分で買いに行くより助かるのですか?」
「畑や仕事を離れずに済みますので。ただ、すべての者が利用するとは限りません」
私はもう一度、紙を見た。
必要な人が、使えるようにする。
自分で買いに行きたい人は、今までどおりにする。
「まず、一回だけやってみるのですか?」
「何度か試した方が、問題もわかるかと。一か月ほどを考えております」
それなら、雨の日もあるかもしれない。
注文が多い日も、少ない日もあるだろう。
「やってみて、続けられるか確認するのですね」
「はい」
家令は紙をそろえた。
「旦那様にも、ご説明いたしましょう」
———
父は、話を聞くとすぐに喜んだ。
「それはいい! 村の者も助かるだろう」
私もうなずいた。
「では、ほかの村にも届けようか」
早い。
「旦那様」
家令が、静かに声をかけた。
「まずは、この村で試してからでございます」
「そうか」
「村によって道も違いますし、必要な量も異なります」
「なるほど。それでは、うまくいったら考えよう」
父は、素直にうなずいた。
話を聞かない人ではない。
むしろ、よいことだと聞くと、すぐにやりたくなる人なのだ。
家令は、見積もった費用と、試す期間を説明した。
父は今度は最後まで聞き、紙を確認してから言った。
「わかった。始めるための費用は出そう。続けるかどうかは、結果を見て決めるんだね」
「はい」
「私にも、どうだったか教えておくれ」
それから、父は私を見た。
「いいところに気づいたね」
私は首を振った。
「私は、聞いただけです。できるように考えてくださったのは、家令です」
本当にそうだった。
私一人だったら、「届けたらいいのに」で止まっていた。
馬車のことも、村のことも、必要なお金も知らなかった。
父は家令にも礼を言い、もう一度、書類に目を落とした。
「こういう説明は、わかりやすくていいね。この前の馬具の話も、君に確認してもらってよかった」
家令が頭を下げた。
「お役に立てて何よりでございます」
気になる。
私は父を見上げた。
「あの馬具は、買わなかったのですか?」
「うん。同じものが、いつもの店でもっと安く買えるとわかってね」
やっぱり。
「危うく、余計に払うところだったよ」
父は笑った。
笑って済んでよかったけれど。
私は家令を見た。
家令も、私を見た。
ほんの一瞬だった。
でも、たぶん、同じことを考えた。
お父様の「よさそう」は、確認が必要。
———
試しの配達が始まってからも、私は普通に五歳の生活を送っていた。
朝食を食べる。
勉強をする。
庭で遊ぶ。
昼寝をする。
昼寝は、しなくてもいい気がしていた。
中身は二十八歳なのだから。
ところが、文字を書いて、数字を数えて、少し庭を歩くと、眠くなる。
「お嬢様、そろそろお休みになりましょう」
「まだ、ねむくないです」
そう言った記憶を最後に、気づいたらベッドにいたことがある。
ああ、これも。
『寝てない』
『少し目を閉じていただけだ』
そう言っていた人たちの顔が浮かぶ。
私は、この人生で、いったい何人分の気持ちを理解することになるのだろう。
———
配達の結果は、家令が順番に教えてくれた。
一回目は、受け取りの時間に来られなかった家があった。
二回目は、袋につけた印が擦れて、誰の分かわかりにくくなった。
「それで、どうしたのですか?」
「注文の控えと量を照らし合わせました。次からは、札を結びつけております」
私はうなずいた。
やってみないと、わからないことがある。
そして三回目は、雨だった。
荷馬車の到着が遅れたけれど、粉は濡れずに届いたという。
「荷台の覆いを、出発前に確認しておいてよかったそうです」
その日は、あの男性も配達を利用したらしい。
私は窓の外を見た。
雨粒が、ガラスを伝っている。
この雨の中を、粉の袋を抱えて歩かずに済んだ。
それを聞いただけで、少しほっとした。
———
一か月後、私たちは、もう一度村へ行った。
今度は、父も一緒だった。
「私も見ておきたいからね」
父はそう言って、馬車に乗り込んだ。
向かいには家令。
隣には侍女。
付き添いが増えている。
村に着くと、受け取り場所になっている建物の前に、何人かが集まっていた。
届いた袋を、注文の控えと確認して渡している。
その横で、次の注文を聞いている人もいた。
あの男性は、もう粉を受け取っていた。
私たちに気づくと、袋を足元に置き、帽子を取った。
「お嬢様。この前は、どうも」
私は馬車を降りて、彼に挨拶した。
「届いたのですね」
「ええ。ここまで来れば済みますので、ずいぶん助かります」
家は、この先を少し歩いたところだという。
帰ったら、昼食を作るそうだ。
まだ昼になる前だった。
前に会った日は、この時間に製粉所にいて、これから長い道を帰るところだった。
今日はもう、家へ帰れる。
「雨の日も、ありがとうございました」
「私は、運んでいませんから」
思わずそう言うと、男性は笑った。
「もちろん、運んでくれた者にも礼は言いましたよ」
それならよかった。
私だけお礼をもらうのは、何だか落ち着かない。
隣では、父が村の人たちの話を聞いていた。
配達が始まって助かったこと。
受け取りの時間を、もう少し遅くしてほしいこと。
一度にたくさん買う家と、少しずつ買う家があること。
父はうなずきながら聞いていたが、途中で家令に尋ねた。
「時間は、変えられるかな?」
家令は、御者の予定を確認してから相談すると答えた。
父は「頼むよ」と言って、また村の人へ向き直った。
私は、その横顔を見た。
すぐに「変えよう」とは言わなかった。
お父様も、確認することを覚えたらしい。
———
屋敷に戻ると、父は配達を続けることに決めた。
費用は見積もりの範囲に収まり、製粉所や御者にも、続けられないほどの負担は出ていなかった。
受け取りの時間などは、もう少し調整する。
ほかの村については、必要かどうかを聞いてから考える。
父は、その報告を最後まで読んだ。
「私も、知らなかったことが多かったな」
ぽつりと、そう言った。
「粉の値段は気にしても、買って帰るまでのことは、考えたことがなかった」
私も、知らなかった。
前世の経験があっても、この世界の暮らしが全部わかるわけではない。
ただ、重そうだな、とか。
この道を歩くのは大変そうだな、とか。
そういうことには、目が向いた。
そこから先を教えてくれたのは、家令や、実際に暮らしている人たちだった。
「また、見に行ってもいいですか?」
私が尋ねると、父は笑った。
「もちろん。今度も、お父様が一緒に行こう」
家令が、すぐに予定を確かめた。
———
それから、勉強部屋には、領地の地図が置かれるようになった。
最初は、町と村の名前を覚えるためだった。
今は、そこに小さな書き込みが増えている。
粉を届けた村。
荷馬車が通る道。
雨のあと、通りにくくなる場所。
家令が説明してくれる横で、私は覚えたばかりの文字を書き足す。
「こちらの村からも、配達について問い合わせがございました」
「同じ馬車が通るのですか?」
「別の便でございます。まず、荷台に余裕があるかを確認いたします」
「受け取る人も、必要ですね」
「はい」
家令が、少し笑った。
「そこも含めて、相談してまいります」
私も笑った。
まだ、知らないことはたくさんある。
五歳の私にできることも、そう多くはない。
でも、聞くことはできる。
教わることもできる。
そのうち、読める書類も増えるだろう。
計算だって、もっとできるようになるはずだ。
そう思っていたところへ、侍女がやってきた。
「お嬢様。本日は、奥様とお出かけのお約束でございます」
「あ、そうでした」
私はペンを置いた。
薄桃色のドレスに着替え、髪を整えてもらう。
上着を着せてもらい、玄関へ。
馬車には、もう母が乗っていた。
「今日は、お庭を見せていただくのよ」
「はい」
手を取ってもらい、踏み台を使って乗り込む。
隣に侍女が座り、母が帰宅の時間を伝えた。
家令が、玄関先で見送ってくれる。
「行ってらっしゃいませ。続きは、お戻りになってから」
私はうなずいた。
着るものが用意されて。
食事が出てきて。
出かけるときには、迎えが来る。
やっぱり、この暮らしは前の職場によく似ている。
ただ、今の私は、出してもらった白いパンを見て、その向こうにある畑や、製粉所や、粉を運ぶ人のことを、少し思い浮かべるようになった。
窓の外を見ながら、帰ったら地図に書き足したいことを考える。
「今日は何だか、うれしそうね」
母に言われて、私は振り向いた。
「帰ったら、相談したいことがあるんです」
「あら。お父様に?」
「家令に」
母は楽しそうに笑った。
「すっかり仲良しね」
ええ。
話が通じる、頼もしい人です。
馬車がゆっくり動き出す。
転生して、今度は世話をしてもらう側になった。
……はずなのに。
送迎の馬車で、配達の段取りを考えている。
これ、入居者じゃなくて、職員の方では?




