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9 明日がなくても、今日




   明日がなくても、今日


 青い日よけテントの下で、夏の日差しを避けながら編み物関連の雑誌を探していた。時季外れのせいか、並んでいる種類はあまり多くない。わたしは「はじめての編み物」というタイトルの雑誌を手に取ると、会計のためにレジに進んだ。

 パッチワークのような柄をした紙袋に入れてもらい、そのデザインの可愛らしさにわたしは機嫌を良くした。

 そういえば、鉢カバーなんて物があるらしい。トラノオのサイズなら編んであげることができるだろうか。わたしは少しだけ紙袋を持ち上げて、首を傾ける。

「梢ちゃん!」

 本屋から出ると、遠くで歩くんが手を振りながらこちらに向かってくるのが見えた。

「本屋にいたんだね」

「そろそろ来るかなって思って」

 今日は、正午に仕事が終わると話していた歩くんと、『コーヒーショップ佐々木』で待ち合わせをしていた。わたしが約束の場所にいなかったので、彼は少し不満そうな顔をしているかと思ったが、実際にはむしろ心配しているようだった。『ごめんね』とわたしは謝った。

 少し歩くと、歩くんがいつも乗っている白の軽トラックが建物の間に停められていた。

 わたしは助手席に、歩くんは運転手席に乗り込んだ。カチリ、カチリと二人分のシートベルトを締める音を確認すると、歩くんはエンジンをかけた。

 エアコンから風が吹き始めると、シトラスの香りが車内を漂った。

「着替え持ってきた?」

「勿論!」

 手に持っていたビニール製の手提げボタンを見せると、歩くんは「よし!」とニッと笑った。

 今日は、温泉に約束していた日だ。

 車は沿岸を走り、クーラーの風を弱め、窓を開けると風が渦を巻いて車内に吹き込んだ。スピーカーからは愉快なボサノヴァが流れ、その軽快なテンポに合わせて、わたしの鼻が歌い始めた。

 楽器のみの演奏が流れる中で、歩くんが「知ってる曲だった?」と訊ねた。わたしが「初めて聴く」と答えると、彼は「その割にはちゃんと歌ってるね」と笑った。

 海の反対側には山が広がり、その奥から蝉の鳴き声が響いていた。蝉の鳴き始めや終わりに気づくことなく、車は通り過ぎていく。

 今日の天気は快晴で、彼の隣に広がる窓からは真っ青な海が見えた。沖には穏やかな波が立ち、わたしは目を細める。

「そういえば、どんな本を買ったの?」歩くんがと再び話題を振る。わたしが「編み物の手引き」と答えると、彼は『この時期に?』と驚いた様子で言った。

「今から編まないと冬に間に合わなそうなんだもん」

 両手に持ったままだった雑誌に視線を移す。

「可愛い包装紙だね」

「あそこのおばあさんが折って作ってるらしいよ。自由に作ってるのか、よく柄が変わるんだよね」

「へぇ~。なんかいいね」

「ん、いいよね」

 ゆったりとした会話が広がり、そのうちに車は道路脇に停まった。

「少し歩こうか?」と提案する彼に、わたしは二つ返事で車を出た。

 沿岸を歩いていると、わたしたちを横目に海鳥が通り過ぎて行った。

「今月からカキ氷が解禁されたって、篠辺さんが言ってた。しかも、果実がたくさん乗ってるとかなんとか。とうとうこの町にも流行りものがやってきたね」

「そんな、田舎みたいな言い方して」

「でもテレビで見るようなカキ氷は見たことなかったでしょ? シロップだけなら作れるけど、氷を砕く機械が違うんだから、簡単には真似できない」

 歩くんがカキ氷機を調べていることは知っていた。シロップを作る練習をしていたのも知っている。だって、テレビでフワフワのカキ氷が紹介されてから、歩くんはお店のメニューに取り入れられないか模索していたんだもの。

「わたし、歩くんが作ってくれたシロップだったら手回しのカキ氷機で削ったのでもいいけどなあ」

「氷の粒が違うんだっていうんだよ。きっと、舌触りがいいんだろうなあ」

 果物を煮詰めているとき、部屋中に甘い香りが広がる。それがたまらなく好きだ。本当は冷ましてから味を見るのだけど、出来たばかりで熱々のシロップも凄く美味しい。

 何より、出来たてを食べられるというのは、特別感があって嬉しいものだ。

 わたしたちは浜辺に繋がるコンクリートの切れ間を通り、海辺に近づく。

 海に近づくと、塩気を含んだ風が頬を撫でた。

 わたしは、顔に掛る髪を手で耳に掛けながら、穏やかな海に視線を向ける。

「ねえ、歩くん。もし靴下を編んだら、履いてくれる?」

「靴下、編んでくれるの?」

「難しいらしいんだけど、挑戦してみようかと思ってる」

「絶対、履く。毎日履くよ」

「じゃあ何足か必要になるか……」

 上手にできるとは限らない。なんせ、無地のマフラーしか編んだことがないのだ。模様を取り入れたこともない。それなのに「楽しみだなー」と機嫌良さそうに呟く彼に、編み終えてから伝えれば良かったかな、なんて少し後悔した。

 微妙な顔を浮かべながら、わたしはキラキラと輝く海面に目を細める。

 鮮やかな青色に心が癒されていると、歩くんがわたしの手をゆっくりと握った。その手の温もりに、わたしは嬉しくなって自然と手に力を入れる。

「梢ちゃん」

「ん?」

 名前を呼ばれて振り返ると、額に彼の柔らかな唇が押し付けられた。突然のことに、瞬きを繰り返して彼を見上げる。すると、歩くんは照れ臭そうに笑った。

その笑顔につられて、わたしも笑顔になる。

 まつ毛にくっついた海面の煌めきが、彼の笑顔をさらに引き立てた。

「好きだよ」

 甘い愛情は、わたしの頭の中でトロリと蕩けた。

 他人から知り合いへ、知り合いから友達へ。そして、友達から恋人になったわたしたちは、今では自然に愛を伝えることができるようになった。

「わたしも、大好きだよ」

 溢れる愛に思わず破顔すると、彼の顔が近づき、傾いたことに気が付いた。

 わたしは彼の動きに合わせて瞼を閉じる。お互い慣れないもので、呼吸を確認することはまだできない。

 ただ、唇を合わせるだけのキスに、わたしは少し緊張して瞼に力を入れる。そのまつ毛の先が彼の肌に触れた瞬間、歩くんはくすぐったそうに笑った。それを合図にしたかのように、歩くんは体を離し「くすぐったい」と笑った。わたしは「だって」と言ったが、それに続く言葉が思い付かず、口を閉じて尖らせる。

 拗ねたような顔をすると、歩くんはまたわたしに口づけをした。

 今度は直ぐに唇は離れていった。

「この前は甘かったよね」

「それは、シロップを食べたあとだったからでしょ」

「じゃあ、今日もカキ氷を食べたら、甘くなるわけだ」

 否定することもできず、わたしは「もう!」と怒ったふりをした。歩くんは、繋いだ手に力を入れて、わたしの様子を窺っている。怒っていないことは分かっているのに。

 わたしが応えるように力を入れると、彼は幸せそうに顔を綻ばせた。


 燦々たる夏の午後。揃いも揃って日焼けて頬を赤らめて、わたしたちの純情はいつまで輝き続けるだろうか。

 夏も、秋も、冬も。そして、春も。いつだって、この町の海を二人で見よう。

 晴れの日も、曇りの日も、雨の日も。貴方が隣にいてくれるなら、どんな景色も好きだよ。


 夏の香りに包まれる中、わたしは部屋のモンステラを思い出す。カラッと晴れた日は、植物も気持ちが良いだろう。

 穏やかな風に目を伏せると、彼がいる優しい部屋が見えた。もしかすると、瞼の裏に焼き付いているのかもしれない。わたしたちの部屋の一角には、愛しい緑が佇んでいた。


 わたしは、静かに祈る。

 モンステラの葉の上で優しく光り続ける雫のように、二人並んで見た景色が心に残り続ける輝きとなりますように――。




最後まで読んでくださり、心より感謝申し上げます。

『モンステラの雫。』は、どうしても書きたかった題材でしたが、言葉選びにはとても悩みました。

曖昧にしすぎれば伝わらない。けれど、誰かを傷つけてしまうような言葉だけは、どうしても使いたくなかったのです。

年齢制限を設けるべきかどうかも、最後まで悩んだほどです。


近年では、ネット上で人の心が見えるようになってきました。

その中で、心の奥に小さなしこりを抱えて生きている人たちがいることに、少しずつ気づけるようになりました。

そして、抱えきれない何かを胸の奥で抑えながら日々を過ごしている私自身も、きっとその一人です。

曖昧なまま、苦しみをごまかして過ごすことには、疲れ果ててしまう時もありました。


『モンステラの雫。』のすべてを覚えていてほしいとは思っていません。

けれど、長い物語の中で、ほんのひとつでも――言葉のひとかけらでも――誰かの勇気や励ましになれたなら、私はこの物語を書いてよかったと心から思います。


本作は、いずれ自費出版を予定しておりますので、ネット上での公開には限りがあります。

今後も手直しを重ねながら、大切に仕上げていくつもりです。

それまでに、できるだけ多くの方の手に届くことを願っています。


最後になりますが、改めて――

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。



2025.5.24 遥々岬

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