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雨宿りの子ども

雨が好きです。妖はもっと好きです。

雨が降っていた。


朝からずっと、灰色の空は泣き止む気配もなく、

傘を差す大人たちは皆、足早にアスファルトを踏んでいた。


律は、傘を持っていなかった。

忘れたわけではない。

持たせてくれる人が、もういなかったのだ。


今日も誰とも話さなかった。

学校では、授業中に当てられても答えず、

先生は困ったような顔をするだけだった。


給食の時間も、誰とも視線を合わせないように俯いたまま、パンだけをかじった。

牛乳は飲まなかった。

どうしても、口の中に広がるあの味が耐えられなかった。


彼は今、祖母の家で暮らしている。

父と母が離婚し、「どちらとも暮らしたくない」

と言った律を、唯一受け入れてくれたのが、

母方の祖母だった。


けれど祖母の家は、古くて寒くて、

知らない臭いがした。


そして何より、あの家には

“自分の居場所”

というものがどこにもなかった。


律は、もう泣けなくなっていた。


両親の怒鳴り合いを聞いても、

離婚届に判を押す瞬間を見ても、

その夜ひとりぼっちで布団に入っても、

涙は一滴も出なかった。




濡れた足音を響かせながら、

律は帰り道を歩いていた。


通学路を外れてしまったのは、

わざとだったのかもしれない。


交差点で曲がるべき角を、そのまま進んだ。


古びた神社の鳥居の横を抜け、

雑草の生い茂る細道を進んだ。


雨はいつの間にか、強くなっていた。


――どこでもいい、どこかに行きたい。


誰にも見つからない場所で、ひとりになりたい。

そんな気持ちが律の足を動かしていた。


そしてそのとき、目の前に現れたのだった。



「……ここ、は……?」



木々のあいだ、霧に包まれたような場所に、

古い門がぽつんと立っていた。


まるで長い時の中に取り残されたように、

苔むした石段が濡れていた。

門の脇には、木の看板が掲げられていた。




【あめふらしのお宿】


――心の雨、しずくひとつぶからお預かりします――




律は文字をなぞるように口の中で読んだ。


「あめ……ふらし?」


どこかで聞いたことのあるような響きだった。

でも、思い出せない。

躊躇しながらも、律は門をくぐった。


 


その瞬間だった。

足元に、ぬるりとした感触が走る。

反射的に飛び退くと、そこにいたのは――

 

「うわっ!」


一本足で跳ねながら歩く、唐傘の妖怪だった。


大きな一つ目、長く伸びた舌、

そして濡れた紫の傘。


律は思わず固まった。

現実感がない。これは夢だろうか。


漫画の中の存在が、

まさか自分の前に現れるなんて――。


「ふむ、人間の子。今日の雨に流されてきたかい?」


唐傘が、ぺたんと跳ねながら律の前にしゃがみ込む。

その声は意外なほど穏やかだった。


「濡れてるね。風邪ひくよ。ほら、おいでおいで。あたたかい部屋があるから」


驚くべきことに、その妖怪は律の手を引いた。

冷たい指先。だが、不思議と嫌ではなかった。




宿の中に入ると、ふっと雨音が消えた。

不思議なことに、靴も服も、

すぐに乾いてしまった。


暖かい香りが鼻腔をくすぐる。

木と湯気と、懐かしいだしの匂い。

どこか「昔」を感じさせる空間だった。


「……ここ、なに?」


律がぽつりと呟くと、

奥から着物姿の老婆のような妖怪が現れた。


片目がなく、背は曲がっているが、

どこかやさしい目をしていた。


「ここは“あめふらし”さ。泣けなくなった子のためのお宿だよ」


老婆妖怪がにっこりと笑う。


「君の心、ずいぶん濡れてるみたいだねぇ。よほどたくさん、我慢してきたんだね」


律は返事ができなかった。

ただ、なぜか足が震えていた。


喉がひゅうっと鳴りそうになるのを、

ぐっと堪えた。


「無理に話さなくていいさ。ここでは、誰も無理をしないんだよ。ほら、こっちへおいで。お腹、空いてるだろう?」




食堂へ案内されると、

そこには他にも子どもたちがいた。


赤い帽子を深くかぶった女の子がひとり、

黙ってスープをすくっている。


大柄な男の子が無言で山盛りのご飯を口に詰め込んでいる。


小さな子が部屋の隅でぬいぐるみをぎゅっと抱いている。


誰も、律を見ようとしなかった。

でも、そこには「拒絶」がなかった。


「ほら、今日のごはんは“こころほぐしのおじや”と“さみしがり屋のたくあん”だよ」


唐傘の妖怪がニコニコしながら配膳を手伝っていた。


お椀を差し出された律は、

おじやの湯気を見つめたまま、

ひとくちだけ口にした。



やさしい味がした。



懐かしい、でも思い出せないような、

涙の手前で止まるような味。


身体の奥に染み込んで、

心の奥を少しだけ、温めた。



「……おいしい」



律はそれだけを、ほとんど呟くように口にした。

そしてそれが、数週間ぶりの言葉だった。

唐傘の妖怪が、うれしそうに跳ねた。


「それはよかった!」


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