第十七話 第ゼロの影
光が地を穿ち、空間が砕けた。
神聖派の主戦部隊による術式の嵐が、呪王クロノスの身体を何層にも貫いたはずだった。
「……やったか?」
ルミナスの剣がゆっくりと下ろされる。
術式の残滓が風に溶け、焦げた空気だけが漂う――だが。
「……逃げられたか」
声の主は、背後から風に乗って現れた神聖派の副長・ガラハッド。
彼は灰の中に残された黒い羽片を拾い、眉をひそめた。
「空間跳躍の術……他の影装者が、どこかで援護していたな」
アルはまだ剣を握っていたが、その手は震えていた。
クロノスと目を合わせたあの瞬間が、頭から離れない。
(あの目……殺気だけじゃなかった。でも何か、感じ取っていた)
神聖派の兵たちが周囲を固め、エレナがアルの前に立つ。
「下がって。……もう、大丈夫」
彼女の声は優しいが、その瞳にはまだ冷たさが残っていた。
そしてアルは気づく。――誰も、クロノスを「捕らえよう」としなかった。
「……わざと、逃したのか?」
アルは、言いようのない違和感を覚えていた。
術の陣形、部隊の配置――あれは、本当に“捕らえるため”の布陣だったか?
「……あれだけ準備して、仕留め損なうはずがないだろ」
「どういうことだよ……!? なんで……!」
「神聖派の上層部……“記録監理局”の一部は、影を“泳がせておくべき存在”として扱ってる。危険で、手に負えないからもあるが――一番は利用できるからだよ」そうルミナスは答えた。
「利用……?」
「“恐怖”って、統治する側にとっては最高の道具だ。影という脅威が存在していれば、民は依存する。神聖派という“守る側”にね」
アルはその場に立ち尽くした。
クロノスの逃走は、偶然ではなく、予定されていたものだった。
自分たちは、ただそれに巻き込まれただけなのか……?
ルミナスがゆっくりと振り向いた。
「お前は、ただの学生のはずだったな」
「え?」
「だが、記録にあった。“第ゼロの影”──アルタイル。その名が、本に記されていたと……間違いないな?」
声のトーンが変わる。
周囲の空気が、じわじわと冷えていくようだった。
「それは……」
「ならば、お前の存在は、世界の均衡を崩す可能性がある。保護、ではない。“管理”の対象となる」
「冗談だろ……!? 俺はまだ、何もわからないだけで――!」
「それが一番危険なんだよ」
淡々と放たれる言葉に、アルは背筋を凍らせた。
それは、戦場で“助けてくれた者”の態度ではなかった。
「……わからない。でも、俺は――影じゃない。ただの人間だ!」
「ならば、人間である証を示せ。……呪いに染まるな」
「神聖派は呪いを“神の恩寵”として崇めてるんだろ? それなのに、なんで俺の呪いだけ“危険”なんだよ……!」
ルミナスの表情がわずかに揺れる。
その瞳には、信仰ではなく、明確な恐怖が宿っていた。
「お前の呪いは、“形がない”。だからこそ危険なんだ。
通常、呪いには“痕跡”がある。言葉に、精神に……だが君のは、測ることも、感じることも、できない」
「……それって、ただの思い込みじゃ――」
「違う。感覚だ。分かるやつには分かる。呪いが“あるかどうかさえ分からない”とき、人は最も深く怯える。
だからこそ、お前は管理されなければならない。君の存在は、神聖派にとって“可能性そのもの”でもある」
そのとき、エレナが前に出た。
「彼に、拘束するような理由はありません。危険因子として分類するなら、今ここにいる神聖派の人も該当する人がいるでしょう」
そうだ。呪いなんて実際持っているのか分からない。でも俺は感じた。あの時クロノスがとても悍ましく感じた。だから分かる。そういう事なのかもなって。
「……エレナ。君も影に染まるというのか」
「染まる、ではなく。見ようとしているだけです。あなたたちが見ようとしない“真実”を」
ルミナスが目を細めた。そのまま何も言わず、背を向けた。
「今は保留とする。ただし、アルタイル。君の一挙手一投足はすべて記録される。忘れるな」
その場に重い沈黙が落ちる。
やがて、術士たちは去っていった。残されたのは、アルとエレナ、そして焦げた地面。
「……守られたわけじゃないんだな、俺たち」
「……ええ。でも、それでも私はあなたを信じるよ」
アルは空を仰いだ。
戦火の残滓が、まだ空気の中に漂っている。
:神聖派 本拠地・禁書庫地下
「逃げられたか…」
暗がりの中で、神聖派の老魔導師が一人、呟いた。
「“影は逃げた”と記録せよ。真実は不要だ」
脇にある水晶球には、クロノスが空間跳躍する瞬間が映っていた。
「第ゼロの影、アルタイル。やはりあの少年……鍵だな。希望か、災厄か」
傍にひざまずく者が一人。その瞳にはうっすらと“呪い”の痕が刻まれていた。
「命じてください。次は、影を喰らいます」
「まだ早い。彼の“意志”を見極めるまでは、触れるな」
あれが希望になのかは世界において重要な事だ。
もし厄災なら倒せばいい、僅かな希望を信じてあげるのもそれまた一興。
水晶球の奥で、別の影が微かにうごめいた。
家の食事が終わった後の夜。
夢を見ていた。
黒い海の中、七つの影が浮かび上がり、その中心に俺自身がいた。
「影か……俺は、何者なんだ……?」
目覚めたとき、隣の机に一枚の紙が置かれていた。
──『会いたい。来てくれ。』
──『記録管理棟・南区、第二層にて ――虚無の王、レイラ』
アルは静かに立ち上がった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
今回、アルタイルが「第ゼロの影」として名指しされ、物語は静かに、けれど確実に不穏な方向へと動き始めました。
神聖派にとっての“呪い”とは、信仰か、力か、あるいは恐怖か。
一方で「七つの影」の存在は、単なる敵なのか、それとも忘れ去られた真実の一部なのか――。
何が正しくて、何が嘘なのか。
アルタイル自身すら、自分の「立ち位置」を見失いつつあります。
次回、ついに「影」の一人と接触し、物語は核心へと一歩踏み込んでいきます。
よろしければ、引き続きお付き合いください。
設定
神聖派はそれを「信仰」として神格化、一方で一部は「未知の力=恐怖」として弾圧。
•アルは“呪いの証拠が存在しない”ことによって「最も恐れられる存在」になりつつある。