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モラハラ夫と離婚したら、私は大ブレイクした

作者: 熾星
掲載日:2026/10/04

モラハラ夫と離婚したら、私は大ブレイクした

 二十四歳のとき、私は女優人生でいちばん大きな賞を手にした。


 授賞式の壇上で、二年付き合っていた神崎征士郎からプロポーズされた。大勢の報道陣が見守るなか、私は差し出された指輪を受け取り、その日のうちに芸能活動を休止すると発表した。


 翌日の記事は、どれも似たような見出しだった。


 ――人気絶頂の若手女優、愛のために引退。


 それから十二年。


 三十六歳になった私は、芸能プロダクションの社長となった夫と、夫婦密着リアリティーショー『さよなら、夫婦』に出演した。


 番組の中で、私は何度も同じ言葉を口にした。


「離婚したいんです」


 最初は演出を疑う声も多かった。


 けれど、固定カメラが征士郎の冷たい態度や、私を見下すような言葉を次々と拾うにつれて、世間の見方は変わっていった。


 収録最終日の夜。


 ホテルの部屋にカメラはなかった。


 征士郎は私の前に片膝をついている。煙草を最後まで吸い、私はその火を彼の掌に押しつけた。


 征士郎は手を引かなかった。


 頬を軽く叩く。


「カメラの前では上手だったわね。征士郎、あなた、私より役者に向いてるんじゃない?」


 彼が顔を上げた。


 番組の中では私を見るたびに苛立っていたその目に、今あるのは、息苦しいほどの執着だけだった。



1



 Lumiere+制作の『さよなら、夫婦』は、関係に問題を抱えた四組の夫婦を追う密着型リアリティーショーだった。


 出演者たちは番組側が用意した施設で二週間を過ごす。共有スペースには固定カメラがあり、毎日数時間だけ生配信も行われる。それ以外の映像は編集され、後日配信される仕組みになっていた。


 最初の個人インタビューは、初回特番の生配信中に行われた。


 スタッフが画角の外へ下がると、インタビューディレクターがこちらを見る。


「御影さんは二十四歳のとき、人気絶頂のまま活動を休止されましたよね。その後、何度か作品には出演されていますが、私生活についてはほとんど語ってこられませんでした。今回、なぜこういう番組に出ようと思われたんですか?」


 カメラの赤いランプが点いている。


 私はレンズを見つめた。


「離婚するためです」


 ディレクターが一瞬、言葉を失った。


「夫の神崎征士郎と、離婚したいんです」


 インタビューは予定より早く終わった。顔色を気にしたのか、ディレクターから少し外の空気を吸ってきてもいいと言われ、私は部屋を出た。


 廊下には次の収録を待つ征士郎がいた。


 シャツの袖口を整えていた彼は、私を見るなり口元だけで笑い、そのまますれ違って部屋へ入っていった。


 ドアが閉まっても、声は聞こえた。


「沙耶のいいところ?」


 征士郎は本気で考えているらしく、しばらく黙っていた。


「昔はきれいだったんじゃないですか。女優だったし。今は……家にいる時間が長すぎて、特に思いつかないな」


 趣味は何か。


 最近何を気に入っているか。


 スマートフォンの待ち受けを知っているか。最後に自分からメッセージを送ったのはいつか。誕生日に何を贈ったか。


 答えられたものは、ほとんどなかった。


「俺、仕事が忙しいんですよ。会社に何人いると思ってるんですか。妻のスマホの待ち受けまでいちいち把握してられないでしょ」


 悪びれる様子もない。


「もう十二年ですよ? 毎年誕生日だから何かしなきゃ、なんて疲れません? 普通に暮らせてれば、それでよくないですか」


 ディレクターが少し黙った。


「神崎さんは今、ご夫婦で普通に暮らせていると思いますか?」


 征士郎の笑い声が聞こえた。


「俺はそう思ってましたよ。沙耶が急に離婚すると言い出して、家のことまで番組に持ち込んだだけです」


 間を置いて、続ける。


「俺が出演したのも、少し冷静になってほしかったからです。自分が今どれだけ勝手なことを言ってるのか、外から見れば分かるかもしれないし」


 このインタビューは生配信中だった。


 廊下にいたスタッフたちも聞こえていたらしく、誰も彼と目を合わせようとしなかった。


 同じ番組に参加している水原彩乃が私のところへ来た。


「そんな男、もう捨てちゃえばいいのに」


 口にしたあと、自分でも可笑しくなったのか、彩乃は小さく苦笑した。


 私は床へ目を落とした。


 十二年前、私たちはもっと自然に笑っていた。


 今、カメラに映る二人は、まるで別の夫婦のようだった。



2



 二十四歳のとき、私は女優としてもっとも大きな賞を受賞した。


 授賞式の最後、客席にいた征士郎が立ち上がった。


 当時の彼は今ほど大きな会社を経営していたわけではなく、家族から引き継いだ芸能関連事業を軌道に乗せようとしているところだった。


 大勢のカメラの前で、征士郎は片膝をついた。


「沙耶、結婚してほしい」


 照明に照らされた耳が、少し赤かった。


 私は頷いた。


 その夜、芸能活動をしばらく休むことを発表した。


 結婚してからも、仕事では御影沙耶を名乗り続けた。数年後、ぽつぽつと出演を再開してからも、スクリーンの中の私はずっとその名前だった。


 その後、私たちには二人の子どもができた。


 十一歳の理玖と、十歳の莉央。


 子どもたちの生活を守るため、家庭について公にすることはほとんどなかった。


 征士郎も最初の頃はそれを尊重してくれていた。業界のパーティーや会食にも、私が嫌がれば無理に連れ出そうとはしなかった。


 けれど、会社が大きくなるにつれ、征士郎の周りには若い女優や女性スタッフ、華やかなアシスタントが増えていった。


 私から、一緒に出席しようかと申し出たこともある。


 ある日、征士郎は私を上から下まで眺めた。


「やめといたほうがいいんじゃない?」


「どうして?」


「ちゃんと人前に出るの、久しぶりだろ。俺と一緒に行ったら、記事になるぞ」


 彼は淡々と言った。


「十二年前の写真と今の写真を並べられて、老けたとか太ったとか、そればっかり書かれる。沙耶、耐えられる?」


 私が、心配しているのか、それとも隣に立たれるのが嫌なのかと聞くと、征士郎は面倒そうに眉を寄せた。


「俺は毎日仕事で手いっぱいなんだよ。そんなことで喧嘩したくない」


 似たような言葉は、少しずつ増えていった。


 芸能界を離れたのなら家庭を大切にすればいい。


 今の私にとって、二人の子ども以上の成果なんて必要ない。


 長く仕事から離れていたのだから、会社のことが分からないのは当然だ。


 そう言われ続けるうち、私はいい母親と、夫の邪魔をしない妻の役を演じるようになっていた。



3



 個人インタビューのあと、番組スタッフは明らかに私たちを気にするようになった。


 初日の夜、四組の夫婦に、同じ部屋で寝るか別室にするかを選ばせる企画があった。


 私は別室を選んだ。


 征士郎は同室だった。


 二人の答えが並んだところで、ディレクターが話し合ってくださいと言った。


「私は一人で寝たい。眠りが浅いし、征士郎は夜中まで仕事してることが多いから。一緒だと、どっちも休めないでしょ」


 征士郎の顔が曇る。


「沙耶、わざとやってる?」


 その場が静かになった。


「まだ離婚してないんだぞ。番組に出た途端、同じ部屋で寝るのも嫌って何なんだよ」


 ほかの出演者が間に入ろうとした。


 彩乃も私の腕を引く。


「大丈夫。慣れてるから」


 結局、番組側は私の希望を通した。


 征士郎はそれ以上言わなかったが、視線だけは冷たかった。


 夜十一時を過ぎた頃、ドアを叩く音が続いた。


 十分ほど待ってから、私はドアを開けた。


 外には征士郎が立っていた。


 眠れないから、何か夜食でも作ろうと思ったらしい。


 番組用のキッチンには、焼きそばが何袋か用意されていた。


 征士郎がフライパンを使い始めて数分もしないうちに、油が手の甲にはねた。


「もういい。やっぱり俺、こういうの向いてないわ」


 フライ返しを置く。


「もう一袋あっただろ。沙耶が作って。目玉焼きもつけて」


 私は何も言わなかった。


 焼きそばを作ってリビングへ持っていくと、征士郎はソファでタブレットを見ていた。


 ちらりと皿を見る。


「遅い。もう食欲なくなった。寝ていいよ」


 私は皿をテーブルに置き、そのまま部屋へ戻った。


 翌日のインタビューで、どうして言われたとおりに作ったのかと聞かれた。


「征士郎のことはよく分かってるからです。自分の思いどおりになるまで、ずっとドアを叩くし、ずっと起こしてくる。だったら一回作ったほうが早いんです」


 カメラの向こうが静かになった。


 それ以上、質問は続かなかった。



4



 翌日は夫婦で番組用のビジュアルを撮影する日だった。


 ほかの三組が撮り終わっても、征士郎は現れない。


 冷たい風の中でかなり待たされてから、ようやく本人が来た。


「すみません。昨日ちょっと仕事してて、寝るのが遅くなりました」


 スタッフたちは、何があったか知っている。


 固定カメラには、私に夜食を作らせたあと、征士郎が庭で誰かと長電話をしている姿まで残っていた。


 私は先に頭を下げた。


「お待たせして、すみませんでした」


 メイクを直してもらっていると、後ろでスタッフが小声で呟いた。


「遅刻した本人はろくに謝らないんだ……」


 撮影スペースには、大きなアンティーク風の椅子が一脚置かれていた。


 カメラマンは、私が座り、征士郎が隣に立つ構図を考えていたらしい。


「関係に問題があっても、どこかで支え合っている夫婦というイメージで――」


 説明の途中で、征士郎が椅子を見た。


「俺が座ったほうがよくないですか?」


 カメラマンが戸惑う。


「御影さんは元々女優ですし、座っていただいたほうが画としては――」


「最近はろくな仕事もしてないですよ」


 征士郎は笑った。


「今は俺が会社を背負ってるんだし、俺が座るほうが自然でしょ。沙耶は横でいいよ。今までもずっとそうだったんだから」


 微妙な沈黙が流れた。


 私は何も言わず、指定された位置に立った。


 撮影後、廊下で征士郎に呼び止められた。


「美咲から聞いた。また台本断ったんだって?」


 小川美咲は征士郎直属の若いマネージャーだ。数年前、私が少しずつ仕事を再開してからは、私の窓口も担当するようになった。


 当時、神崎エンターテインメントの業績が落ちていた。


 知名度のある私がたまに出演すれば話題になる。


 そう言い出したのは征士郎だった。


 けれど、美咲が持ってくる仕事は、若手の引き立て役にされるようなバラエティーや、印象の悪い脇役ばかりだった。


 最近渡されたドラマでは、私より十歳ほどしか下ではない人気俳優の母親役だった。


 しかも、息子を束縛し続ける嫌われ役だ。


「合わないから断った」


 征士郎の顔が曇る。


「まともに芝居するの何年ぶりだよ。声がかかるだけありがたいと思えないの?」


「そんなにいい役なら、ほかの人に勧めれば?」


 征士郎を見る。


「叩かれるのは私で、仕事を回した美咲だけが評価される。ずいぶん都合がいいわね。ほかにも所属俳優はいるでしょう」


「沙耶!」


 征士郎が近づき、肩を強く押した。


 足元が崩れ、私は床に倒れた。


 スタッフが慌てて駆け寄ってくる。


 見上げた征士郎の顔には、隠す気もない苛立ちが浮かんでいた。


 十二年前、ステージの上で私に結婚してほしいと言った男と、同じ顔だった。


 個人インタビューで、ディレクターから聞かれたことがある。


「何がきっかけで、離婚を決意されたんですか?」


 答えは一つだった。


 母の死。



5



 二年前、母は事故で亡くなった。


 月代町へ戻って葬儀の手続きをしていた私は、何度も征士郎へ電話をかけた。


 一度だけ繋がった。


 出たのは美咲だった。


「神崎社長は今、電話に出られません。こちらの番号からかかってきた場合は、用件にかかわらずご自身で対応してほしいとのことです」


 柔らかい声だった。


「御影さんですよね?」


 そのあと、征士郎とは連絡が取れなかった。


 通夜も、葬儀も、火葬も、一人で済ませた。


 納骨の日程が決まるまで、母の遺骨はいったん汐宮の家へ持ち帰ることにした。


 その日、珍しく征士郎が家にいた。


 白い布に包んだ骨壺を抱えて玄関へ入ると、眉をひそめる。


「それ、何?」


 母が亡くなったと伝えた。


 しばらくして、私が持っているものに気づいたらしい。


「それ、家に置くの?」


 答えなかった。


「子どもたちも帰ってくるだろ。納骨するなら早めにしたら? ずっと家に置かれるの、俺はちょっと落ち着かない」


 そこで、張り詰めていたものが切れた。


 母が死んだことを知っていたのか。


 どうして何度電話しても出なかったのか。


 問い詰めても、征士郎の顔には苛立ちが増えていくだけだった。


「もう亡くなってるんだろ。今さら俺に怒鳴って何が変わるんだよ」


 感情的すぎる。


 話にならない。


 そんな言葉を残して、征士郎は家を出ていった。


 私は骨壺を抱いたまま玄関に座り込んだ。


 家事スタッフが通りかかり、「お茶、お持ちしましょうか」とだけ尋ねる。


 首を振ると、そのまま仕事へ戻っていった。


 あの日から、私はこの家を出る準備を始めた。


 番組でこの話をしたとき、しばらく言葉が出なかった。


「だから離婚したいんです」


 目元を拭う。


「誰かの妻じゃなくなったあとも、御影沙耶として生きられるのか、もう一度確かめたいんです」



6



 征士郎に突き飛ばされた場面は、そのままカメラに残った。


 気持ちを整えたあと、私は予定どおり収録へ戻った。


 番組タイトルは『さよなら、夫婦』でも、制作側が全員の離婚を望んでいるわけではない。後半には、互いのことをもう一度知るためのゲームがいくつも用意されていた。


 当然のように、私たちは最下位を取り続けた。


 最後の問題など、司会者がほとんど答えを合わせさせようとしているようなものだった。


「御影さんが出演した映画の中から、お二人とも印象に残っている作品を三本書いてください」


 私が書いたのは、自分にとって重要な三作品だった。


 それぞれが、別の大きな賞につながった映画だ。


 征士郎のボードには、まったく違うタイトルが並んでいた。


 二本は、私が仕事を再開したあと神崎エンターテインメントの出資作品に少しだけ出演したもの。


 残りの一本に至っては、私は出演すらしていなかった。


 司会者がボードを見比べ、困った顔をする。


「なんでそんな昔の作品書いてるの?」


 征士郎が私の答えを見た。


「書いちゃいけないの?」


「何年前の話だよ」


 うんざりしたように笑う。


「まさか、十二年前に取った賞を今でもそんなに大事にしてるの?」


 ボードの縁を握った。


「征士郎には大事じゃなくても、私には大事よ」


 声が少し掠れた。


「結婚しなかったら、そのあとにも、もっと作品はあったかもしれない」


 スタジオが静かになった。


 征士郎は何も言わなかった。


 ただ、馬鹿にするような目で私を見ていた。


 その表情も、きれいにカメラに残った。


 その日の収録後、美咲がやってきた。


 会社のことで征士郎に話があると言い、三人で控室へ入る。


 美咲の目は赤かった。


「御影さんがあのドラマを断ってから、制作側からずっと連絡が来てるんです。社長は収録中だし、全部こちらで対応するしかなくて……正直、もうどうしたらいいか」


「美咲のせいじゃない」


 征士郎の声が急に柔らかくなった。


 美咲は私を見る。


「もし私がお嫌いなら、担当から外れても構いません。でも、私のことが気に入らないからって、会社と制作側の関係まで悪くするのはやめていただけませんか」


「もういい、美咲」


 征士郎が肩に手を置く。


「沙耶は今、感情的になってるだけだから」


 二人を眺めているうち、話す気が失せた。


 私は立ち上がった。


 後ろで征士郎が名前を呼んだが、そのままドアへ向かう。


 閉める直前、壁際にある二台の固定カメラが目に入った。


 赤いランプは、まだ点いていた。


 ここは元々、番組用のサブインタビュー室だった。



7



 美咲が来た翌日、征士郎は会社で急な仕事が入ったと言って収録を抜けた。


 帰る車の助手席には、美咲がいた。


 発車する直前、窓越しにこちらを見る。


 私は庭で飼われている犬を撫でたまま、視線を返さなかった。


 征士郎がいなくなると、収録は驚くほど楽になった。


 ほかの夫婦の相談に乗る余裕まで出てきた。


 二週間の収録が終わっても、征士郎は戻ってこなかった。


 その間、二人で会社へ出入りする姿や、飲食店にいるところを芸能ニュースに何度か撮られていた。


 収録後、私は一人で汐宮の自宅へ戻った。


 理玖と莉央は海外のサマープログラムに参加中で、戻るまでまだ一か月以上ある。


 家の中には、人が住んでいる気配がほとんどなかった。


 自分のものだけを選んで荷造りしてみると、驚くほど少ない。


 その夜、十二年間暮らした家を出た。


 『さよなら、夫婦』の本配信が始まった日。


 弁護士を通して、署名済みの離婚届と財産整理に関する書類を征士郎へ送った。


 同じ日、私は番組の最終回直前スペシャルに生出演していた。


 そこへ征士郎から電話がかかってきた。


 司会者に促され、仕方なくスピーカーにする。


「ネットの騒ぎ、見た?」


 挨拶もなかった。


「声明出して。俺たちは普通にやってる、番組は仕事だって。あと、離婚届。あれもいい加減にしてくれ」


「冗談で送ったわけじゃない」


 電話の向こうで笑う。


「結婚前に交わした契約、忘れた? 本気で離婚するなら、俺個人の金は期待しないほうがいいよ」


 司会者の表情が固まった。


「神崎さん、今こちら、『さよなら、夫婦』の生放送中なんですが――」


 通話が切れた。


 スタジオが静まり返る。


 同時に配信コメントが一気に流れ始め、Xにも番組名と征士郎の名前が上がった。


 演出ではないかと疑う声もまだあった。


 けれど、多くの人が過去の映像を見返し始めた。


 〈カメラの前でこれなら、普段はもっとひどいんじゃない?〉


 〈一番怖いのは本人が自分を悪いと思ってなさそうなところ〉


 〈結婚前はトップ女優だったのに、今は何が好きかすら知られてないのか……〉


 私は何も書かなかった。


 翌日、弁護士に会った。



8



 数年前から再開した芸能活動は、神崎エンターテインメントが管理していた。


 夫婦だったこともあり、専属マネジメント契約はかなり曖昧な内容だった。会社は私の名前をスポンサー営業や企画に使う一方で、約束されていた仕事の選択権や報告はほとんど守られていない。


 契約書を確認した弁護士は、問題になりそうな点をいくつも見つけた。


 私は正式に契約解除を求めた。


 征士郎から反応はなかった。


 弁護士を通して話を進め、事務所を離れられる目処が立った頃になって、征士郎は汐宮の家へ戻ったらしい。


 けれど、その頃には私の荷物はすべてなくなっていた。


 引っ越した先は、セキュリティーのしっかりした普通のマンションだった。


 美咲が訪ねてきたのは、昔世話になった監督との打ち合わせから戻った直後だった。


 玄関先から室内を覗き、にこりと笑う。


「御影さん、社長と離れたのに、こういうところに住んでるんですね」


「何の用?」


「様子を見に来ただけです」


 室内へもう一度目をやる。


「そんなに離婚したいなら、調停でもすればいいじゃないですか。ここまで引っ張ってるってことは、やっぱり前の生活が惜しいんですか?」


 ドアを閉めようとした。


 美咲が突然、私の手首を掴む。


「待ってくださいよ。今日は助けてあげようと思って来たのに」


 階段のほうから足音がした。


 美咲の目が一瞬だけ動く。


 次の瞬間、強く腕を引かれた。


 玄関から外へ引き出されたところで、美咲が私の手を自分の肩へ押し当てる。


「美咲!」


 下から征士郎の声がした。


 美咲の体が階段を転げ落ちていく。


 征士郎はすぐ駆け寄り、彼女を抱き起こした。


「沙耶、何してるんだよ!」


 迷う様子すらない。


「離婚したいんだろ? 分かったよ、する。だけど美咲に何かあったら、今度こそ許さない」


 私は説明しなかった。


 廊下の防犯カメラを見上げ、それから玄関脇のインターホンへ目を向けた。


 録画ランプが点いていた。


 一か月後。


 私と征士郎は汐宮市役所へ行き、離婚届を提出した。


 建物を出ても、征士郎の態度は変わらない。


「十二年も夫婦だったんだ。頼めば助けてやるよ」


 サングラス越しに見る。


「何を?」


「美咲を突き落としたって話。会社から声明を出せば、少しは落ち着かせられる」


「結構」


 そのまま別れた。


 その夜、マンションの監視映像が芸能ニュースサイトで公開された。


 美咲が私の部屋まで来たところから、自分で私の手を利用して階段へ倒れ込むまで、すべて映っていた。


 さらに番組側も、未公開だった控室の映像を公開した。


 泣きながら自分の苦労を訴える美咲。


 彼女だけを気遣う征士郎。


 そして、どうして私が役を断ったのか、一度も聞かない二人。


 Xでは、ある言葉が何度も引用されていた。


 〈もう説明すること自体、諦めてたんだろうな〉


 私は自分のアカウントに短い文章だけ載せた。


 応援してくださった皆さん、ありがとうございます。


 これからは、もう一度きちんと芝居をします。


 それだけだった。



9



 離婚後、私への注目は一気に高まった。


 昔一緒に仕事をした監督やプロデューサーからも連絡が来るようになり、ようやく自分で選びたいと思える脚本が机に並び始めた。


 復帰作に選んだのは、ベテラン監督が撮る女性主人公の映画だった。


 出演発表の日、SNSには歓迎する言葉が並んだ。


 十二年前に辞めていなければ、今頃もっと多くの賞を取っていたはずだ。


 そんな投稿もあった。


 メイクルームでそれを読み、しばらく笑った。


 知らないから言えるのだ。


 十二年前、あのとき芸能界から離れなければ、今ここで生きていられたかどうかさえ分からない。



10



 私は子役だった。


 幼い頃から、この世界では演技ができるだけでは足りないことを知っていた。


 十二歳を過ぎた頃から、「若い子を応援したい」というプロデューサーや出資者を紹介されるようになった。


 役を用意してくれる人もいれば、問題を揉み消してくれる人もいた。その代わりに何を求められているのかを理解するまで、そう長くはかからなかった。


 成人してから、海外の大手企業グループに強い影響力を持つ男と知り合った。


 かなり年上で、芸能界だけでなく、不動産や政財界にも太い人脈を持っていた。


 彼と関係を持っていた数年間、映画も広告も途切れなかった。


 若かった私は、自分に力があるからだと思いたがっていた。


 彼の妻が現れるまでは。


 待ち合わせ場所は、会員制の静かなレストランだった。


 ヴァレシアでも有力な一族の出身だと聞いていた。


 女は私を罵らなかった。


「この業界から消えてください。それと、夫には二度と会わないこと」


 紅茶を一口飲む。


「そうしていただけないなら、次も無事に日本へ帰れるとはお約束できません」


 私は二十四歳だった。


 その頃、征士郎は二年近く私を追いかけていた。


 私のためなら、大抵のことを受け入れる男だった。


 プロポーズの話を聞いたとき、私はすぐに承諾した。


 授賞式の指輪も、涙も、活動休止の発表も、メディアは愛の物語として書いた。


 私にとっても、これ以上ない逃げ道だった。


 征士郎との結婚は、あの男との関係を終わらせるには都合のいい口実になった。


 五年前、あの妻が病気で亡くなった。


 知らせを受けた日、私は一人で長いあいだリビングに座っていた。


 もう、誰かに見つからないよう生きる必要はなかった。



11



 復帰後、最初に大きく評価された映画で、私は久しぶりに演技賞を取った。


 出演依頼も広告も増え、仕事は順調だった。


 授賞式が続いたシーズンの終わり。


 ホテルの部屋へ戻ると、ドアの下から一通の封筒が差し込まれていた。


 中には写真が一枚だけ入っている。


 地下駐車場で、私と征士郎が会っている写真だった。


 一時間後。


 帽子とサングラスで顔を隠し、汐宮郊外のカフェへ向かった。


 待っていたのは、フリーの記者、片桐修也だった。


 週刊誌や芸能ニュースサイトに調査記事を売っている男だ。


「本当に来てくれたんですね、御影さん」


 笑いながら席につく。


「少なくとも、全部外れってわけじゃなさそうだ」


「元夫と会った写真が一枚あるだけでしょう」


 椅子へ深く座る。


「それで何が分かるの?」


「何も分からないなら、来ないと思ってました」


 片桐はファイルを開いた。


「じゃあ、四年前から」


 ページを一枚めくる。


「この頃、ヴァレシア公国のルゼールに何度も行ってますね」


 私は黙った。


「カジノで有名な街です。帰国後、神崎エンターテインメントの作品に何本か出てる。評判はあまりよくないのに、ギャラだけ妙に高い」


「だから?」


「渡航記録と、いくつかの金の動きは押さえています。結構な額ですよ」


「成人した女優がカジノへ行くのは違法?」


 片桐が笑った。


「まさか」


 次の資料を取り出す。


「気になったのは、むしろ去年のほうです。神崎エンターテインメントの資金繰りが悪化した頃、神崎征士郎は個人資産をかなり整理してる」


 コピーを何枚かこちらへ滑らせた。


「海外の不動産と信託資料です。提供者については言えませんが、受益者欄にあなたの名前がある」


 ざっと目を通した。


「元夫婦よ。仲がよかった頃に財産を残していても、別におかしくないでしょう」


「ええ。それだけなら」


 片桐は最後に二枚の写真を取り出した。


「子どものことを調べるまでは、俺もそう思ってました」


 理玖は十一歳。


 莉央は十歳。


 二人が生まれた前後、私は公の場からほぼ姿を消していた。


 世間では、結婚と出産、育児のためだと思われていた。


「この二年間、あなたと神崎さんは何度もアルディナ共和国へ行ってる」


 写真に写っているのは、ある医療施設が入った建物だった。


「ここ、生殖医療を扱ってるんですよ」


 私は何も言わない。


「病院のカルテなんか持ってませんよ。そんなものは要らない」


 片桐は指で写真を叩く。


「渡航歴、滞在先、出入りしてる写真。現地で話を聞いた人間もいます。子どもの出生時期と合わせれば、調べる理由としては十分だ」


 口元から笑みが消えた。


「まだ材料はあります」


「それで?」


「今、世間にとって神崎征士郎は、十二年間妻を抑えつけていたモラハラ夫だ」


 片桐は私を見る。


「あなたはそこから逃げて、女優として人生を取り戻した人」


 ゆっくりファイルを閉じた。


「でも離婚後も二人が会っていたと分かったら? カジノの借金、海外資産、子どもの件まで並べたら、『さよなら、夫婦』を見た人はどう思うでしょうね」


 私はサングラスを外した。


「いくら欲しいの?」



12



 征士郎に電話したとき、私はすでにホテルの部屋にいた。


 彼はドアを閉めるなり、後ろから腰へ腕を回した。


「香水変えた?」


 腕を外す。


「今はやめて」


 それだけで、すぐ静かになった。


 ソファに座り、煙草に火をつける。


「調べられた」


 征士郎の表情が変わった。


「どこまで?」


「カジノ。子ども。海外の資産」


 一度煙を吐く。


「離婚してからも会ってることまで」


 征士郎は立ったまま、何も言わなかった。


 片桐が話した内容のほとんどは事実だった。


 四年前、私はルゼールのカジノでかなりの借金を作った。


 征士郎は知っても責めなかった。代わりに、出演料だけは高い仕事をいくつも用意した。


 作品の出来が悪すぎて、昔からのファンでさえ私が出演していたことを知らないようなものばかりだったが、借金を埋めるには十分だった。


 理玖と莉央も、私が妊娠して産んだ子ではない。


 私は妊娠も出産もしたくなかった。


 征士郎は何も言わず、私と一緒にアルディナへ行った。現地の生殖医療と代理出産のプログラムを利用し、その後の手続きも彼と専門家が進めた。


 神崎エンターテインメントの経営が傾く前には、自分の資産のうち動かせるものを、私が管理できる海外資産へ移していた。


 理由を聞いたとき、征士郎はそれだけ言った。


「会社は会社だろ。沙耶の生活まで巻き込む必要ない」


 母との話にも、カメラに映らなかった部分がある。


 私と母は、昔から仲が悪かった。


 顔を合わせれば喧嘩になり、電話がかかってくる理由の大半は金だった。


 母が死んだとき、一人で葬儀をしたのも、遺骨を家へ持ち帰ったのも本当だ。征士郎があの言葉を口にしたことも、私たちが激しく喧嘩したことも嘘ではない。


 ただ、母が私の幼い頃のことや、表に出したくない過去を持ち出して、何度も金を要求していた事実を、私は番組で話さなかった。


 征士郎が母を嫌っていた理由も。


 カメラの前で流した涙は本物だった。


 私は、見せる部分を選んだだけだ。


 美咲も同じだった。


 彼女の言動を見ていれば、征士郎のそばで私の後釜になりたがっているようにしか見えなかった。


 だから『さよなら、夫婦』へ出演すると決めたとき、わざわざ遠ざける必要はなかった。


 むしろ都合がよかった。


 征士郎は美咲を私の担当にした。


 ろくでもない仕事を持ってきても止めなかった。


 夜中に焼きそばを作らせる場面も、撮影で椅子を奪う場面も、カメラの前で私を傷つける言葉も、先に二人で考えていた。


 スタッフの前で私を突き飛ばしたときも同じだ。


 征士郎は力を抑えていた。


 私は後ろにスタッフがいることも、どう倒れれば怪我をしないかも分かっていた。


 母の遺骨をめぐる喧嘩だけは、演技ではない。


 あれは本当に起きたことだった。


 三十六歳で「本格復帰します」と言ったところで、十二年前と同じ場所へ戻れるわけじゃない。


 実際、私のところへ来ていたのは母親役や上司役、若い主演を支える脇役ばかりだった。


 私が欲しかったのは、仕事の数じゃない。


 もう一度、御影沙耶そのものを見てもらうことだった。


 二十四歳の御影沙耶を思い出してもらい、今の私を見続けてもらう。


 そのためには、理由が要る。


 十二年を結婚に奪われ、モラハラ夫から逃げてきた元人気女優。


 それなら、人は続きを見たがる。


 離婚そのものが、私の復帰作だった。


 征士郎が目の前まで来て、ゆっくりしゃがみ込んだ。


「かなり気をつけてた。番組が終わってから会う回数も減らしたし、海外のことも全部分けて処理してた。片桐にいつから見られてたのか、本当に分からない」


 責める気はなかった。


 吸っていた煙草を差し出す。


 征士郎はいつものように手を出した。


 私は灰皿へ落とさず、そのまま彼の掌へ火を押しつけた。


 指先がわずかに動く。


 それでも手は引かなかった。


 顎を持ち上げ、唇へ軽くキスをする。


「もう、そこはどうでもいい」


 頬を撫でる。


「問題は、片桐が証拠を持ってること。ここまでやったのに全部出されたら、今までの芝居が無駄になる」


 征士郎が目を伏せた。


「ねえ」


 声を落とす。


「助けてくれる?」


 しばらくして、彼は私の膝へ頬を寄せた。


「もちろん」


 カメラの前で見せていた男とは、まるで別人の声だった。


「沙耶の役に立てるなら、何でもするよ」



13



 私はそのまま仕事を続けた。


 片桐と会ったことなど、最初からなかったように振る舞った。


 数週間後、フリー記者の片桐修也が、自宅マンションで死亡しているのが見つかった。


 室内は荒らされ、パソコンや記録媒体、カメラのデータもほとんど残っていなかった。


 捜査の過程で、神崎征士郎の名前が浮上した。


 ニュースが出た日、私は撮影所にいた。


 警察から事情を聞かれ、何度も同じ名前を口にした。


「征士郎が?」


 自分でも分かるほど声が震えた。


「口は悪いし、人をコントロールしたがるところもあります。でも……殺人なんて、そんなことする人じゃ……」


 担当の女性警察官は、少し同情したような顔をしていた。


 全国に夫婦関係を晒した末に離婚し、その直後に元夫が殺人事件へ関わった。


 傍から見れば、私は十分すぎるほど不運な女だった。


 離婚後も征士郎とは何度か会ったと話した。


 子どもや財産関係の手続きのためだった、と。


 片桐と会ったことも隠さなかった。


「取材を申し込まれました。でも断りました」


 それ以上は話さなかった。


 片桐が殺された時間、私は地方で撮影をしていた。


 スタッフも記録も揃っている。


 その日の事情聴取は、それで終わった。


 征士郎は行方不明になった。


 連日、ワイドショーが事件を取り上げた。


 半月ほど経った頃、ヴァレシア沿岸の人里離れた崖の下で、腐敗の進んだ男性の遺体が見つかった。


 警察は身元を照合し、神崎征士郎と判断したと発表した。


 『さよなら、夫婦』で何か月も批判され続けた男には、最後にもう一つ肩書きが加わった。


 殺人事件を起こし、自ら命を絶った元夫。


 理玖と莉央は私のもとへ戻った。


 仕事が増え、日常のすべてを自分だけで見るのは難しくなったため、紹介会社を通して住み込みのハウススタッフを一人雇った。


 口数の少ない男だったが、妙に私の好みをよく知っていた。コーヒーには牛乳をほんの少しだけ入れ、夜に脚本を読む日は、何も言わなくても部屋を暖めておく。煙草を吸っても注意せず、灰皿だけを静かに交換した。


 ある夜、リビングで次の映画の脚本を読んでいると、男がお茶を持ってきた。


「今日はほうじ茶にしました。よろしいですか」


「うん」


 テーブルの横にしゃがみ、カップを置く。


 その拍子にシャツの袖が少し上がった。


 手首の内側に、小さな黒いほくろが見えた。


 ページをめくる指が、一瞬止まる。


 十二年間、何度も見た場所だった。


 男は何事もなかったように袖口を直した。


「ちょうど飲み頃かと思います」


 私はカップを持ち上げた。


 顔は見ない。


「うん。ちょうどいい」


 窓の外には、いつもと変わらない汐宮の夜景が広がっている。


 私はそのまま、脚本の次のページをめくった。





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