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ユメの雨

ユメは、あの宿に「来た」のではなかった。

――「取り残された」のだった。


 


まだ生きていたころ、ユメには“名前”があった。

今とは違う、ありふれた、けれど誰かに呼ばれるたびに心が温かくなる名前。


だけどその名前は、とうに誰にも呼ばれなくなった。


ユメは、気づいたときには雨の中にいた。

びしょ濡れの制服、濡れたランドセル、足元は水たまり。

でも寒くなかった。痛くもなかった。


ただ、静かだった。

とても、とても静かで、音がない世界だった。


 


「……ここはどこ?」


 


そうつぶやいた声は、風に溶けて消えた。


答える者はなかった。


そのときだった。


――ぽとん。


背後で、何かが落ちた音がした。


振り返ると、そこには古びた木の門。

掲げられた看板には、こう書かれていた。




【あめふらしのお宿】


――心の雨、しずくひとつぶからお預かりします――




気づけば、ユメはその門をくぐっていた。




最初の数日は、何もわからなかった。

妖怪たちがにこにこして迎えてくれたが、怖くて声も出せなかった。


でも、彼らは追い出さなかった。

それどころか、スープをくれたり、話しかけたり、

「何もしなくていいよ」と言ってくれた。


――そのやさしさが、つらかった。


ユメは思った。


(こんなにやさしくされるなら、もっと早く出会いたかった)


でも、自分はもう「戻れない」

どこにも帰れない子どもなのだと、すぐに悟った。


妖怪たちは、気づいていた。

ユメが“人間”ではなくなっていることを。


それでも、誰もそれを口に出さなかった。


代わりに唐傘が、こんなことを言った。


「じゃあ、ここに残ってさ。泣けない子たちの“灯り”になってくれないか」


ユメは、うなずいた。


それは、初めて“居場所”をもらえた気がした瞬間だった。




それから何年――何十年か、もしくはそれ以上か。

ユメは時間の感覚を失った。




お宿には、たくさんの子どもたちがやってきた。

親に捨てられた子。

友達に裏切られた子。

自分を責め続けて、声を失った子。


ユメは、彼らを見守り、話し、笑いかけた。

でも一線を越えることはなかった。


誰とも“友達”にはならなかった。

――そう、自分はもう、人間じゃないから。



そんなある日、律がやってきた。



はじめて出会ったとき、ユメは思った。


(この子も、帰れないかもしれない)


目があまりにも深く、静かだったから。

まるで水底に沈んでしまった石のようだったから。


でも――律は違った。


少しずつ、周囲と向き合おうとし始めた。

自分の居場所を、探そうとし始めた。


その姿が、ユメの胸に火を灯した。


(この子には、生きていてほしい)

(この子には、私ができなかった“再出発”をしてほしい)


だから、笑った。からかった。隣にいた。

そして、本当はずっと怖かった“涙”の話もした。


 


――律が泣いた夜。


 


ユメは、自分の胸が苦しいほど震えた。


誰かの涙で、こんなにも心が温かくなるなんて知らなかった。


その夜、ユメはひとりの部屋で、

誰にも見られないように、静かに泣いた。


数十年ぶりの涙だった。




そして――律が帰る日。

ユメは、それを見送る決意をした。


もう、この世界に未練はなかった。


律の涙が、ユメを解放してくれたのだ。


誰かに必要とされること。

誰かの心に残ること。


それが、ユメが最後に知った「救い」だった。


だから彼女は、雨の中に還った。


魂の形もなく、言葉も声も残せなかったけど、

それでも――彼女の「雨」は、今もどこかで降っている。


迷ってしまった誰かの頬を、そっと濡らすように。

気づいてほしい誰かの背を、静かに押すように。



雨は、時に優しく、

時に強く、人の心をゆるすもの。



ユメは、今日もどこかで――あめふらしとして、降っている。



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