第十一話 声にできないこと
朝は、昨日より少し静かに始まった。
窓の外はまだ青白く、鳥の声もどこか遠くに聞こえているだけ。家の中の空気は眠たくて、どこか夢の続きを引きずるようだった。
「……今日も、学校か」
布団の中で呟いてから、ゆっくりと体を起こす。地球で過ごした朝より、少しだけ温かい。ほんの少し、胸の奥が軋むような感覚を覚えながら、顔を洗い、朝食を済ませて着替えて準備する。
玄関先で母さんが手を振る。俺も手を振り返すけど、その笑顔をまっすぐに見られなかった。
何かが引っかかっている。言葉にできない、小さなもやのようなものが、ずっと胸の奥に残っていた。
***
三日目の教室は、相変わらず賑やかだった。
誰かが椅子を倒して泣いて、誰かが勝手に黒板に絵を描きはじめて、誰かが机の下にもぐって眠ろうとしていた。小さな叫び声と、笑い声と、咳き込む音と、何かがぶつかる音。ごちゃごちゃに混ざったその空気の中にいて、俺はただ座っていた。
「おはよー……あっ」
隣の席のノエルが、なぜか頭を下げながら近づいてくる。昨日は泣いていたせいか、まだ目が腫れていた。
「ぼく、きのう、わるいこと言った……わるい子になっちゃったかもしれない……」
「え? いや、そんなの全然……」
「ううん、でも、アルが『だいじょうぶ』って言ってくれたから、よかった……」
会話が続かない。ノエルはほっとした顔で席についたけれど、次の言葉を見つけられないまま、口をモゴモゴさせている。
俺も、何を言えばいいのか分からなかった。
「えっと、ノエル……今日、何するんだろうな?」
「えーと、うんと、なんだっけ、せんせいが……“しょうかい”って言ってた、気がする」
「しょうかい?」
「うん、がっこうの、へんなとこ、見せてくれるって!」
……たぶん、施設見学の延長みたいなことだろう。でも、ノエルの言い方が妙に子どもっぽくて、ちょっとだけ可笑しかった。
「へんなとこって……それ、先生に聞かれたら怒られるぞ」
「だいじょうぶ、エレナせんせいは、やさしいから……たぶん、ね」
たしかに。エレナ先生は、どんなに騒いでいても怒鳴ったりしない。子どもたちの混沌を、どうにか言葉でまとめようとしてくれる人だ。
「おっはよう、みんなー!」
その先生の声が教室に響いた。
少し掠れたその声に、教室の空気が少しだけ静かになる。
「今日は、学校の中を“ちゃんと”覚えてもらおうと思います! 昨日は走ったり転んだり大変だったからね」
「ころんだ! いたかったー!」
「先生のおなかにぶつかったー!」
「おなかやわらかかったー!」
わーっと子どもたちが笑い出す。俺も少しだけ笑ってしまった。まるでコントみたいな朝。
「はいはい、おなかの話はやめましょう。先生は繊細なんです」
そう言いながら、先生は黒板に丸い印を描いた。
「じゃあ、今日はこの“まる”から順番に、みんなで歩いて学校のいろんな部屋を見てみましょう。ちゃんとついてきてね!」
***
長い廊下。すこし滑る床。壁には、飾りの少ない絵画や小さな花瓶が並んでいる。
「ここは、音楽室です。でも、まだ小さい子たちは使わないかな。楽器はあるけど、今はお昼寝室と兼用です」
「おひるね? ここで? ピアノあるのに?」
「うん、でもまだ鳴らさないでね。静かに寝てるお友達もいるから」
ノエルが小声で「ふーん……」と言った。
次に見せられたのは、小さな図書室。といっても、ほんの一角にしか本棚はなく、並んでいるのは幼児向けの絵本ばかり。
――俺が読みたいような本は、まだない。
でも、ノエルや他の子たちは絵本の表紙を見てはしゃいでいた。
「これ、しってる!」
「ドラゴンがねー、にんじん食べるの!」
「えー! ドラゴン、にんじん嫌いでしょ!」
「しらなーい!」
無邪気すぎる。楽しそうすぎて、眩しい。
けれど、その眩しさに、自分が溶けこめないことが、妙にくやしい。
「……あー、なんでだろうな」
俺は、思わず呟いていた。
「え?」
ノエルが振り向く。
「なんでもない。ただ、ちょっと……」
「ちょっと?」
「なんか、ついていけてない気がしただけ」
「だいじょうぶ。ぼくも、よくわからないとき、あるもん」
そう言って、ノエルは俺の袖をちょっとだけ引いた。
「アルって、へんなこと言うけど、ちゃんと、いるよ。ここに」
何気ないその言葉が、胸に響いた。
***
見学が終わり、教室に戻ると、皆は疲れたのか机に伏せていた。
俺も席について、目を閉じる。
ざわざわした空気の中で、ひとつだけ、静かな気配を感じた。
――俺は、今、ここにいる。
どんなに夢みたいでも。
どんなに眩しくても、苦しくても。
子どもたちの笑い声。ノエルの手の感触。エレナ先生のやさしい声。
きっと、全部が現実で、俺はもう――
「一人じゃない」
そう思った。
ざわめき。かすかな叫び声。木のパズルの音。
教室の奥に座ったまま、アルは静かに目を伏せていた。
――つまらない。
ふと、そんな言葉が胸をよぎった。
(違う……そうじゃない……)
つまらないわけじゃない。ただ、何をしても、何を見ても、胸の奥が重たかった。言葉にならない違和感が、ずっと心の中で燻っている。
「ある、これ、みてー!」
ノエルが積み木を両手に掲げてやってくる。椅子の上に立って得意げに笑うその姿に、他の子たちもきゃあきゃあと声をあげた。
「おっきいおうちー!」
「つぶしちゃえー!」
「だめー!」
笑い声。泣き声。はしゃぐ音。けんか。どれも幼くて、どれも眩しかった。
(俺、ここにいる意味あるのかな……)
口には出さなかったが、思わずそう思ってしまった。
ノエルがくれたパズルはすぐに解けた。教室に置かれた絵本は、もう全部読んだ。木の積み木も、魔法の砂場も、どれも新しく見えて、すぐに飽きてしまった。
周りの子どもたちは、何でも楽しめて、何でも驚いてくれる。世界に初めて触れるような顔で、毎日を送っている。
でも、アルは――ちがった。
「ねぇ、ある。しゃべってよー」
「なんでずっとだまってんの?」
「きのうは、わらったのに!」
子どもたちが笑いながら話しかけてくるが、その無邪気さが、かえって胸に刺さる。
(ごめん、俺……)
何かが噛み合わない。
ここにいても、何も残らない。
地球で感じていた「孤独」とはまた違う。こちらでは、そもそも「伝えることすらできない」孤独だった。
どれだけ笑っても、何も変わらない。
(なんで、俺はこんなところにいるんだ……)
アルは机に顔を伏せた。
耳の奥で、遠く潮の音のように記憶が揺れる。
TSUTAYAの灯り。コンビニの匂い。駅前の横断歩道。
あの世界では、自分は子どもじゃなかった。もっとずっと複雑で、痛くて、でも、確かに「自分がここにいる理由」があった。
(ここでは……いらないんじゃないか……)
気がつけば、息がうまくできなかった。背中が熱くなり、喉の奥がつまる。
「アル……?」
近くで、誰かの声がした。
「おなか、いたいの……?」
ノエルだった。心配そうな目をして、小さな手でアルの肩に触れてくる。
その指の、あまりにやわらかい感触に、なぜか涙が出そうになった。
(違うよ、ノエル。俺が壊れてるだけなんだ)
言葉にはならない。何も返せなかった。
それでも、ノエルは何も言わず、ただアルの隣にすわり、小さな積み木をひとつずつ積んでいった。
「……たかくなったね」
ノエルの声が、風のように届く。
「こわさないでね。……アルは、こわさないよね」
その言葉は、アルの心に、まっすぐ刺さった。
(俺を……信じてるんだ)
こんなにも未熟で、頼りなくて、壊れかけている自分を。
(信じて……くれてるんだ)
こみ上げてくるものをこらえながら、アルは、そっと目を閉じた。
小さな命が、自分を必要としてくれている。それが、どんな理由であれ――それだけで、立ち止まってもいいと思えた。
(……まだ、ここで生きてもいいんだ)
すこしだけ、胸が軽くなった。
***
家に帰ると、母さんがすぐに駆け寄ってきた。
「ある、大丈夫? 今日はちょっと元気なかったって、先生が……」
「うん、大丈夫だよ」
アルはそう言いながら、ぎゅっと母の服を握った。
エレナ先生は何も言わなかったのだろう。ただ、きっと何かに気づいていたに違いない。
「ちょっと、疲れただけ……」
「入学したてだもんね。知らないこと、たくさんあるもんね」
母さんはそう言って笑い、頭を優しく撫でてくれた。
父さんも夕食のとき、特に何も聞かなかった。ただ「どうだった?」と聞いてくれて、それだけで十分だった。
アルはまだ話せないことがたくさんある。でも、それでも、今のこの家族は、全部をわかろうとしなくていいんだと思えた。
***
夜、寝る前。
アルはベッドの中で天井を見つめながら、そっとつぶやいた。
「……俺は、俺でいいんだよな?」
この問いに、誰も答えてくれない。
でも、今日ノエルがくれた積み木の塔のように、何かを重ねるたびに、心に形ができていく気がした。
「誰かが、自分を信じてくれる限り――」
小さく、微笑んだ。
「……生きていて、いいんだよな」
その一言だけで、胸の中に明かりが灯った気がした。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。
アルは今日、少しだけ世界が遠く感じたかもしれません。
小さな教室、小さな手、小さな笑い声――そのどれもが、やさしくて、あたたかくて、それでも「自分はそこには入りきれない」と思ってしまう。
そんな瞬間って、きっと誰にでもあると思うんです。
居場所にいて、居場所じゃない気がする。笑ってるのに、どこか取り残されたような。
でも、アルはそれでも、ここにいます。
前の世界のことは――話せないわけじゃない。
でも、話してしまったら壊れてしまうかもしれない。
あの優しい母さんと父さんの笑顔も、名前を呼んでくれる声も、全部全部、失われてしまう気がして。
だから、心の奥にそっとしまったままなんです。
こういうのって、誰にも言えないけど、心の中では毎日思ってたりしますよね。
「わかってほしいけど、怖い」って。
アルは、そんなふうに生きてる気がします。
それでもきっと、ほんの少しずつ。
まわりの音や人の言葉が、彼のなかに染み込んでいくような。
“居場所”が本当の意味で彼のものになる日が、遠くない未来に来ることを、書き手として願っています。
もしこの話を読んで、あなたが感じたこと、思ったことがあれば――
どうか言葉にして届けてください。
アルの世界が、あなたのまなざしでもっと深まっていけたら、それは本当に幸せなことです。