ユメの正体
雨が上がった朝――律は、“あめふらしのお宿”の中庭に出た。
昨夜の涙の余韻がまだ胸に残っていて、目元が少しだけ熱い。
空は、薄曇り。
けれど雲の隙間から、うっすらと光が射していた。
唐傘の妖怪が、ぽん、と律の背中を叩いた。
「おめでとう、律。君は、ちゃんと泣けた。もう、帰ることができるよ」
律はコクンとうなずいた。でも――
「ユメは?」
唐傘は、その質問に少しだけ寂しそうな目をした。
「それは……本人に、聞いたほうがいいかもしれないね」
律は、宿の一番奥にある“開かずの間”に向かった。
いつもは入れなかったその部屋の前に、今日は、誰もいなかった。
障子を開けると、そこにユメがいた。
畳の真ん中に座り、空を見ていた。
彼女の周囲には、手紙や小さな包みがいくつも置かれていた。
どれも“この宿を出ていった子どもたち”が残していったものだった。
律は、そっと近づく。
「ユメ……僕、帰れるって」
ユメはふり返り、にっこりと微笑んだ。
「そっか、よかったね」
「……でも、君は?」
その問いに、ユメはしばらく黙っていた。
そして、ふっと口を開く。
「律くん。私、もう“人間”じゃないんだよ」
律は目を見開いた。
「……え?」
「私ね、昔、この宿に来たの。泣けなくなって、ここに迷い込んだ。でも――泣く前に、体が死んじゃったんだ」
その言葉は、律の胸に刺さった。
「じゃあ、ずっと……?」
「うん。成仏できない魂が、この宿に“残り香”みたいに漂ってたの。
でもね、妖怪たちが拾ってくれて――私はここで、“泣けない子たち”の世話をするようになったの」
律は、その場に立ち尽くした。
ユメがただの“同じ宿の子ども”ではなかったことが、ようやく腑に落ちた。
「じゃあ、ユメは……帰れないの?」
「うん。私はもう、どこにも帰れない」
ユメは笑っていたけど、律ははっきり見ていた。
その目が、初めて震えていたことを。
「でもね、律くんが泣けたとき、私もほんの少し……泣けた気がしたの」
「……ユメ」
「だから、ありがとね。律くんに会えてよかった。
君は、きっともう大丈夫。もう、自分の涙を信じられるから」
律は、涙があふれるのを止められなかった。
ぽろぽろと零れるそれは、昨夜とは違う“別れの涙”だった。
ユメが、そっと抱きしめてくれた。
「ねえ、律くん。お願いがあるの。
もし現実に戻ったら……どこかで雨が降ったとき、空を見上げて」
「……うん」
「そしたらきっと、私はそこにいる。雨は、悲しい涙だけじゃないから」
律は、小さくうなずいた。
ユメの体が、ふわりと霞み始めていた。
「ユメ……」
「ばいばい。――また、どこかで」
その瞬間、空に陽が差した。
宿の屋根に反射してきらきらと光る水たちが、
まるで拍手しているかのようだった。
律が目を閉じ、再び開いたとき――ユメはもう、そこにいなかった。