第六話 現に溶ける声 夢か、現か
朝の光が窓のカーテンの隙間から差し込み、布団の上に柔らかな格子を落とす頃、目が覚めた。
まぶたをゆっくり開けると、天井の木目がいつもより近くに見えた。まだ半分眠っている頭の奥で、昨夜の皆の笑い声とろうそくの炎の残像がゆらりと揺れる。
(本当に……あれは夢じゃなかったんだな)
小さな胸がきゅっとなる。昨夜、みんなに祝ってもらったこと。父さんが差し出した革の手帳。どれも現実で、けれど――どこか向こうに見えた別の世界の残像が、まだ肌に張り付いて離れない。冷たいアスファルトの感触、街灯の光、TSUTAYAの背表紙。思い出すと胸が痛くなる。
「おはよう、アル」
廊下の向こうから、父さんの低い声。
俺は枕に手をついて起き上がる。見た目は三歳くらいに見えるけど、実年齢は……15才だけど、もうここにきて三年経った。なら、18才?……成人じゃん!
とまぁ、体は小さいけれど、心の中はごちゃごちゃしている。
台所に降りると、母さんがパンを焼き、父さんは昨日の剣の手入れの続きをしていた。父さんの大きな背中に安心を覚えつつも、胸の奥にはまだ小さな違和感がくすぶる。
「おはよ、よく寝れたか?」父さんが笑いながら鍋をかき混ぜる。
「うん」声は小さく、でも嘘はつかなかった。
朝食を食べ終わったあと、父さんがふと立ち上がり、剣を布で包む動作をやめた。外には柔らかな昼前の風が吹き始めている。
「アル、散歩行かないか?」父さんがふいに言った。普段なら母さんとひっついているところだが、今日は気分転換にも外を歩こうと思った。
「うん」俺は素直にうなずく。父さんの手を取ると、その手は大きくて温かく、しっかりと俺の小さな手を包んだ。
村は静かに日常を回している。煙突からは煙が上がり、子供たちの声が遠くで跳ねる。
「今日は天気が良いな」
父さんはゆっくりと歩きながら、ぽつりとつぶやいた。
「昔からな、この村では“風”をよく話題にするんだ。変わるとき、何かが動くとき、必ず風が先に騒ぐってな。不自然な風。それを年寄りは’風の道’と呼んでた」
「風の道…?」俺は首をかしげる。まだ言葉はたどたどしいけれど、父さんの表情を見ていると、その言葉ひとつが妙に重く響いた。
父さんは俺の目を覗き込み、にっと笑った。けれどそこに冗談めいた軽さはなくて、真面目な暖かさがあった。
「ただの風じゃない。街も、人の心も、世界の形も――何かが変わるとき、風は知らせに来る。昔の奴らは、そうやって変化を読み取ってきたんだよ」
言葉に芯がある。俺は静かにそれを受け止める。父さんの声はいつだって真っ直ぐで、説明じゃなくて“伝えたい何か”が混じっている。
「つまり、風が吹いたら、何か変わるってこと?」俺の声は小さかったけど、疑問は素直だった。
「そうだ」と父さんは頷く。「いいことかもしれないし、困ることかもしれない。だが、風が来たら、お前はそれに気づけるようにしておけ。風に踊らされるな、風と一緒に歩け。そういうことだ」
俺はその言葉を胸にしまい込もうとして、ふと頭の奥で薄い映像が浮かんだ。夜の交差点。コンビニのネオン。車のライトが白く引いた線。そこで、俺は立っていた。これは、昨夜の夢だった――だけど妙に鮮やかで、生臭いアスファルトの匂いまで思い出せそうだった。
(あのときも…..風吹いてたかもな、世界が違うけど)
視界の端で、木の葉がざわりと揺れた。父さんも同じ方向を見て、目を細める。
父さんが先を歩き、俺はその後ろを追った。道は村を出て、小さな川へと続いていく。水音が近づくと、風がまた一度、冷たく頬を撫でた。そこに座る影が見えた。
石に腰掛けているのは、見知らぬ男の子だった。黒い髪、灰色の上着。年は俺より少しだけ上に見える。目が合うと、その子はにっと笑った。
「君、名前は?」俺はつい聞いてしまった。まだ言葉は得意じゃないけど、それでも素直に出た。
「僕? うーん……たぶん、君の“記憶”みたいなものかな」
え、と俺が固まると、その子はふわりと肩をすくめて、ずっと先の方を眺めた。
風がさっきより強くなり、水面に小さな輪が広がる。木々がざわめき、世界の輪郭がほんの少しだけ揺れた気がした。視界の片隅に、俺の前世の風景がもう一度チラリと現れる。光、匂い、足音。胸の奥がきゅっと締め付けられた。
「ねえ、ちゃんと聞いて」その子が急に真面目な顔になる。声は低くないけれど、なぜか落ち着いていた。
「僕はね、昔の君の一部だ。名前は……拝 貴志。君が前に生きてたときの名前だよ」
その名を聞いた瞬間、胸の内で何かがはじけた。記憶の断片がぱちぱちと弾けるように繋がっていく。
俺は小さく息を飲む。前世の名前――その響きが、体のどこかにぴたりと合った。
「でも、僕は消えるよ」その子は静かに笑う。「君が、君として生きるって決めたなら、僕はもう必要ないんだ」
「ま、待って」思わず言葉が飛び出したけれど、その子は更に言葉を続けた。
「怖がらなくていい。僕は残るんじゃなくて、譲るんだ。君の中にある“前”は、これから君の力になる。風が教えてくれたんだよ。もう大丈夫って」
風がまた吹いた。強く、はっきりと。葉のざわめきとともに、男の子の輪郭が薄れていく。最後に彼は、にっと笑って言った。
「じゃあね、アルタイル。向こうで見守ってるよ。君なら、きっと上手くやれる」
言葉が風に溶けるように消え、川辺には水の音と木のざわめきだけが残った。俺はぽかんと座り込んだまま、しばらく動けなかった。胸にぽっかり穴が開いたような、でもどこかすっきりした気分も混じる。
「どうした?」父さんが問いかけるように言う。
父さんには見えていないんだな。
「なんでもない」と俺は首を振った。
言葉にすると、全部壊してしまいそうだったから。
その瞬間、頭の奥で前世の記憶が断片的に押し寄せた。
明かり、看板、見慣れたはずの路地。俺がふいに呼ばれた名前。胸の奥がざわつき、視界が一度ゆらいだ。立っている地面の感覚が少し変わる。まるで二つの世界がごく僅かに重なったみたいだった。
「大丈夫か?」父さんが優しく尋ねる。
俺は深呼吸をして、うなずいた。
「うん、もう大丈夫」
だからもう過去の俺は片隅に置いておこう。
風がまた吹いた。今度はもっとはっきりと、窓を揺らすようにーー変化を告げる風。俺はその音を、身体の芯で受け止めた。恐れよりも、なぜか心が弾むような感覚が先に来る。
歩を進めると、「アル、風を感じるか?」父さんの声が、もう一度耳元に届く。
「うん」俺は答える。言葉は短いけれど、確かに受け取った。
父さんは俺の肩をぎゅっと掴み、真剣な目で言った。
「お前はな、何かを持ってる。まだ形は曖昧だが、風を呼ぶような力だ。恐れることはないが、軽くも扱うな。風は優しいが、時に冷たい。お前がどう立つかで、風の意味は変わる」
父さんはゆっくり笑って、背中を軽く叩いた。
「さあ、帰ろう。母さんが心配する」
下を向いて歩いていたせいか何も感じなかったが、案外と結構な時間が経っていたらしい。
太陽を見ればよく分かった。さっきよりも明らかに眩しく、太陽は上へと昇っていた。
父さんと俺は小さく笑いながら家路についた。風は後ろからそっと追いかけてきて、木々の間を揺らし、俺たちの影を踊らせる。
歩きながら、俺は思った。
ーー風が来たなら、受けて立とう。逃げないで、風と一緒に進んでみよう、と。
そういえばさっきだって風吹いたな。
あの迷信…..いや父さんを信じるなら、あの時俺には変化が起きた。いやこれから起きるのかもしれない。
分からない。分からないけど、今の俺なら立ち向かえる気がする。
その夜、布団に入る前に日記を書いた、父さんからもらった手帳だ。
なんて書いたかというと、
前世の俺についての事。
それと、未来への俺の手紙だ。
詳しくは秘密だ…..心の中で思うだけでも恥ずかしい
だからいつかこれを振り返った時にでも見ようとしよう。恥ずかしいからね。
それまでは、そう心の中にしまっておこう。
眠りに落ちる直前、俺は小さく、自分に約束した。
(今を生きよう)と。
夢の中で吹いたのは、暗い風ではなく、光の中を吹き抜ける暖かな風だった。目覚めたとき、胸には不思議な落ち着きが残っていた。
どうも葛西です!
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第七話は、
「ここにいる自分とは何か」をテーマに書かせていただきました。
話は全然変わりますが、アルの記憶の一人、拝 貴志が出てきた時。強く風が吹きましたよね。何かが変わったってことです。
もしあの時記憶のもう一人、拝 貴志が出てこなかったらどうなってたんでしょうね。
もしかしたら……
そこはご想像にお任せします。
またまた話が変わりますが、あとちょっとで第一章が終わりますね!
まだまだ先ですがいつか、大作だった。って思えるような作品にしていきたいです。




