泣けない子どもたち
あめふらしのお宿では、時計の針がゆっくり進む。
カチカチという音は聞こえず、
代わりに障子の外でこつこつと降る雨の音だけが、
時の流れを告げていた。
律が宿に来て三日が過ぎた。
彼はまだ完全に“ここにいること”を受け入れてはいなかったが、ここで出される食事のやさしさや、妖怪たちのさりげない配慮に、少しずつ心をほどいていった。
とはいえ、宿の住人たちはやはり“人ならざるもの”であり、唐傘小僧以外にも、変わった妖怪たちが何人もいた。
たとえば、口が耳まで裂けているのにやたらと静かな妖怪
「おちょぼ」
天井から逆さまにぶら下がって本を読む、足だけの妖怪
「ぶらんこさん」
誰かの話を聞きすぎて、耳が三つに増えた
「みみふくろう」
彼らは皆、一見おそろしく見える姿をしているが、律にはそれがあまり怖く感じなかった。
怖いのは、言葉を交わさないまま、誰にも気づかれずにいなくなってしまう「人間」の方だった。
――「ここにいる子は、みんな“泣けなくなった子”なんだよ」
そう、唐傘が最初に言っていた。
律は、自分以外の子どもたちに興味を持ち始めていた。
自分と同じように、どこか傷ついた目をしていたからだ。
あの赤い帽子の女の子は、名前を聞いても答えなかった。
ただ、いつも帽子を深くかぶっていた。
夜中にすれ違ったとき、彼女はトイレの鏡の前で帽子を取っていた。その瞬間、律は見てしまった。
彼女の頭には、大きなやけどの痕のような跡が残っていた。
もう一人の食いしん坊の少年は、「カナメ」という名前だった。
彼は律にだけ少し心を開いたのか、おにぎりを一口くれた日があった。
そのとき、カナメはぽつりとこう言った。
「お腹いっぱいにしてると、怒鳴られない気がするんだよな。なんか……バリアっていうかさ」
律は黙ってうなずいた。
言葉はなくても、わかる気がした。
それぞれが、自分なりの方法で痛みと戦っているのだ。
そしてもう一人、律にとって特別な存在となった少女がいた。
――ユメ。
ふわりとした髪に、少しだけ眠たげな目。
年齢は律と同じくらいだが、妙に落ち着いていて、宿のことにも詳しかった。
唐傘たちとも親しげに話しており、まるで宿の一部であるかのように自然にそこにいた。
「ねえ、律くんって、泣いたことある?」
ある日の夕暮れ、廊下の端で雨を眺めながら、ユメはぽつりと尋ねた。
障子越しの外は、薄く霞んでいて、遠くの山の輪郭がぼんやりと滲んでいる。
律は少し考えてから、かすかに首を横に振った。
「うん。もう、ずっとない。泣きたくないわけじゃないんだけど……出てこない」
ユメは「わかる」と笑った。
「私もね、最初はそうだった。涙ってさ、出そう出そうって思えば思うほど、どっかに引っ込んじゃうんだよね」
「でもさ、泣けたら帰れるんでしょ?」
律がそう言うと、ユメは目を細めて、ほんの少しだけ悲しそうに笑った。
「うん。でもね――帰りたくない子も、いるんだよ」
律はユメの言葉の意味をすぐには理解できなかった。
けれど、その後の数日間で、ひとつの出来事を通して、彼は“あめふらしのお宿”の本当の役目を知ることになる。
その日は、朝から特別に冷たい雨が降っていた。
いつもより食堂が静かで、誰も言葉を発しなかった。
唐傘が、「今日はね、一人、旅立つ子がいるんだ」と言った。
律が不思議に思っていると、宿の奥からあの赤い帽子の女の子が現れた。
帽子を取った彼女の頭は、包帯で覆われていたが、彼女の瞳は穏やかだった。
ユメが、彼女に手紙のようなものを手渡していた。
そして、ふたりは抱きしめ合った。
「ありがとうね、ナギ。泣いてくれて、うれしかったよ」
ナギと呼ばれた少女は、小さくうなずいたあと、
振り返らずに宿の外へ向かって歩いていった。
門をくぐったその瞬間――ぱらぱらと、雨が止んだ。
律は息をのんだ。
――本当に、泣けたら、帰れるのだ。
それが、この宿の“ルール”なのだ。
けれど同時に、疑問が浮かんだ。
「ユメは……帰らないの?」
その問いは、すぐには口に出せなかった。
律の胸の奥には、確かに何かが芽生えていた。
それは、「誰かを思う心」だった。
自分と同じように、傷を抱えているのに、
誰かのために笑っているあの子のことを――
彼は、もう少し知りたいと思った。