涙の効きめ
――泣けたら、帰れる。
そのルールを律がはっきりと理解したのは、ナギという少女が宿を出ていった日の夜だった。
唐傘の妖怪は、湯気を立てるお椀を配りながら、ぽつりとつぶやいた。
「雨ってのはね、空の涙みたいなもんさ。だから“泣けなくなった子ども”の心の雨が溜まると、こうしてお宿に道が開くんだよ」
律は黙ってその言葉を反芻した。
あのとき、自分は本当に泣けなかったのか?
――いや。泣きたくないんじゃない。
泣くことを“許されていない”と感じていた。
親が喧嘩をしているときに泣いてはいけない。
泣けば「面倒くさい子」と思われる。
泣けば、誰かが余計に苦しむ。
そう刷り込まれてきた律の涙は、もう何年も前に、心の奥底で“固まって”しまっていた。
けれど、この宿では違った。
唐傘も、ぶらんこさんも、おちょぼも、誰も律を否定しない。
泣きそうになっても、「我慢しなさい」なんて言わない。
それどころか、「泣けたらえらい」「泣くのも才能」とさえ言う。
そして、ユメの存在が――律にとって、静かに、そして確実に心を動かしていた。
ユメはよく笑った。
冗談も言うし、おかしな妖怪たちをからかっては笑い転げる。
けれど、どこかでその笑いに「影」を感じるのだった。
ある日の夕方。
ふたりは宿の中庭にある石の縁台に腰を下ろしていた。
雨の滴が枝葉を叩き、静かな音楽のように響いていた。
「ねえ、律くん。人の涙って、何のためにあると思う?」
不意にユメが問いかけた。
律は、少し迷ってから答えた。
「……つらいから、流れる」
「うん、そう。たしかにそうだね。
でもね――あれって、誰かに見つけてもらうためなんだって」
律は驚いてユメを見た。
「誰かに?」
「うん。動物は傷を隠すけど、人間は“涙”っていうサインを出せる。『ここが痛いよ』『ここにいるよ』って。
だから、涙って、自分の場所を知らせる“灯り”みたいなものなんだって」
灯り――その言葉に、律の心の奥がかすかに震えた。
ユメが続ける。
「律くんは、ずっとひとりだったんだよね。誰にもその灯りを見てもらえなくて、涙も出なくなっちゃったんだ」
律は、言葉が出なかった。
涙の“使い方”を、忘れていた気がした。
いや、忘れさせられていたのだ。
けれど今、胸の奥で何かが、かたく閉じた扉をノックしている。
この宿で流れる時間が、少しずつその扉をこじ開けようとしていた。
その夜――律は、はじめて“ある夢”を見た。
両親がリビングで喧嘩をしている。
父の怒鳴り声、母の泣き声、壊れるグラスの音。
律は隅で膝を抱えながら、ただ小さく震えていた。
――誰か、見つけて。
心の底で、叫んでいた。声にならない声で。
けれど、その声は誰にも届かなかった。
次の瞬間、夢の中にユメが現れた。
「律くん――もう、我慢しなくていいよ」
その言葉を聞いた瞬間、律の頬に、何かが一筋、伝った。
――涙だった。
はっと目を覚ますと、律は布団の中で、ぼろぼろと涙を流していた。
それは決して大声を上げるような泣き方ではなかった。
ただ静かに、けれど確かに、心の奥から湧き上がるような涙だった。
どれだけの時間、そうしていたか。
やがて、部屋の障子がそっと開いた。
ユメが立っていた。
「……泣けたんだね」
律はうなずいた。
「でも……帰りたくない」
それは、正直な気持ちだった。
もう一度あの世界に戻ることが、律にはこわかった。
また心が壊れてしまうかもしれない、そう思った。
ユメは、少し寂しそうに微笑んだ。
「気持ちはわかるよ。だけど、律くんの涙は――ちゃんと、誰かに届いたよ」
その言葉と同時に、遠くから「ザー……」という音が止んだ。
外を見ると、空が明るくなっていた。
あめふらしのお宿に、
ついに“晴れ間”が差し込んでいた。




