7 雨の日に燃える心
雨の日に燃える心
翌朝、わたしは珍しく起きてこない歩くんを遠目に見つめていた。なんでも、昨日のお昼頃から今日にかけて、お店の付近で工事があるのだと。彼がゆっくり眠っているのを見て、絶対に起こさないようにしようと心に決める。
窓の外を見ると、今日は酷い天気だった。
海は、わたしを呼んでいないかもしれない。けれども、わたしは呼ばれた気になって海を見に行きたい。
今、部屋に留まっている間も、白濁の波が浜辺に向かって手を伸ばしている。きっと、きっと誰かを手招いているのだ。
わたしはそれを軽やかに避けたつもりになって、誰もいない砂浜を駆けたい。
心の中で、何度も『ごめんなさい』を繰り返す。やっと、心の輪郭を見せることができたと思ったのにね。わたしは、沸き立つ欲求を抑えることができないらしい。
歩くんの部屋を出た瞬間、わたしは強風に打たれて気分が一気に高まった。歩くんも台風の日は外に出るべきだ。だって、こんなにも生き生きとした気持ちを味わえることは、他にはないのだから!
見知らぬ町にやって来てから、ずっと輪行袋にしまわれていた銀色の自転車を取り出し、わたしは海へと向かう。体を打つ雨によって呼吸がしづらいというのに、それすらも楽しい。
ごめんね、歩くん。
彼は自転車がないことに気づいて慌てるだろう。心配させるのも分かってる。でも、わたしはどうしても海を見に行きたかった。この荒れた天気の中で。
こんな日に荒れた海を見に行く人なんて、他にはいないだろう。でも、わたしは行く。わたしは荒れる海を見たいのだ。
海への思いを断ち切れたなら、わたしはとっくに歩くんの部屋を出ていた。それでも出て行かなかったのは、彼への後ろめたさと、自分の欲求がせめぎ合っていたからだ。
今日は、泣いたって誰も気づかない。少しくらい呻いたって誰にも聞こえない。今日みたいな日は、わたしの感情は誰にも届かないのだから。
ごめんね。
ごめんね、歩くん。
今、わたしは貴方を思いやってやれないよ。
自転車は軽やかにカラカラと音を立てて車輪を回し続ける。水たまりの水しぶきを頭から被ろうが、汚いなんて思わなかった。だって、雨がわたしを打ち続けるのだから、そんなことは気にならない。
遠くの海に視線を向けながら緩やかなカーブに差し掛かると、タイヤが滑りそうになってハラハラした。でも、わたしは速度を落としはしない。ただただ海を目指してペダルを踏む。踏む、踏む、踏む!
波除けトンネルに入り、光のパッチに視界を切り替えながら外の道路に抜け出ると、
目の前に広がるのは鉛色に激しく揺れる海だった。激浪が打ち寄せ、海面は燦然と光を放ちながら、猛烈に奔る。鋭い光を放つ海は、まるで自然界の暴力とも呼べるほどの力強さを誇示していた。
トンネルの中より豪雨に荒れる外の方が明るい。
それ見たことか。絶望的に暗い日だったが、まつ毛のひさしを超えて見えたのは、暗闇ではなく白い光だ。
「あっは! ……あははは!」
冷たい雨とは別に、温かいものが頬を伝った。どうやら、体は雨よりも凍えてしまったらしい。
わたしは、しばらく海を見ながら歩道の上を疾走し、ここだと思う場所でふと自転車を止める。
この先には腹がオレンジ色に光る大きなトンネルがあるが、そこまで行く必要はないだろう。
わたしは自転車と共に白いガードレールを跨ぎ、コンクリートの切れ間から海辺に向かう。砂浜の途中まで自転車を押したが、望んでいた光景を目の前にして、大切な銀色の足を放り投げて走り出した。
わたしは水滴だ。海にとって、わたしなんて取るに足らない水滴と同じなんだ!
モンステラの清らかな雫なんかではない。わたしは波の一滴だ。浴室に張り付いている水滴だ。何も特別じゃない。そこに水滴があろうが、なかろうが、誰も気にしない。だって、波が跳ねたことなんて、誰も興味ないだろう。浴室に水滴が落ちようが、誰も気に留めない。
大丈夫、大丈夫――。広大な海を前にしたら、わたしなんてちっぽけなんだ!
深く引いては激しく押し寄せる泡立つ波が、わたしを捕まえようとする。それを必死に逃れながら砂浜を駆けた。
このまま波がわたしの足首を掴んだのなら、海と一緒くたになるのだろう。
雨音が夜中に流れる砂嵐のように、同じ音を繰り返し、弾ける波の音が無機質な音に抑揚を加えた。
わたしには水と風の音以外、何も聞こえやしない。
時折、砂浜に打ち上げられた大きな流木を持ち上げて、体を捩り、投げ捨てた。
こんな好き放題に振る舞っていれば、海の方がわたしよりも落ち着きを取り戻そうとしているようにすら見える。
砂浜でクルクルと回ったり、走り続けてどれくらいの時間を消費しただろうか。
雨も激しさを和らげ、周囲の音が少しずつ戻り始めた。
「梢ちゃん!」
砂を踏む音や道路を走る車の音が聞こえ始めたとき、ここ数日で聞き慣れた声が耳に入った。
わたしはその声にハッとして、遠くに目を凝らす。自転車を置き去りにした方向からだ。どうか聞き間違いでありますように、と願ったが、それは叶わなかった。
必死の形相でこちらに向かって走ってくる歩くんの姿が目に入った瞬間、自分の体が冷えていることに気が付く。
わたしの元に辿り着いた歩くんは、わたしの手首を握った。彼の手は熱かった。
どうやら、わたしは指の先まで凍えていたようだ。
「……ごめん」
謝れば許してもらえるかもしれない、そんな卑しい気持ちが言葉として先に出てしまった。
歩くんの真剣な顔を見た瞬間、わたしは自分の情けなさに耐え難くなった。
「探したんだよ」
今日は折角のお休みだったのに、朝からこんな天気の日に外に飛び出さなきゃいけなくなるなんて。彼には、本当に申し訳ないことをしてしまった。彼の真剣な怒りに対して、わたしはただ「……うん」と頷くことしかできない。
「何かあったら、危ないじゃん」
「……ごめんなさい」
再び謝るも、彼の手はわたしの手首をさらに強く握りしめる。彼は本気で心配してくれているんだと実感した。
初めて会った時も、彼は同じように必死な顔をしていたことを思い出した。
「どうしても、ここに来たかった。どうしてかっていうのは、もう、分からない。説明できないよ」
口から出たのは、出まかせでもなんでもない。本心だった。
さっきまでの楽しさは、どこへ消えてしまったのだろう。今、わたしがここにいる理由を問われても、答えられない。わたしは、気まずくて視線を逸らす。視線の先では波が手招いていた。わたしの全てを抱きしめようと、たくさん手招いている。波が作った白濁した泡は、弾けては消え、波がその残骸を引く。
波の端を見て、わたしの心が騒めく。
時折、わたしは消えてしまいたいと嘆いた。大きな声で泣きたかったのかもしれない。その邪魔をしたのは、歩くんだ――。思ってもいない心の声に、わたしは歪んだ顔を僅かに伏せる。やめて。わたしは、歩くんのせいにしたくない。わたしの心のことで、誰かを悪く思いたくないんだよ。
「わたしは取り残されたくない」
どこにも行かないようにと掴まれている手首が、自由を欲する。
わたしは空いている手で、歩くんの手を剥がそうとした。しかし、彼の手はわたしの腕を握りしめたまま、離れようとはしなかった。
「歩くんも、わたしには残らないんだよ」
これまではぼんやりとした言葉で心の輪郭を話してきた。しかし、この考えだけはわたしの奥底に力強く突き刺さり、鋭利に光り続けていた。
この考えだけは、滅多なことがない限り覆ることは絶対にない。
わたしは懸命に言葉を探し、伝えたくなった。心の形だけではなくて、ちゃんと中身を見て欲しくなってしまった。こんな酷い天候の中、二度も助けてくれた彼に、やっと衷心をさらけ出す決心がついたのだ。
自分でさえどうしてこんな形になったのかは定かではない。その形がべこべこに凹んで、元の形に戻らなくなった事にはきっかけというものがあった。
居心地の良い部屋を貸してくれたお礼として、わたしの話を受け取って欲しい。
わたしは幼い頃、祖母の死を見届けた。
ああ、いいや。見届けている大人の中に混ざって、下手くそなりに弔いを真似たとでもいうべきか。その時のわたしは何が起こっているのか理解するにはあまりにも幼過ぎた。
周囲の大人とお揃いの黒い服に身を包み、皆が泣く理由もわからず、祖母が眠る棺や、空に昇っていく白い煙をただ見上げているだけの自分が場違いのようにいた。
続いて祖父も亡くなり、主を失った家は取り壊されることになった。温かな大好きな場所も、完全に失われてしまったのだ。それでようやく、人が死ぬということがどういうことなのか理解した。
成長過程の中で、幾度も目にした「死」。
命の仕組みを理解できるようになると、今度は心の慰めかたが分からず苦しんだ。
まるで、このままでは一人だけ残されてしまうような錯覚にさえ陥った。
胸が締め付けられるような苦痛は、大人になった今でも消えない。それどころか、歳を重ねるごとにその重さは増していった。それはまるで、雨に濡れた厚いコートが肌に張り付き、その重みで体が足元から沈み込むような感覚だった。
濡れた靴を履き続けていると、足から全身にかけて体が凍えていった。
どんなに温かなお風呂に浸かっても、どんなに厚い布団に潜っても、足先の冷たさは消えず、体の芯から凍えるような思いが続いた。
そして、わたしは誰かと共に生きることよりも、死んだ誰かと同じ場所に行ける方が安心できると考えた。生き続ける限り、必ず別れが訪れる。でも、死んだあとは、もうそれきりなのでしょう? 別れはないんだよ。
凍えた足を温める術も知らずに生きていたとき、誰かが語った話を思い出す。
「人は死んで灰になったら、水になって土に還るんだよ」
その話を聞いたとき、わたしと水の関係は一変した気がする。雨の日に外に出ると、降り注ぐ水滴がまるで祖母の魂が近くにいるかのように感じられた。川や海の水を見ると、不思議と心が安らぐような気がした。
乾いた土に広がり、沈んでいく水を見ていると、わたしの中でその考えは確固たるものになっていった。
足元の土が、水に色濃く滲んで消えた。
わたしたちは、命を終えればこの下に還っていく。
夏の熱に揺れるアスファルトに落ちる大粒の雨は、下ばかり見たがるわたしの顔を上に向かせた。
肌と同じ雨を浴びていると安心できた。
みんな同じでいられる。この先、わたしが生き急ごうが、寿命を全うしようが、一人の人間の時間の流れなんて決まっているようなものだ。
海が手招くなら、わたしは行かねばならない。
海がわたしの足を掴まないのなら、わたしは生きよう。
生きることにも、死ぬことにも、誰かに許しを請わねばならないことだったのだろうか。
わたしのことは、わたしだけが決めていい。だって、わたしを留めようとするのなら、どうして悲しくて凍えていた頃のわたしに、雨よりも先に顔を上げる方法を教えてくれなかったの?
わたしは、自分との寄り添いかたを自力で見つけたの。
それを否定できる人はいない。わたしが否定などさせない。
悲しいほど、簡単なことでしょう?
わたしは、わたしの全てを前に自由だったの。
時折、雨や波の音がわたしの声を掻き消そうとしたが、歩くんには聞こえただろうか。きっと、わたしの声は小さかったから、聞き取りにくかっただろう。
「水を見て、死というものを想像すると、自分の心の声が良く聞こえた。……わたしもその水の群衆のひとつで、ひと雫が流れて周りの水滴と共に死ねるとしたら、それが幸せなんだと言える」
わたしは、幼い頃から年齢が高ければその人の死期が近づくという概念を理解していた。家族や周囲の人々の言動や姿勢から、その背後にある不安や時間の経過を感じ取っていたのだ。
きっと、今のわたしが幼いわたしの手を握っても、幼いわたしは手を離すだろう。
彼女は、耐えられると思っているのだ。だって、いずれわたしも皆と「同じ」になるのだから。そうやって自分を慰めながら、わたしは生きてきた。
「混ざり合った沢山の水滴は、人知れずに地球に還っていく。そうしたら、寂しくないんだろうなって思ったの」
「だから……此処に来たの?」
「それは理由にはないよ。ただ、水が降って、水が押し寄せるこの場所にいたら、窓にへばりついてなす術もなく、静かに死んでいく水滴みたいに、大きいものの中で死を迎えられると思ったの。……あとは風が背中を押してくれたから、波が連れ立ってくれるとも思った」
「水の中で死ぬなんて、苦しいんだぞ!」
激しい雨の中、彼の声は真っすぐとわたしの脳に届いた。穏やかに相槌を打ち、心に寄り添ってくれていた歩くんは、懸命にわたしを怒っている。
わたしが怒らせているのだ。
彼の真剣さに触れ、わたしは酷く申し訳ない気持ちになった。死がどうとか、考えるだけならご自由に、と言われるだろう。しかし、今のわたしは危険な行動をして、彼に心配を掛けてしまった。
迷惑、というものを掛けてしまったのだ。
「わかってるよ。ちゃんと怖いもん。……ちゃんと、怖いって気持ちは、あるよ」
彼は、わたしが怖いといった感情を持っていたことを知ると、分かりやすくホッとしたように表情を和らげた。
生まれたばかりの水分が温かい。わたしは、自分が泣いていることにやっと気がつく。
浦風が顔の上で渦を巻き、細かな砂粒が肌に刺さる。
わたしが息苦しさに耐えきれず顔を背けると、湿った髪がべったりと顔に貼りついた。
海は大荒れ。大きな波が幾度も手招きをしているように、泡立つ白波が形を変えながら押し寄せてくる。
今日が、今日こそが、『死ねるのかもしれない』。そう、思った。
しかし、彼が腕を離さないから、わたしは海に向かうことができない。
遠くに見える空は、想像よりも近いまま。地面から遠ざかる方法を知りながらも、その勇気だけは得られなかった。
想像する景色を見れないことが悲しくて泣いているのか、彼に腕を掴まれたことに安心して泣いているのか。わたしには分からない。けれども、歩くんが来てくれて嬉しかったのだと思う。きっと嬉しかったんだ。
「家に帰ろう、梢ちゃん。植物だって梢ちゃんがいないと……俺、上手に育ててやれないよ」
彼はわたしの行動には意味がないこと、理由もないことを知っていた。ただただ、わたしが自暴自棄になったつもりになりたかったのだと、よく理解してくれたのだ。
「俺、今日は仕事休みだからさ。梢ちゃんの要望に応えて店で出すようなボリューミーでお洒落なご飯を作るよ。それでさ、プリンアラモードも作っちゃおーかな」
わたしは、ふと仕事から帰って来た彼の匂いを思い出し、空いている手で彼の手を柔らかく握る。すると、歩くんは更にその上からわたしの手を包むように握った。
「だからさ、お風呂に入って温まったら、一緒に食べよーよ」
歩くんの提案は、贅沢でありながら、日常的でもあった。
目元は熱を増すばかり。わたしは目を細めて誡める。
「歩くん」
彼は「うん?」と相槌を打つ。
さっきまでは、雨や波の音だけが聞こえていたら良かったのに、今では少し煩わしく感じた。
「ごめんね」
「いいんだよ。言ったっしょ。俺も台風の日は外に出たいタイプの人間なんだって」
「……うん…………うん」
彼の背後で、重たげな雲が蠢いている。
「帰り道はさ、きっと、来た時と違う景色が見えると思うんよ」
「どうして?」
歩くんは、重ね合っていた手をゆっくりと解くと、わたしの指の先を握った。
大きな手の、あまりにも謙虚な振る舞いに、わたしはむず痒い気持ちになる。
「運が良ければ、天使の梯子が見えると思う」
「天使の梯子?」
「雲の切れ間から光が差して、スポットライトみたいに見えるんだよ」
あぁ、それなら知っている。
雨上がりに見える、雲の狭間の光。それはまるで、朝、カーテンから零れる清らかな光のよう。
明けるときは、いつだって美しい。
「……梢ちゃんさ、知らない人ばかりの所に連れていかれるの嫌でしょ」
「う、うん」
わたしの指を握る彼の指先が、僅かに震えたように感じた。
「……俺さ〜、弟がいんだよね」
わたしは、彼に喫茶店で弟さんと会ったことを話していない。
だから、彼が弟についてどんな話をするのか、聞いてみたかった。
わたしは、彼の話に耳を傾ける。
「その弟もなんてゆーのかな。梢ちゃんと同じような考えをするタイプでさ。俺、その時は暗いことばかり考えるなよって励まそうとして、それで失敗しちゃったんだよね」
握られた指が離れる。
そして、どちらともなく歩き出した。
自転車がある場所まで、雨をしのぐ方法もないまま、わたしたちは浜辺を歩いた。
「失敗?」
「そ。面白そうなところに出掛けようぜって誘ったり、俺の友達の輪の中に入れようとしてさ。それで……あいつを泣かせちゃったの」
そんな、と言いそうになって、わたしは慌てて口を閉じる。そんな、なんて。まるで責めるような言い方だ。
上手く反応できなかったが、波の音が沈黙を許してくれたように思えた。
「辛いって言われたんだ。楽しいは楽しいんだけど、一人になった時にすごく疲れるんだって。……その時、あいつは自分がどうなるかとか、どうなりたいかとか知ってくれるだけで良いんだって言ってた。どうにかして欲しいわけじゃなくて、自分がどういう人間か知ってくれてるだけで……それだけで良いんだってさ」
雨にあたり続けているのだから無意味だろうに、歩くんは落ち着かない様子でティーシャツの裾を絞った。
「泣いて話す弟を見て、俺がアイツを追い詰めたんだって。やっと気がついたんだ」
「……でも」
「気にかけるのは家族なんだから当たり前、だろ? でも、家族でもさ、距離感をはかる事は大切だったんだ。アイツはさ、ただ、突然自分が死ぬ選択をしても、バカにしないで欲しいって、否定しないで欲しいって思ってるんだ。俺はアイツの言葉を聞いて、そう解釈した。これからたくさん楽しいことがあるのに、全部が無駄になるんだぞって、そんな事は言わないで欲しいんだって……」
歩くんが話すのは、自分を責めることばかり。この人は、わたしとは違う人間だった。
どちらかというと、彼が言うように、彼はわたしのような人間を追い込むタイプなのだろう。心配であるが故に気を遣って、励まして、生き方の全てを否定する。しかし、彼のような人は不運なことに、わたしのような人間に好かれてしまう。そんな彼だから、彼の弟は『そーゆー星のもとに生まれた』と言ったのかもしれない。
歩くんはすごい。自分以外の人間を、ましてやいつまでも情緒が安定しないような人間の気持ちを汲もうとして、自らも苦しもうとしているのだから。
わたしには、そんなことできない。無意識に眉間が寄った。それを悟られまいと、少しだけ顔を伏せる。
波の中で藻掻くは、一滴の水に過ぎない。大きなひとつになったつもりで、波とは消えゆく泡でもある。波は、泡を置き去りにして、引いていく。水滴は海の一部になり得るが、海は小さなひとつに戻ることはできない。離れたひとつの雫を海とは、言わないのだ。
大海に融合してしまった水滴は、誰にも見つけてもらえないだろう。そして、水滴とも、雫とも呼ぶ者はいなくなる。
特別のようなひとつは、大きな存在でしかいられなくなってしまう。それを悲しいというのなら、海は悲しみが集まった存在となってしまうのではないだろうか。
海に感情なんてないというのに。
わたしは、弟さんの気持ちが分かるような気がして、実際は少しも理解ができていないのだろう。これを同族嫌悪と呼ぶ人がいるかもしれない。しかし、全てが一致しないのなら、わたしたちは同族にさえなれないのだ。
「なにも自然死だけが人の寿命なんかじゃないんだって、その時に知ったんだ」
彼の発見は、わたしが水滴の死を初めて見た時と同じで、行動を大胆にさせたり、消極的にさせたり、これまでの考え方や生き方すらも変えてしまうほどの大きなことだったに違いない。
生きるか死ぬかの話なんて、生きることこそが全てであるはずで、彼のような人はネガティブを嫌うだろうに。きっと、弟のことを必死に考え、理解しようとしたのだろう。
わたしは、歩くんの部屋を思い浮かべる。
彼の部屋は、わたしなんかが掃除をしなくても綺麗だった。
職場ではまかないが出るのに、冷蔵庫の中は充実していた。
彼の部屋は、誰かが部屋にやって来ても快適に過ごせるような場所であった。それこそ、わたしのような人間が部屋に転がりこんだとしても、不自由など感じないほどに。
歩くんがいる部屋は、弟さんにとって安心できる場所なのだろう。
わたしはなんだか、あの部屋が酷く美しい場所に思えた。
「俺、梢ちゃんってアイツにすこーし似てんなって思っていてさ……あ、でも、重ねて見てるとかじゃなくって。なんていうのかな。アイツも、梢ちゃんも、ハリがあって、潤いのある人生に夢を見るとかもなくって……ただ手元にある物を大切にして、変わらない毎日を愛したいんだろうなって。そー思ったわけ。コツコツと生きて、その中で綺麗な朝日でも見れたら、幸せだと思える人なんだって。俺、勝手に思ってんだよね。……ごめん」
わたしは、謝る歩くんに驚いて歩みを止める。すると、立ち止まったわたしに気が付いた歩くんが「梢ちゃん?」と言って振り向いた。
「どうして謝るの?」
「だって、分かった気で語られるの嫌でしょ」
そうだ。それもそうなのだが……。
わたしは、彼の語ったことに、相槌すら打てずにいた。それなら、わたしが嫌がりそうなことを想像することもまた、分かった気でいると言えるのではないだろうか。
わたしはそこそこ良い大人になり、色々なことに諦める術を身につけた。それでも、わたしたちは分かり合えない。諦める方法を覚えたというのに。
しかし、分かり合えないことが普通だと理解することができたら、わたしたちは漸く相手を思いやれるのかもしれない。
だからね、歩くん。分かった気で語ることを悪いことのように思わなくて良いんだよ。
わたしなんかに謝る彼が、心外でならなかった。歩くんが謝る必要は何もない。生きることだって、死ぬことだって。この不自由のない世の中で、考え込んでしまうわたしが面倒なだけなの。
それにね、言葉にしていなかったけど、わたしだって歩くんと弟さんについて勝手に解釈して、関係を想像していたんだよ。適当なもんでしょ? 分かったふりをしながら話を聞いていたの。
「弟さんの根底にある考えは分からないけど、わたしは、水野歩が考えていることを知ることができて嬉しい。だから、謝らなくったっていいの。もし、わたしが弟さんと同じように、歩くんの言葉で泣いたとしても、謝らなくていいの。……わたしは、全て分かっている上で、わたしを諦めきれないんだから」
わたしは、再び歩み始める。踏み出した一歩が酷く重たい。当たり前だ。だって靴が濡れているのだから。
地面を踏み込むたびに、靴下から水が滲んで気持ち悪い。それも当たり前。濡れているんだから。
死んじゃダメだってことも、こんな事と同じように、当たり前なんだってこと。そんなことはね、よおく分かっているんだよ。
わたしだけじゃない。
みんな、分かっているの。
認識を揃えることが大切なんだよね?
けれども、想像してみて欲しいの。たまには雨に濡れたくなるよね。たまには息が切れるまで走りたくなるよね。大声で笑いたくなるよね。そんなことと同じで、大声で泣きたい時だってあるはず。
そんな衝動や欲求があることだって、当たり前で、普通のことなんだよ。
でも、わたしたちは後ろめたい普通は認められない。語ることを許せない。その片鱗を見つけたとき、わたしは苦しくなるの。
どうして、苦しむことさえ許しを得なければいけないのだろうか。
わたしたちは、どんなことにも自由であるべきでしょう? それがダメなんだって。どうして? 他人のことを出さずに、わたしだけを思いやって、説明することができる? できないよね。わたしの心に訴えかけるためには、他人の情を押し付けなくてはいけないんだから。それでは心が揺るがないことくらい、気づいているんだよね? だから、怒って泣くの。誰かのために、大切な人のために。わたしたちは、諦めずに手を取るんだ。
「大勢の人と知り合いにならなくたっていい。住んでいる町以外を知らなくてもいい。わたしは、見慣れた町の影を横目に、太陽が暮れるのを見たい。それだけで、今日は良い一日だったって思えるの……わたしは、何も暗がりだけが美しく見える訳じゃないよ。貴方が言ったとおり」
わたしは、不格好に笑って見せる。貴方が想像したことは、全てが間違えているわけじゃないよ。理解してやれないなんて、悲しまないで。
歩くんは、わたしが極悪人だったらどうするのかと訊ねた時と同じように、目を丸め、「……そっか」と呟いた。
時に、孤独はわたしが疲弊するまで追い詰めるが、決して離れることはない。
影の切り離し方を知らないのだから、諦めるしかない。孤独はいつだって傍にいる。
それなのに、わたしは臆病だから、時として孤独を押し退けて誰かの手を取ってしまう。振り向きざまに見る孤独は、深い暗闇。いつでも戻っておいでと言いたげに、その場から動かずにわたしを手招く。
暗がりは、いつも、いつまでも、わたしの傍にいた。
歩くんは知っているだろうか? 孤独が安心できる場所でもあるということを。
「さて、と。帰ろうか」
歩くんは、わたしが投げ捨てた自転車を起こし、持ち上げるようにして砂浜から救出した。
白い柵を跨いで歩道に立つと、途端に靴の湿りや中の砂のじゃりじゃりとした感触が不快になった。少し離れた場所には、道路脇に停まっている白の軽トラックが見える。歩くんは、砂に自転車のタイヤの跡が残っていたのを発見したのかもしれない。それで、投げ捨てられた自転車を見つけて、後に続く足跡を辿って、わたしの元に……。
わたしは、溜息をつきたい衝動をグッと堪えた。
歩き始めると、車輪がカラカラと音を立てる。
砂が足の背に擦れて痛い。
靴の中の気持ち悪さも、痛みも、まさに自業自得というものだった。
「わたし、自分の不幸はずっと付き合っていかなきゃいけないって言ったじゃない? ……でもね、自分のことは嫌いじゃあないんだよね」
歩道は、海に沿うように弧を描いていた。
海を目指していた時は見えなかった景色が、良く見える。
「うん。……俺もさ、俺と一生付き合わなきゃいけないの、疲れる。でも、俺が俺で良かったと思う時があるかな」
「…………ね」
横目に歩くんを見ると、彼は口元に笑みを浮かべて頷いた。
暗がりを目指そうが、明るい場所を目指そうが、わたしたちは懸命に歩いている。
「俺さ、イヤな思いさせたこと、弟に謝れていないんだ。アイツ、たまに部屋に来ても、さっさと帰っちゃうの。……俺がまた悪い癖で、楽しい話題を必死こいて話そうとしちゃうから。アイツが部屋にいる短い時間でさえ、俺はアイツを傷つけてるんだと思う。でも、梢ちゃんと過ごして、話題を探してまで話をしなくて良いんだって。そういうの、少しずつ分かるようになってきたんだよね」
濡れた体も、彼が話したがっている話も重たい。しかし、自転車のタイヤが軽やかな音で一定の音を刻み、無責任にわたしたちの会話を回そうとしていた。
「俺ね、夏の蝉ってすごく好きでさ。目を閉じて、蝉が鳴き始めて鳴き終わるまで、床に寝転んで聞いてんの。……それなのに、どうしてアイツには同じように接してやれないのかな。どうして、これまでアイツが話し始めるのを待ってやれなかったのか……分かんないんだよね。沈黙が気まずいのは俺だけなのに、アイツが聞きたい音を遮っていたとしたら……ほんとう、俺ってダメな奴だよなあ」
わたしは、空と海の間に視線を向けて目を細める。
水野 歩とは、明るくて、優しい人だ。誰もが彼を好むことだろう。彼を好く人は、彼と色々な話をしたり、色々な場所に行きたいと思うはず。そして、歩くんは屈託なく人の輪に飛び込み、大勢の中でやっていける類の人種だ。
しかし、わたしが知る歩くんは、時々、寂しげに見えた。
蝉が鳴き始めて、そして鳴き終えるまで。目を閉じてジッとしている彼の姿を思い浮かべる。きっと、夏の音に耳を傾けることは、彼にとって有意義な時間なのだろう。
「これからわたしが言うことは、歩くんに全く響かないと思うんだけどさ」
「聞いてみなきゃ分かんないよ?」
わたしは、彼が弟が望むような振る舞いをしてやれないという言葉に引っかかった。だから言いたい。言ってやりたくなった。
「……歩くんの空回りは、無駄じゃないと思う」
額に張り付いた前髪の鋭利な先が、無防備な目を刺すものだから、煩わしくなって手で避ける。ああ、もう。気持ち悪い。
「わたしも、話題に富んだ歩くんの話に相槌を打つのは、時たま疲れる時があったけど」
「……やっぱり?」
あちゃあ、と困ったような声を出した彼が情けないやら、可笑しいやら。
わたしはこっそりと笑う。
「でも、ちゃんと話を聞いてるよ。……ひとつひとつに合いの手を入れられないけど、無視したりなんかしてないでしょ?」
「うん」
「居心地が良いの。耳を塞ぐなんて、勿体ない」
心の内を話すことは難しいし、恥ずかしい。他人に受け入れられないと思っている内容であればあるほど、口は堅く閉ざされる。
察しろなんてことは言わない。ただ、不安がる彼に、人の感情や思いは、言葉だけが伝える手段ではないということを、少しでも分かって欲しいと思った。彼は彼なりにしていることの大きさに気づき、そして受け取る側の反応を恐れずに思い出すべきだ。
イヤな相手なら家族であれ、会わずに過ごすことだってできる。しかし、弟さんが以前と変わらずに歩くんの部屋に訪れるというのなら、その行動こそ、弟さんが望んでしていることなのだと。
「ね。弟さんも、わたしと同じならいいなって思うよ」
わたしが、歩くんのひと声で彼の家に留まっていることも、こうして肩を並べながら彼の部屋に帰ろうとしていることも、彼は自然の流れとでも思っているのかもしれない。しかし、普通は知らない人の家には留まらない。知らない人に心の内なんて簡単に明かさない。
帰るよ、と迎えに来たからって、分かった、と隣に並んで、同じ場所に帰る人ばかりではない。
いくら手を引いてみても、その場から動いてくれないかもしれない。
心の内を明かしても、共感してくれないかもしれない。
これだけでも、沢山の拒絶があるかもしれないんだ。
他人に、自分が思い描いた行動をさせようとしても、上手くいくことばかりではないんだよ。
きっとね、弟さんはあの部屋が綺麗な理由も、冷蔵庫の中が満たされていることにも気が付いていると思う。だって、歩くんが言うように、なんだか、あの人はわたしと似ている気がするから。
わたしたちは、目が合うとその視線を逸らした。しかし、また相手の様子を伺うように向けた視線が、同じタイミングで交わる。わたしたちは、今この瞬間にも、何度でも相手を思いやりたいと思っているのだろう。
空から鳴き声が聞こえて、わたしは音を辿るように海に視線を向ける。空には、沿岸を網羅したカモメが、空を飛べぬわたしたちを余所目に飛んでいた。
白い鳥の姿を目で追いかけると、いつの間にか雨は止んでいたのだと気が付く。遠くの港の空は白さを増し、朧げに光っていた。
今になって思い出したことがある。
嗚呼、なんてことだろう。わたしは、どんな色の空も好きだったじゃないか。
いま、この瞬間に――、雲の切れ間から一筋の光が降りたなら、わたしは感に堪えないだろう。それが幾つもとなるなら、明日も、明後日も、遠い未来でも。曇天の景色は光り続けてくれるだろうか。
荒れつくした景色を眺めながら歩いていると、歩道より低い海を見下ろしているのか、遠くの空を見上げているのか分からなくなる。
もしも、海から見たのが降り注ぐ光の梯子だったのなら、なんて神秘的なのだろうか。
水に沈もうが、長い道を歩き続けようが。もしも、幾つもの光が荒れ狂う海を慰めるように海面を照らしたのなら、わたしが生きていることも、死んでしまうことも、美しいと思わずにはいられないだろう。
外から世界を見ている人は、厚い雲が閉ざしたこの世界の内側に、柔らかく空いた穴から美しい一筋の光が降りてくることを期待した人間がいることなんて気づきやしない。
「雲が流れてゆくね」
「……うん」
嗚呼、これほど期待した景色を見たいと思ったことはあっただろうか。
目の端に見える歩くんも、空と海を凝視していた。彼も期待しているのだろう。
もし、待ち望んでいる光を見ることができたなら、わたしたちは揃いも揃って、奇跡を信じてしまうのだろうか。
奇跡とは、実に便利な言葉だと思っていた。しかし、今、この瞬間に見た光こそが奇跡の姿なのだと。
もし、奇跡はあると認めることができたのなら。
生涯を終えるその瞬間まで、わたしはこの光景を覚えているだろう。