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前編

 心を打ち砕かれる。



 こういう瞬間のことを言うのかもしれないと思ったのは、15の夏だった。


 その日はからりと晴れた気持ちの良い天気だった。

 夕暮れ時が近づき、開けはなっていた窓の代わりに網戸を閉めたときだった。

 遠くに見慣れた影が見えた。


 しずくだ。


 一つ下のわたしの弟。

 いつのまにかわたしよりも背が高くなって、ひょろりとしているけれど、時々わたしに見せる笑顔はあどけない。

 わたしは他のみんなから、少しのんびりしているねと言われるくらい、おしゃれとか興味ない。

 同じようにしずくも勝手にずっと幼いのだと勘違いしていた。

 時々、しずくはみんなに優しいから女の子に人気あると聞いていたけれど、わたしの弟がそんなに人気があるわけはないと思っていた。

 だけど・・・わたしの視界がとらえたもう一つの影に、わたしの息が止まりそうになった。

 家から100mと離れていないところで、しずくの影が立ち止まり、もう一つの影。スカートを穿いているそれの影にゆっくりと重なった。

 その瞬間わかってしまった。

 大事に思っていたしずくがわたし以外の人と口吻キスしている。

 わたしはなんだか胸の奥がズキと痛んで、思わずカーテンを締めた。

 幼稚園からずっと一緒にいた。

 青い幼稚園の胴衣の上からおそろいの黄色い鞄を斜めに掛けて、手をつないで行く。

 ちょっと生意気なところもあるけど・・・なんだろうこの気持ちは。

 いつかは手放さなければならないとわかっていた。

 立っていられなくてしゃがみ込んだ。


「だめだなぁ。わたし」


 つぶやきは誰に向けるものでもない。

 目をつむってじっとしていると、さきほどの光景がよみがえる。

 まぶたの奥が熱い。

 やだ。


「ただいまー」


 やがて、先ほどの光景以外はいつもと何の変わりもない声が階下から聞こえてきた。

「おかえり」とそれに応えるのが自分の役目だと思っていた。

 ずっとわたしが家にいる限りは。

 今日はだめなの。

 しずくがわたしが家にいることに気づかなければいい。

 だけど、しずくはわたしが家にいることを簡単に気がついた。二階に上がってきてドアをノックする。「どうしたの。みどり」

 返事できないのに。

 わたしはいつのまにか浮かんでいた嗚咽を堪えるのに精一杯だった。

「具合悪いの?」

 心配そうな声。

 違うの。

 理由なんてない。

「入るよ」

「だっ・・・めぇ」

 ぶんぶんと首を横に振るわたしの前でドアは簡単に空いてしまった。しずくの侵入を許してしまった。

 部屋に入ってきて、わたしの様子にすぐ気がついたしずくは顔をゆがめた。

「なんで泣いてるの」

「なんでも・・・ない」

 ごしごしと手の甲でまなじりをこする。

「目にほこりはいっちゃっただけで」

「止めろよ。そんなに擦ったら跡になる」

 やんわりとした声がすぐ上から振ってきて、わたしの手首がしずくにとらえられた。

 いつまでも白くてやわやわしたわたしと違って、その手は堅くて・・・男の人のようだった。

 最近、しずくに触れたことなくて・・・そんなことにも気づいていなかった。

 見上げたらしずくが心配そうにわたしを見下ろしていた。

 その顔は、いつものしずく。

 少し彫りが深くてすっと伸びた鼻筋がきれい。

 そのきりりとした黒い目にしゃがみ込んだわたしの姿が映し出されていた。


 わたしがしずくの一番なんて誰が決めたの。


 冷たい声がわたしの胸の内で響く。

 しずくがいつのまにか男の人のようになっていたことも知らなかったくせに。

 触れられたところが熱い。何でだろう。まるで心臓みたいにドキドキしている。

「放して」

 少し腕を引っ張るくらいではビクともしなかった。

「泣いてた理由を教えてくれたら放すよ」

「だから」

「どうしてカーテン閉めてるの?」

「窓を閉めてて・・・」

 二人のキスする影を見て・・・動揺して閉めたなんて言えない。

「まっ・・・まぶしかったから」

 苦しいいいわけだっただろうか。

 ちらりと見上げると、全くわたしのいいわけを信じていない顔。

「ふぅん。夕日は落ちてたと思うけど」

「お姉ちゃんを疑うの?」

 これはいつもの決まり文句。

 姉の権力で、弟を黙らせる。

 ちょっとくらいの矛盾を感じても、しずくはわたしに従ってくれていた。

 お弁当の卵焼きが大好きで、しずくが他所を向いている隙に一つ食べたときも。

 お母さんをまねしてプリンを作ったとき、砂糖と塩を入れ間違ってしまったときも。

 同じように通用していた。だけど。

「見たんだ」

 あっさりと返された。

 なっ・・・なんで、これが通用しないの。

「なっ・・・何にも。みっ・・・見てないよ。きっ、キスしてたとか・・・」

「キス?」

 いぶかしげに首を傾げるしずく。

 やがて合点がいった顔で嬉しそうににっこり笑った。

「なんだ。そういうことか」

「してたんじゃないの?」

「うん。してた」

 何だろう。この反応は。

 なんだか、すごくやばい感じがする。

「ほら、言ったから・・・手。手放して」

 この心臓のドキドキがしずくに聞こえると、もっとやばい感じになる気がした。

「放すよ」

 そう言ったのに、しずくは手を放さなかった。

 代わりにしずくの影がわたしの上に降りてくる。

 ああ、やっぱり鼻筋通ってるよね、とか・・・そんなこと考えてる場合じゃなくて。

 やがて、かすかに開いたわたしの唇にそっと触れた・・・って・・・今の柔らかいもの。

 しずくはすぐに手を放して、すぐにわたしから離れた。

「いっ・・・今のは」

 しずくは、笑いながらシーと唇の上に人差し指を一本立てた。

「口止め」

「ひっ、ひどい・・・ファーストキスが」

 ふふ、としずくは笑って。「またね」

 そう言い残して、部屋を出て行った。


 後には、姉の権威を失墜させたわたしが一人。


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