第十四話 辛い時は頼ってもいいんじゃない?
雨が降った日の匂いが、なぜか頭の片隅に残っていた。
この世界では見たことのない“白い歩道”や“信号機”といった。でも、記憶の断片と一緒に、それはふいに浮かんでは消える。
それが夢なのか、昔のことなのか、アルにはもう確かめようがない。
でも、胸の奥でずっと疼いていた。
ほんとうは、あの日、誰かに――「たよりたかった」んじゃないかって。
登校何日目かの朝。
窓の外には青空が広がっていて、どこかしら、昨日とは違う匂いがした。風が変わったのだ。
アルは、朝食の席で静かにスープを飲んでいた。母の言葉を聞き流すふりをしながら、頭のなかでは昨日の教室のことを思い出していた。
(……“たより”、か)
ふと、昨日見つけたあの「ひみつのたより」のことが頭に浮かぶ。
この世界に本当のことってあるのかな、
小さな紙。
誰が書いたのかも、どうして置かれていたのかもわからない。アルの目には、あの紙だけが異様に光って見えた。
学校では、施設の見学も終わり、今日からは本格的な“授業”が始まった。
とはいえ、まだ子どもたちは学ぶというより、遊びや慣れを重視している。
文字の練習、道具の使い方、話すことと聞くこと。ゆっくりと、ゆっくりと。
アルの隣の席では、ノエルがこっそりと指を噛んでいた。
「ねえねぇ、きょうはなにをするのかな?」
「なんだろ」
「……たのしいのがいいね」
「そうだね」
ノエルは少しだけ、笑った。
その笑みは、いつもより少しだけ大人びて見えた。
アル、俺は考えていた。あの紙は何を言いたいのかと。
分からなかった。
でも心の中で、なにかが“ふれる”ような感覚がした。誰かが、過去の自分に触れたような、そんな痛み。
昼過ぎ。
教室の空気が緩み出した頃、突然ノエルが立ち上がり、先生に言った。
「せんせい。アルくん、なんか……さっきから変です」
エレナ先生がゆっくりと歩いてきて、アルをのぞき込む。
「アル? 大丈夫? どこか痛いの?」
彼女の目は、やさしかった。けれど、どこか冷たさがにじんでいた。
アルは、わからなかった。ほんとうに心配しているのか、それとも別の何かを探っているのか。
「……だいじょうぶです」
そう言ったとき、自分の声が誰か他人のように聞こえた。
でも本当に”変な顔”をしてたんだろうな。
放課後。
家までの道を、今日はノエルと歩いて帰ることになった。
夕日が差す道の途中で、ノエルが言った。
「アルくんって、たよりたいときって、ある?」
「……あるよ」
「じゃあ、たよったらいいのに」
その言葉に、アルはふと足を止めた。
“たよりたい”――それは、たよりたくても、たよりれないそれが俺だ。
地球にいた頃、誰にも言えなかった痛み。
この世界で“家族”という形で自分を包んでくれた人たちに、なぜかまだ全部を預けきれないまま。
「……ノエルは?」
「ぼくも、たよりたいよ。ときどき。でも……やっぱり、こわい」
アルは、ノエルの横顔を見た。
不思議と、その気持ちは、まっすぐ伝わってきた。
そして別々の道になる。またねってやつだ。
「じゃあね、アル。明日もいっしょにあそぼうね!」
ノエルが手を振る。
アルは言葉を返せなかったけれど、首をこくんと動かして応えた。
その動きがちゃんと伝わったのか、ノエルは笑顔のまま駆けていく。ランドセルの紐がひょいひょい揺れた。
通学路にはまだ、柔らかい陽が残っていた。
夕焼けには遠く、けれど確かに一日が傾きかけている。足元を追いかける自分の影を見ながら、アルは家へと歩いた。
***
「おかえり、アル。今日も元気だった?」
玄関に響いたのは、母のいつもの声。
上靴を脱ぎかけたアルは、一瞬、返事に迷った。でも、思いきって小さく声を出す。
「……うん、ただいま」
「ふふ、おつかれ」
母はエプロン姿のまま笑い、台所から顔をのぞかせた。
たったそれだけなのに、背中にのしかかっていたものが少し軽くなる。
靴を並べて廊下を歩く。
夕飯の香りが鼻をくすぐる。なんだか、懐かしいような匂いだった。
***
そのころ、学校の職員室では――
エレナ・サリエルが、静かな机にペンを置いていた。
書きかけの書類を伏せるように閉じて、誰もいない窓の外へ視線を向ける。
「……ほんとうに、ただの“こども”なら、どれだけよかったかしらね」
声は誰にも届かない。
けれど、彼女の目の奥には、言葉とは別の熱が灯っていた。
教室の黒板に残った落書き。誰かの悪戯か、それともーー
今日の出来事すべてーー
「あの子の気持ちが、もしも“呪い”と混ざっていたとしたら」
誰にも聞かれないつぶやき。
エレナは立ち上がると、ゆっくりと職員室をあとにした。
その夜。
部屋の灯りを暗くして、机の引き出しを開けると、小さく折られた紙が一枚、入っていた。
たよりたくなるときが、あってもいいんじゃないかな。
誰が入れたのかも、なぜ自分の引き出しに入っていたのかも、わからない。
けれどその文字は、自分の筆跡だった。
アルは、紙をじっと見つめたあと、それをそっと胸元にしまった。
まだすこし、こわい。
もう何度も読んだ言葉。今夜は、少しだけ違う重さで心に沈んだ。
たよりたい。寄りかかりたい。
けれど、できなかった。
――もしもあの頃、もし。
頭の奥がちくりと痛む。
地球での記憶が、白くにじんでぼやける。名前も場所も、人の顔さえも浮かばないのに。
たった一つだけ、胸の奥の感情だけが、確かにそこに残っている。
「ひとりで、がんばらなきゃ、って……おもってた」
声に出してみた。
自分の声が、思ったよりも幼くて、震えていた。
もし、あのとき誰かに話していたら――
それだけで、救われたかもしれない。
「……でも、もうちょっとだけ。たよりたくても、こわくないって、なりたい」
自分にそう言って、紙を封筒に戻した。
少しだけ、布団があたたかく感じた。
***
朝が来た。
「いってきます」
「いってらっしゃい、アル!」
玄関で母と手を振って、ドアを出る。
歩き出した通学路。
いつもより、ほんの少しだけ、足が軽かった。
そしてーー
角を曲がるところで、ノエルの後ろ姿を見つける。
いつもなら、そのままついていくだけだった。
でも今日は違う。
アルは息を吸い込んで、前へ一歩踏み出す。
「ノエル!」
小さく、でもはっきりと声が出た。
ノエルが振り返る。
「あっ、アル! おはよう!」
まぶしいくらいの笑顔。
アルは、ほんの少しだけ笑った。
「……おはよう」
***
その日、アルの“心”は、すこしだけ
“たよりたく”なった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました!
第十四話、どうだったでしょうか?
今回のお話でしたが、「ようやく何かが、静かに、でも確かに動き出した」……そんな雰囲気を目指して書いていました。
アルは、まだ子どもです。
でも、普通の子供よりずっと深く、過去のことを抱えてしまっている。
そんなもの、背負わない事もできたのに――でも彼は、背負ってしまった。
それでも今回、ほんの少しだけ「誰かに頼っていいかもしれない」と思えた。
その一歩が、きっと未来を変えていくと信じています。
ちなみに、あの引き出しにあった紙、あれは本当は何も書かれていません。あれは心の中にある。アル。たかしの気持ちです。もう少しだけ、物語に寄り添ってもらえたら嬉しいです。
次回、第十五話もすでに構想中です。
苦しくもやさしくも、物語は展開していきます。
それでは、また次のお話で。