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8 夢をみる




   夢をみる


 二人してずぶ濡れになって歩くんの家に帰ると、玄関のカギが掛かっていないことに気が付いた。歩くんは自分のズボンのポケットを触ってカギの存在を確認すると、不思議そうな顔をから一変して眉を寄せた。

 彼は、緊張している様子で玄関扉を開けると、ゆっくりと部屋に入っていった。わたしは、彼の後ろに続く。

 歩くんは扉のない部屋の前に立つと「翔」と言った。

 呼ばれた名前に対する返答はない。

 わたしは、歩くんの後ろから部屋の中を覗き込む。部屋には、床に座って植物たちを見つめている人物がいた。

 喫茶店で出会った彼だ。名前は『翔』というらしい。

 翔さんはずぶ濡れのわたしたちを見ると、怪訝そうな顔をした。

「さっさとシャワー浴びたら?」

 歩くんはハッとした様子でわたしの方を振り向き「そうだった」と言って、頼りなさげに眉を下げる。

「梢ちゃん、先に行って」

「……いや、そもそもこんな事になったのはわたしのせいだし」

「体を冷やしたらダメだしさ」

「それを言うなら歩くんも同じでしょ」

 わたしたちは互いに折れる気がないらしい。遠慮しあっている間に、歩くんは何度かクシャミをした。

 埒が明かない中で思い出す。わたしも大概だが、歩くんも頑固だった。

「どっちからでも良いから。早く行きなって」

 わたしたちの譲り合いは、翔さんの一言によって終止符が打たれた。


 結局、わたしは先にシャワーを浴びることにした。

 彼らは今、何を話しているのだろうか。彼らが沈黙しているのか、それとも歩くんがポツリポツリと話しているのか。浴室からは何も聞こえない。

 浴室を出れば、次はわたしは翔さんと二人きりになる。さっきまで歩くんは翔さんについて話していたから、気まずい気持ちになっているかもしれない。でも、わたしだって気まずい。しかし、歩くんが風邪を引かないように、ここで長居するわけにはいかなかった。

 わたしは覚悟を決めて、シャワーの蛇口を捻り、お湯を止めた。


 浴室から出ると、歩くんが交代で入って行った。

 翔さんは部屋の中で座り、相変わらずわたしの植物を見つめていた。

 翔さんが、「これ、アンタの?」と訊ねると、わたしは「うん」と頷いた。

「こんなの持ち込んで、随分と長居するつもりなんだね」

 そうなのかもしれないが、その通りだとも言えない。わたしは「……はあ」と曖昧に返事をする。すると、翔さんはその返答に満足げではない様子でこちらを見据えた。

「今日は天気が悪いからさ。アンタ、海を見に行ってると思ったんだよ」

 ――荒れた海を見に来たんです。

 それは、わたしが喫茶店で彼に話したことだった。喫茶店で話したことを彼は覚えていた。

「アンタは俺と違って、危うい類の人だ」

 皮肉を込めるように口の端を上げた彼の表情は、歩くんはしなさそうな顔だと思った。

 彼からは、歩くんを巻き込んだことへの怒りがひしひしと伝わってきた。でも、彼にごめんなさいと謝るのもなんだか違う気がして、わたしは視線を自分の手に落とす。

 だんまりを決めるわたしに呆れたのか、翔さんはそれ以上話しかけてこなかった。


 歩くんが部屋に戻って来ると、わたしと翔さんは同時に彼の方に顔を向けた。わたしたちの反応に歩くんは「うお」と小さく驚いていた。

「オムライスとスパゲティー、どっちがいい? ちなみにスパゲティーにも卵の薄焼きが乗っかります」

「オムライス」

「わたしも、オムライスがいいな」

 歩くんは、首にかけているタオルでガシガシと濡れた頭を拭きながら、冷蔵庫の中身を確認していた。

 わたしは歩くんの背中を凝視する。

 風邪、引かなきゃいいな……なんて、わたしが言えたことではない。

「じゃあ、俺もオムライスにしよっと」

 歩くんは卵と他に必要な食材を取り出し、台所に置いた。

 歩くんの髪から水滴が落ちる度に、わたしは申し訳なくなった。以前、モンステラの水滴を口に入れようとした彼を叱った自分を恥じる。

 窓の外を見ようとしたとき、翔さんと目が合った。その目はまるで「真似するな」と言いたげに細められている。わたしはムッとして、負けじと目を細めて応戦したが、やがて互いの視線は逸れ、部屋には小さなテレビの音と歩くんがオムライスを作る音だけが響いていた。


 出来上がったオムライスにはタコの形に切られた赤ウィンナーや茹でたブロッコリーが添えられていて、わたしは嬉しくなった。一口頬張ると洗練された味が口の中に広がる。思わず「おいしい」と言葉を溢すと、翔さんがすかさず「当たり前でしょ」と言った。わたしはまたムッとして、彼を見やる。

 歩くんは、わたしたちのやり取りを「こらこら」なんて言いたげに困った顔をして見ていた。

「歩のオムライスが美味しいなんて、当たり前」

 翔さんの『当たり前』という言葉が、まるでオムライス以外に向けられた言葉のように聞こえた。

 一方、歩くんはスプーンを手に持ったまま目を丸めていた。

 自分が歩くんに見つめられていることに気が付いている筈なのに、翔さんは気にしない様子でオムライスを食べ進める。

 わたしはなんだか嬉しくなって、慎重な手つきでケチャップライスと卵をスプーンで掬い、口に入れた。

「翔、俺さ」

 歩くんは、手に持っていたスプーンを皿の上に置くと、緊張した面持ちで正座した。

 名前を呼ばれた翔さんは、食べる手を止めて、ゆっくりと歩くんに顔を向ける。

「いつも急かすように話して、ごめんな」

 歩くんの視線は、目の前に置かれたスプーンに落とされていた。

 沈黙には耐えられないと考え、電源を入れていたテレビからは、パン屋さんのリポートが流れていた。大きくはないが、決して小さくもないテレビの音。それに負けじと、カチカチと音を立てて時計の針が時を刻んでいた。

「別に」

 小さな音の中で、最も小さな声で翔さんが呟く。

 歩くんがゆっくりと視線を上げると、二人の視線が交わった。

「面倒だとかじゃなくって、相槌を打つのがしんどい時があって」

 わたしは、この場に自分がいても良いものかと悩んだ。緊張が張り詰めた部屋の中でスプーンを皿に置く音を立てることすら忍びなくて、植物のようにジッとしながら、彼らの話に耳を傾ける。

「……俺が眠る直前まで、こっちの様子に気づきもせずに続けてるお前の話、聞いてたよ。それで、いつの間にか寝てんの。……で、目が覚めた時に、歩が料理したり本のページを捲ったりしている控えめな生活音を聞いてさ。そうしたら、また一人で歩き出せる気になったんだよね」

「歩く?」

 空気が揺らいだのを感じた。ふ、と聞こえた音は、どちらが笑ったかなんて明らかだった。

「俺は体力も精神力もないから、走り続けることは無理。でも、歩は……兄ちゃんは、俺に歩き方を思い出させてくれるっていうか。……俺、自分が気難しい性格してるって自覚してるからさ」

 わたしは、彼が言おうとしていることが分かる気がした。ジワリと滲んだ涙を隠すように、静かに瞼を伏せる。

 自分が抱えている心には耐えられるのに、他人が同じような心を持っていると思うと、胸が苦しくなった。言葉にした瞬間、自覚させされるのだ。自分は、辛かったんだって。

 綺麗な歌に綺麗な歌を重ねると煩いのだと、歩くんは言った。では、彼が食事を作っている音や、話している声は、翔さんにとって煩いものだったのだろうか。

 音楽には、重なることでより美しく聞こえる曲がある。心地よい音の組み合わせを発見することができる人は凄い。

 翔さんは、重なり合う音が美しいものだと気が付いていて、その組み合わせを密やかに想っていたのだろう。

 口に出すことで肯定されることもあれば、否定されることもある。翔さんは、自分が大切にしているものを、他人に評価されることを避けたいのではないだろうか。それが歩くん本人だったとしても。

 だって、『兄ちゃん』の話を聞きながら、料理ができるのを待つ時間が好きだとか、誰かに話さなくても良いことだよね。大切なことは、自分の心の中に仕舞っておきたくなるもんだ。

 瞼を閉じたとき、その情景が見えたなら満足できるの。心に美しい情景を持っていることが、誇らしいの。

 わたしは、一筋の光が差すのを感じて、恐る恐る視線を上げる。

「じゃあ返事くらいしろって思うだろうけど、それすら難しい時があるというか。……本当に……五月蝿いわけじゃないんだ」

 言い終えると、翔さんはそわそわと手に持っていたスプーンを何度か揺らし、表面が少しトロトロしたオムライスにスプーンを突き立て、口いっぱいに頬張った。

 翔さんは少し険しい表情を見せていたが、そのオムライスを食べる仕草は、照れているようにも見える。

 当然、歩くんも弟のその態度に気づいているようで、安堵の表情を見せ「ゆっくり食えよ」と笑った。

 重たかった空気が、ようやく軽くなった気がした。


 オムライスを食べ終え、わたしが三人分の食器を片付けていると、台所の横にある冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した翔さんが、その水を飲みながら横に並んだ。まさか隣に来るとは思わず、わたしが驚いて彼を見上げると、彼は「そういやあ、名前は?」と言った。わたしは彼の問いに「小田梢です」と答える。すると翔さんは、ふーん、と言って、ペットボトルを少し凹ませた。

「……俺はアンタを気にしないよ。相変わらず、此処に遊びに来るつもり」

「はい」

「でも、アンタは無理に此処を出ていかなくて良いんだと、思うんだよね」

 それは先程、随分と長居するつもりなんだなと言っていた人のセリフとは思えなかった。

 彼も気づいているのか、ふん、と鼻を鳴らす。

「歩が気にしていないなら良いんだよ。……歩が楽しそうにアンタと関わっているなら、多分、俺もその方が良いし」

 わたしは、彼の話をよく聞くために、泡のついた手で蛇口のハンドルを回して水を止める。

 改めて彼を見上げると、歩くんによく似た穏やかな顔をした翔さんが、こちらを見ていた。

「大切に想えるものがあった方が、幾分か気が楽だからさ。……きっと、梢さんも俺と似たようなもんだろうから、なんとなく分かるだろ?」

 似たようなもん。似たようなもの――。彼は、わたしと「同じ」とは言わなかった。

 やはり、彼はそんな些細な違いを理解できる人間だった。

 そんな翔さんには、誰もいない歩くんの部屋で一人、床に座って見た葉の裏から何が見えただろうか。

 わたしは、一人きりの部屋で植物に寄り添い、その葉脈を眺め続けた。惜しみなく太陽が出ている日であれば植物は喜び、雨が続けば少し憂鬱そうに見えた。わたしは感情も見せぬ植物の幸せを願い、お世話をしてきた。そうしていると気が晴れるようだった。そして、植物を想える自分が好きになれた。

 血管のようにいくつもに分かれる葉脈に、未来などというものを見た気になっていたのだ。

 わたしは、翔さんの言いたいことが理解できた。大切なものがあれば、わたしのような人間はその幸せを強く願いたいと思う。わたしはあまりにも我儘で、身勝手で、非力だ。だから、他者に寄り添うことが難しい。それなら、周りの全てが自然に、等身大に幸せになってくれた方が良い。

 そこにわたしがいなくても、それでいいの。

 でも、わたしも遠くからその幸せを眺めることができたなら、嬉しい。もし、わたしの存在を少しでも認識してくれるなら、もっと幸せだ。

 わたしは、彼の言葉に返答をする代わりに、少し生意気そうな顔で笑みを作り、皿洗いを再開する。

 翔さんにとってのこの部屋は、わたしにとっての植物のようなものだ。そして、歩くんがそばにいることで、この空間は完成する。そこだけは同じだね。なんて、ふと思った。

 翔さんはわたしの反応に満足したのか、歩くんが座っている場所まで戻って行った。


 わたしはシンクを流れる水にを見つめながら、死んでいった水滴のことを思い出した。

 浴室の天井で大きくなった水滴が湯船に入るのを見てしまうと、イヤな気分になった。しかし、あの一滴だって、雨に濡れて冷たくなった体を温めてくれた温泉の湯と変わらない。勿論、わたしの家の風呂の湯も同じだ。

 シャワーの音。お湯が揺れる音。水の音に、大きな違いはないだろう。

 それなのに、この家のお風呂の温かさはまるで優しく包み込むようで、心を穏やかにしてくれる。お湯の音やシャワーの音は、わたしの家で聞くものと同じはずなのに、ここでは違って感じた。それは環境の違いから来る安心感の差かもしれない。

 きっと、歩くんの家の浴室では、水が穏やかに流れるだけで、水滴の死を発見することはできなかっただろう。

 背後では空気が抜けるような二つの笑い声が聞こえた。似すぎてどっちがどっちの声だったのか分からないが、先に笑ったのは歩くんかな、なんて考えた。


「なんか、梢ちゃんと翔は気が合うんだねぇ」

 翔さんが帰った後、テーブルを挟んで座って、ぼんやりと二人してテレビを見ていると、歩くんがポツリと呟いた。

 彼の方に視線を向けると、歩くんは眉を下げて寂しげに微笑んだ。

 なに、その顔。翔さんとわたしが気が合うのだとしても、どうして歩くんが気落ちしたような顔をするの。

「どうかな」

 わたしにはぐらかされたとでも思ったのか、歩くんは頼りなく首を傾げる。

 わたしと弟が仲良くすることに何か不満があるのか、きちんとした理由があるはずなのに、彼はその理由を話そうとしなかった。それが面白くない。

「気が合うっていうのはあってるかもね。……翔さんもわたしも、歩くんが好きだもの」

「え」

 歩くんの声は、嬉しそうに聞こえた。彼の率直な反応に、わたしは苦笑いを浮かべる。

 歩くんに思いの一端を伝えた翔さんも、恥ずかしい気持ちになっていただろう。

 わたしは、照れ隠しにテーブルの上に顎を乗せて目を閉じる。視界が暗くなると、もう少しだけわたし自身の話を聞いて欲しくなった。

「あのさ、歩くん。あのね、荒れる海は濁っていて汚いんだよ。それでさ、そんな海の中に入れば貝やゴミなんかで足を切るかもしれないの。すごく危ないの」

「ん? ……うん」

 わたしは、歩くんが誤解しているのだと思った。

 翔さんは、わたしが考えていることを歩くんよりも早く察するだろう。わたしが頑なに守っている暗がりで、少しの言葉をヒントに頼りない光を見つけ出せるのかもしれない。しかし、だからと言ってわたしたちが完全に理解し合えるかといえば、それは別の話なのだ。

 わたしたちが似ている部分があるのなら、そう思う部分が幾つかあるのだろう。しかし、似ているだけであって、わたしたちは同じにはなれない。

 それが嬉しくて、悲しい。

 わたしたちは、同じになりたくはないのだと、それだけは理解して欲しかった。

 誰かの言う不幸を抱えながら、わたしたちはこの胸にあるものを不幸と決めつけられることを嫌う。

 わたしたちのような人間は寄り添えない。だって、相手の心が透けて見えるから、憐れみたくなってしまうでしょう?

「わたしのような人間の心は、いつも荒んでいるんだろうね。でも、わたしの心に誰かの心の欠片が混ざっても、一緒にはなれない。それは、まるで海を漂う人工物みたいに、違和感を生むだけなの。一緒にいると、傷つけられる可能性がある、そんな 感情なんだよ」

 淹れたてのホットコーヒーからは、心地よい香りが漂っていた。喫茶店で嗅いだあの香りとはまた異なり、この部屋で感じる香りは、ほのかな安心感を与えてくれた。

「わたしが他人に求めているのは、誰かと混ざり合って濁りたいわけではなくて……同じ景色を見て、同じものを食べて、綺麗だねって、美味しいねって言い合えることであって、一緒に溺れて欲しいんじゃない。共感を得られないなら、せめて、わたしがいることを知って欲しいだけなの。取り残されたくないって言ったのは、一人になるのを想像して、怖くなったからなんだよ」

 どうか、この部屋にある植物を思いやってみて欲しい。

 葉の一枚も見落とすことなく、いつも案じて欲しい。

 曇天の下であっても、窓辺のモンステラの雫は清らかに光っていた。葉先に溜まった小さな雫が、光を受けて煌めく。わたしは、静かにそこに佇む植物を見つめ、その存在感に思いを馳せた。植物はただ在るだけで、美しさを放ち、生命の輝きを伝えている。

 わたしにはそれができなかった。じっとしていることすら、難しかった。

 そのおかげで、水野歩という人と出会うことができた。

 そして、歩くんの優しさがわたしの心を解し、この場所に留まる選択を与えてくれた。わたしは、心挫けようとも人は直向きに在れることを教えて貰った。

 彼と過ごす時間の中で、わたしは、静かに、賢く生き続ける植物への尊敬と共に、自分の体が遠くへと導いてくれる力を持っていることに感謝した。

「海と同じで、心穏やかなままでいることは難しいけどね。天気の悪い日の海は荒れているものでしょ? わたしも、そういう時があるの。そういうものなの」

 わたしが得た長期休暇が、もうじき終わる。わたしは自分の家に帰らなくてはいけない。

 わたしは少しだけ考えてみる。

 この先に、わたしの日常に歩くんは存在するのだろうか。彼の日常に、わたしの痕跡は残るのだろうか。「わたしには、歩くんは残らない」と言ったのは、わたしだ。それを今更、寂しく思うなんて……。

 わたしたちの関係には名前がない。

 家族でもなく、友達と呼んで良いのかも分からない。

 わたしは砂浜で漂っていたところを歩くんに拾われ、この部屋にやってきた。好きにしたらいいと言ったのは歩くんだ。だから、わたしは何もすることもなく、ただ部屋にいただけ。ただ、ただ居ただけだった。

 この部屋に来てから、彼とは一度も出掛けることもなければ、一日を共に過ごした時間も殆どない。テレビを見ながらご飯を食べて、おやすみとおはようを繰り返しただけであった。

 そんな日々が続く中で、わたしは少しずつ、彼の中に静かで強い優しさを見つけていった。それは、言葉や行動だけでなく、彼がわたしに対して何も強要しない、その自由さの中にあった。彼との時間は、わたしにとって新しい発見の連続だった。わたしの日常には、歩くんは残るだろう。

 自由気ままな生活を振り返っていると、まるで、夏休みに祖父母の家にお泊りしている子供みたいな日々だったと思った。

「……ふ、ふふふ」

 夏休みとか、祖父母の家とか。どれだけこの場所に安心しているのかと、笑いが込み上げた。

 忘れてしまったと思っていた祖父母の家が、鮮明に思い出されたのだ。

 乾いた土に水が滲んで沈んでいくように、わたしの大切な思い出もまた、わたしの心に滲んで沈んでいたらしい。

 わたしは堪らなくなって、肩を震わせる。そんなわたしの反応に「なに?」と歩くんの戸惑うような声が聞こえてくるものだから、尚のこと笑えた。

 この部屋で過ごした日々の大切さが、身に沁みて、どうしても笑わずにはいられなかったのだ。

「海に例えたり、思えば出会った時から不思議なことばかり言って……ごめんね」

「いや、俺は梢ちゃんの話を聞くの、その、……好きだから」

 その言葉が、少しぎこちなく聞こえたのは、彼が気恥ずかしそうにしているからだろうか。わたしは、彼の反応の意味を深読みすることができず、気持ちを落ち着けるために、外の雨音に耳を傾けた。どうやら、荒れていたのは朝方だけだったようだ。

 部屋の空気が穏やかな中、自転車を拭かなければという日常の思考がふと浮かぶ。

 そうして、すっかり見慣れた部屋の一面をぼんやりと見つめていると、瞬きの一瞬に雫が光った。その瞬間、歩くんに伝えていない言葉が思い浮かんだ。

 それは、彼との日々がわたしにとってどれほど意味のあるものであるかを、言葉にできなかった感情だった。

「歩くん。わたしと出会ってくれて、ありがとう。あの場所で出会ってくれて、本当にありがとう」

 両腕に額を押し付けるように、机に顔を突っ伏したまま、わたしはやっと彼に感謝を伝えた。感謝の気持ちを伝えるには、あまりにも言葉足らずだが、それもわたしらしいと思って、許して欲しい。

「わたしも、夏になったら自分の部屋で目を閉じて、蝉が鳴き始めて、鳴き終えるまで耳を傾けてみるよ」

 わたしが帰ると言えば、いとも簡単に別れの日は決まる。

 今では、自分の部屋を思い出すと懐かしいような気持ちにさえなった。

 顔を上げて笑ってみせたけれど、寂しさが滲んでしまっていたかも。まだ帰るなんて言っていないのに、もう悲しいんだもん。

 眉をぐっと寄せた歩くんも、同じ気持ちでいてくれたらいいなって思う。わたしと同じように、別れを惜しんでくれたらいいなって。わたし、自分勝手でしょう?

 ここに来るまでも、ここに留まっている時も、わたしはずっと身勝手だった。

 いい加減ね、申し訳なく思うんだよ。

 歩くんは、わたしが言おうとしていることを察したのか、ハッとしたような顔をして、「俺は」と口を開く。その表情は、何かを伝えたかったけれど、言葉を見つけられなかったように見えた。しかし、わたしは彼が続けようとしている言葉を遮る。

「もうそろそろ、お別れだよ。歩くん」

 彼との間には、特別な思い出はない。しかし、わたしは彼が纏う匂いが好きだ。彼が作ってくれたご飯も好き。掃除なんて少ししかしていないのに、お礼を言ってくれるところも好き。

 衣食住にかかるお金を渡せば良いなんて、手抜きな気持ちで貴方に付き纏いたいなんて思わない。

 わたしは、水野歩から、充実した時間を貰った。

 波は引き際を知っている。それならば、わたしもその姿に倣おう。

 テレビの画面に映る人たちが楽しげに笑うと、歩くんはリモコンのボタンを押してテレビの電源を切った。

 歩くんの顔は、苦しげに歪んでいた。

「君には住み慣れた町があって、帰る家が別にあることは知ってる。……ここよりも、もっと自由に振舞える居場所があるってことも知ってる。でも、この町も、君にとってそんな居場所になってくれやしないかなって思うんだよね」

「……うん」

「俺さ、梢ちゃんが考えていること、あ〜いいなあって思うんだよ。梢ちゃんが語る死に様も綺麗だって思うんだ。俺はベッドの上で眠るように死ぬ以外の情景が浮かばないけど、それ以外の場所で死ぬときに見る景色だって綺麗なんだって。そう考える梢ちゃんそのものが、俺からしたら綺麗でさ。じゃあ、俺が死んだ時ってどんな日になったら良いかなって考えてみたんだ。俺って想像力が乏しいのかもしれないんだけど、考えてみたんだよ」

「どんな日を思い浮かべたの?」

「天気が良い日にぽかぽかのお日様に照らされて、君に手を握っていて欲しいって思った。君を残すのは嫌だけど、俺が望む死だから、それはちょっと置いといて。で、結局、ベッドの上で眠るように死ぬとしか思いつかなかった。そんな最期だったら、瞼を閉じきる時に見る景色は、きっと綺麗で、愛しいんだろうなあって思うんだ。……それでさ、これはさ、君がいないと見れない景色なんだよね」

 俯き気味に、早口で話し終えた歩くんは、わたしの様子をちらりと窺うように上目遣いでこちらを見た。

 なんて可愛い人なのだろうか。可愛くて、変わった人。だって、こんな傍から見たら死にたがりのような女に、そんな言葉を向けるなんて。やっぱり彼は変わっている。

「晴れていなくてもいい。梢ちゃんと出会った日を思い出せるから、雨の日でも良いんだ。兎も角もさ、君の話は、世界を綺麗に見せてくれる言葉ばかりなんだよ。俺は、梢ちゃんが重たそうに抱えている君自身をまるっと抱きしめたいの。それで、それは気持ちだけの話じゃあなくて……そー思ってんの」

 耳の先が赤らむ彼の率直な言葉に触れて、わたしの胸は緊張で打ち震える。こんなにも一途で、自分を受け入れてくれる人は、他にいるのだろうか。

 誰かに愛されることは、この上なく幸福なことだと思う。でも、わたしは彼に『普通』の幸せを与えることができるのだろうか。

 今まで自分に精一杯だった。他人を幸せにできる自信なんて、持てない。だからこそ、彼の好意に戸惑いを感じる。その戸惑いは、傷ついた時の痛みと同じくらいに切ないかった。人の好意で傷ついている自分に気が付くと、ますます悲しくなる。本当に、わたしの心というのはどうしようもないのだ。

 わたしは、わたしと共に生きていく。

 それで良いんだと思っているからこそ、心に他人が入ってくることが怖かった。

「……貴方にふさわしく、優しい人は他にいると思うの」

「うん。君は、そう言うだろうと思った」

 悲しそうに呟かれた声に、わたしは胸が詰まるような気持ちになった。

 歩くんは、真っすぐとわたしを見つめている。

「でも、俺さ。なんだか梢ちゃんと一緒にいると落ち着くんだよ」

 眉を下げて笑う歩くんを見つめると、励ますようにわたしの膝に置いてくれた彼の手を思い出した。

 もしも、わたしが彼の言葉を受け入れたなら、彼の手に自身の手を重ねることができるのだろうか。

 そして、その手をそっと握ってみても良いのだろうか?

「わたしには……わたしにとっては、貴方以上に優しい人はいない気がする」

「そうだと良いんだけど」

 これからも、苦しみの中で、一生懸命になってこの気持ちを伝えたい。彼には、全てを吐露してしまいたいと思った。

 わたしは、胸が早まるのを抑える。もしかすると、彼は翔さんの誤解が解けたのが、僅かにもわたしが影響していると勘違いしているのかもしれない。それを好意的な感情だと履き違えている可能性だってある。

 それでも、なんのしがらみもなく互いを求め合えるのなら、わたしは彼を信じたい。彼のわたしに対する認識が勘違いだったとしても、それなら、彼が思うわたしに少しでも近づきたい。

 自己満足ではなく、彼のために存在するわたしを見てみたい。

 誤魔化したり、曖昧な言葉に隠れることはやめる。

 逃げ出したいという葛藤と戦いながら、わたしは思いを伝えるまではこの場に留まることを決めた。

「……わたしのできる限りを尽くして、歩くんを幸せにするから、だから」

 奇跡を信じても良いんだって教えてくれたのは、海を照らす一筋の光。

 どうか、お願いします。彼の言葉を信じる勇気と、彼の言葉に応えられる勇気を、どうかわたしに分けてください。

 彼との出会いを奇跡と呼んでも良いのなら、その澄んだ光が途絶えぬように守らせてください。

 滲んだ涙の一粒が、ゆっくりと零れた。

「だからさ……此処に居たいって、歩くんと一緒に居たいって言ってもいい……?」

 慎重に瞬きをすれば、流れずに堪えていた涙がまつ毛に引っ付く。涙に濡れたまつ毛は重たい。

 やはり、わたしの涙は重たいだけで、特別には思えなかった。けれども、歩くんが優しくわたしの目元を指の腹で拭ってくれたから、涙が零れたことに後悔は浮かばなかった。

「俺はね、梢ちゃんが傍にいたいって言ってくれるだけで、幸せだよ」

 この人にはずっと笑っていて欲しい。ずっと、ずっと。笑いかけてほしい。

 わたしは、彼の手を自分の頬に添えるように握り締めて、目を閉じる。

 人を愛そうとすると、自分を受け入れるよりも苦しい気持ちになった。

 それでも、わたしは歩くんだけには素直で在りたい。それが、心からの願いだった。


 モンステラの葉の上に、ひとつの清らかな雫が輝いている。

 呼吸を繰り返すことで、モンステラは根から汲み上げた水を滲ませるのだと。

 爛々とした陽が降り注ぐ日には、葉が焼けないようにその雫を拭わなければいけないかもしれない。しかし、その面倒や心配ですら愛しい手間だ。

 

 わたしは、この植物ほど賢くもなければ大人しくもない。

 だから考えてしまう。もし選べるのなら、どんな一滴になりたいか。


 わたしは静々と夢を見る。

 彼の部屋で光るモンステラの雫となりたい、と。

 歩くんが綺麗だと言った雫だ。


 たとえ、愛が深い故に枯れたとしても、彼に与えられる肥やしならば嬉しい。

 モンステラの葉の上で乾いたとしても、その跡を見つけてくれたなら、わたしは幸せに違いない。




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