5 同じ顔
同じ顔
翌日、わたしは歩くんが教えてくれた喫茶店にやって来た。
店の名前は『コーヒーショップ佐々木』。外壁の下半分がレンガで覆われた建物に、ツタが絡まっている。
貫禄を感じさせる店の外観を眺めた後、わたしは少し重たい木の扉を押し開く。すると、重厚な鈴の音がカランと響いた。
静かに入るつもりだったわたしには、低く響く鈴の音が容赦ないものに感じられた。
店内は艶やかな濃いブラウンで包まれている。窓の端を飾るのはフランス刺繍が施されたレースカーテン。年季の入ったテーブルは大切に扱われてきたことを誇るように光沢を放っている。
店の奥が喫煙席だったのか、タバコの煙が寄り道をしながら、わたしが座った席までかすかに漂ってきた。
小麦を焼く香ばしい匂いや、ソファーの匂い、そしてコーヒーの香りがタバコの煙を包み込み、本来の葉の香りを思い出させた。
わたしにとって葉などは、飲もうが、吸おうが、鑑賞しようが、葉は葉でしかない。それはただの楽しみの一つに過ぎなかった。
店内を見渡していた視線を窓の外に向けると、ゆったりとした時間が流れた。
外の通りを眺めていると、自転車に乗った大学生くらいの女の子が通り過ぎて行った。柔らかなポニーテールが揺れ、その根元を結んでいるオレンジ色のシュシュが可愛らしい。
朝の番組で、モデルが今年の流行色はオレンジ色だと言っていたっけ。
「お待たせいたしました~」
「ありがとうございます」
見慣れない町並みを眺めていると、店員さんがホットコーヒーを運んできてくれた。
コーヒーカップとソーサーは純白で、王道のデザインだ。淡く立つ湯気を控えめに吸い込むと、胸が躍った。嗚呼、いい香り。
機嫌の良くなったわたしが短くお礼を言うと、店員さんはにっこりと笑い、「ごゆっくりお過ごしください」と言ってから、別のテーブルへ向かった。
わたしはコーヒーカップの持ち手に指を引っ掛け、カップを鼻先に近づけてコーヒーの香りを楽しんだ。瞼を閉じ、深く息を吸い込む。溜息を吐くよりも慎重に、息を吐くと同時に瞼を開いた。
肺をコーヒーの香りと店内の空気で満たすと、わたしはようやくこの喫茶店に馴染んだと感じた。
この町に来たばかりの頃は、ただあの部屋にいるだけで気が楽だと思っていた。それが今では、この窓から見える本屋のことが気になっているのだから、自分ながら呑気なものだと思う。つくづく、心とは不思議なものである。
港町であるため、天候の変化は激しい。わたしは帰るまでに雨が降らないようにと、空に願った。
「……死ぬために、こんな遠くに来るわけない」
呟いた言葉は嘘偽りがないが、心の変化はそれを嘘だと思いたがった。
零れたのは本心であるはずなのに、なぜか罪悪感が生まれた。
しかし、あの日のわたしは、どう見ても死のうとしている人間の姿だっただろうし、わたし自身、あの時は死んでもいいと思っていた。そうすると、呟いた言葉は正しくないのかもしれない。望んでいないが、否定もしない。要するに、自分の生死についてはどうでもいいと思っていたのだ。
厄介な自分に呆れながら、わたしはテーブルの上のコーヒーを見つめる。
コーヒーカップの取っ手に指を入れると、じんわりと伝わる温かさに目元が緩んだ。
香りを楽しみながら、湯気の立つコーヒーを恐る恐る口に含むと、口の中から鼻にかけて良い香りが広がった。
わたしは人並みに幸せを願っている。自分の幸せも、他人の幸せも。しかし、その幸せの内容は他の人とは違う。
わたしはどうしようもない我儘だから、他人が死ぬことには耐えられないが、自分が死ぬことには美意識すら持っていた。『普通』を生きている人からすれば、わたしのような人間は心の悪い病にかかっていると考えるのだろう。誰だって、後ろめたいことを思う時があるはずなのに、その考えを悪だと言う人がいるのだ。
わたしにとって、生死の波が押し引きする感覚は普通であり、今さらになって自分の考えを否定する生き方など知らない。それだというのに、否定されることばかりだというのなら、いっそのこと、心がカメレオンのように変われば良かったのにと思う。悪目立ちせずに、馴染んで、馴染んで、やがて自分の心の形がどのような姿だったか忘れてしまう。そんな哀れなカメレオン。
そうしたら、わたしはカメレオンが安心して眠れるように、胸の内を温めるように抱きしめて、一緒に眠りにつくだろうに。しかし、そんな心を持っていても、心が救いを求めていないのだから意味などないだろう。
コーヒーフレッシュのツメを折って封を開けると、指にミルクの小さな一滴が付着した。それを見て少しガッカリしつつも、コーヒーに容器の中身を全て注ぎ入れる。カップの中でミルクが自然に広がっていくのを眺めるともなく眺め、喫茶店のロゴが入ったナプキンで、指についたミルクを丁寧に拭き取った。
心が元気な時はストレート。まったりしたい時はミルクを入れて、元気が欲しい時は砂糖を入れる。今日のわたしは元気だが、気分はそれほどでもなく、ミルクの他にソーサーに乗っていた角砂糖を二つ入れた。
コーヒースプーンをグルグルと回せば、あっという間にカップの中はミルキーブラウンに変わった。
ひと口、ふた口とコーヒーを堪能していると、向かい側の奥の席を背にした席から人が立ったので、何の気なしにわたしはちらりとその人を見る。その人が会計に向かうだろうと体を翻すその瞬間、何となくテーブルに視線を落として視線を逸らそうとしたが、わたしは思わず顔を上げてその人の名前を口にした。
「歩くん?」
席は窓際に沿うようなボックス型で、椅子の背もたれが高く、それが壁のような役割を果たしていた。だから、気が付かなかった。
名前を呼ばれた彼は、立ち上がる時に自分が座っていた椅子の背もたれに手を置いたまま、こちらを凝視していた。
「…………歩は、俺の兄だけど」
訝しげな顔で伝えられた言葉をゆっくりと反芻する。
兄? ……歩くん、兄弟いたんだ。
両親の存在は知っていたが、兄弟の存在は知らなかった。
「あ、えっと……人違いです。すみません」
値踏みするように目を細めて見つめてくる彼の視線が気まずくて、わたしは彼から視線を逸らす。謝ったのだから、さっさと行ってくれることを願ったが、その願いは空しく、彼はわたしの向かいの席に座った。
「もしかして、歩の部屋に居座ってるのってアンタ?」
彼の予想外な行動に、驚いて俯き気味だった顔を上げると、歩くんとよく似た顔が冷ややかな表情を浮かべてこちらを見ていた。
似ているけど、全然似ていない。
でも、この人は歩くんの兄弟なのだと言った。
「彼女がいるとは知らなかったな」
「彼女ではないです」
「違うの?」
歩くんの名誉のために、間髪入れず否定しておく。わたしと彼は、友達と呼べるかも分からない関係。それをすっ飛ばして恋人なんて言われては、たまったものではない。
彼はわたしに対して、また危ない行動を起こすのではないかと心配しているのだろう。だから、まだあの部屋で過ごさせてくれている。もしかすると、保護をしているような感覚なのかもしれない。
「じゃあ何?」
何、と聞かれて、わたしは思案するように眉を顰める。
彼とわたしの関係性をどう答えれば正解なのだろうか。助けた人と助けられた人? 命の恩人?
頭に浮かんだ言葉が、あまりにもチープに感じられた。
彼がいるあの部屋は心を穏やかにしてくれるけれど、わたしは命を救われたなんて微塵も思っちゃいない。
あの時、もしもわたしの心が彼の行動を受け入れられなかったら、歩くんの行動は余計なお世話と呼ぶのが相応しいだろう。また、彼の行動を受け入れたからといって、わたしたちの関係に名前がつく気配はない。
「雨宿りに屋根を貸して貰っている、野良です」
「野良……猫?」
「いえ……野良、人間といいますか」
流石に、顔見知りから知人に進展はしたが、その距離の近さが図々しいほどに感じられた。
わたしたちは、顔見知りや知人よりも少し距離がある。
自分の返答に居た堪れなくなって、頬を掻きながら、目の前に座っている人の様子を窺う。
どんな返答を期待されているのか、まったく予想がつかない。
「……んは」
目の前の彼は、歩くんとよく似た顔で笑った。
そんな彼の表情に、わたしは小さく目を見張る。
「そうなんだ……雨宿り、ねえ?」
しっとりと雨に濡れるように呟いた目の前の彼は、陽だまりのような歩くんの姿から遠ざかっていく。
彼は窓の外をチラリと見たあと、わたしに視線を戻し、三日月のように弧を描いて目を細めた。
「それで、歩は働いて、アンタはここでお茶をしてるってわけか」
彼の言う通りで、わたしは再び視線を落とす。
随分と良いご身分であろう。綺麗な部屋を掃除しようが、貢献したことにはならない。彼が望んで他人の料理を食べて喜んでも、彼が作る料理には一生かかっても及ばない。そんなご飯を作っても、やはり、彼のためにしたこととは思えなかった。
「本当は何しに来たの?」
初対面でありながら、まるでこちらの返答を知っているかのような彼の口ぶりに、わたしは違和感を覚えた。わたしの心を見透かそうと、気構えているようにさえ思える。わたしは存外、いいや、救いようがないくらい疑り深い女である。……この人は、わたしを良く思っていないのだろう。
「海を見に」
「海?」
「荒れた海を見に来たんです」
どうせ碌でもない印象を持たれているのだ。わたしは正直に、この町に来た理由を話した。
まるで不貞腐れるように窓の外を見ると、ハタキを持ったおばあさんが本屋から出てきた。
「……アイツもそーゆー星の下に生まれたのかね」
先ほどよりも、彼の言葉に若干の柔らかさを感じ、彼に視線を戻す。彼の目は力強くも同情しているようであった。そして「いきなり邪魔をして悪かった」と言うと、立ち上がった。
そのまま去っていくと思っていた彼が、わたしの横を通り過ぎようとして、ふと歩みを止める。
「歩は優しいでしょ」
彼の言葉には、どれほどの棘が隠されていただろうか。
歩くんは優しい。しかし、彼の言葉には兄弟を誇示する気配が見られない。
たった一言だった。その立った一言に、重苦しいものを感じた。
彼は、言いたいことを述べ終えたのか、伝票を手に持って会計に向かっていった。
わたしは彼が店を出て行くのを見届けると、コーヒーの湯気を見つめる。ゆっくりと瞬きをすると、名も知らぬの彼との出会いが朧げに感じられた。
あの人は同類だ。わたしと同じく、暗がりさえ好むような人間。彼が最後に吐き捨てた言葉を頭の中で繰り返すと、どうしてかそう思った。
もしかして、歩くんは彼に愛情を与えすぎたのだろうか。
彼が、もういらないって拒絶するまで。
――歩は優しいでしょ。
彼の表情や言葉が、歩くんの陰りと重なる。
――歩は優しいでしょ。
その巧みな一言は、二人の間には何かあったのでは、とわたしに勘繰らせた。
わたしが植物に栄養を与えすぎることは良くないと話したとき、歩くんは酷く悲しげに見えた。
あの時の歩くんは、さっきの彼を思い出していたのだろうか。
夜、帰宅した歩くんは喫茶店に行ったのかとわたしに訊ねた。
わたしは歩くんの弟に会ったことは話さず、店内の装飾が落ち着いていて素敵だったことや喫茶店の向かいにある本屋が気になったことを話した。
歩くんはわたしの話を嬉しそうに聞きながら、喫茶店にあるメニューの話をしたりした。あの喫茶店にはナポリタンやドリアなんかもあり、美味しいのだと。
次に、わたしの足があの喫茶店に向くのはいつになるのか。勧められたメニューは気になるものの、わたしに与えられた時間には限りがあった。けれども、そんなことまで彼にぼやく必要はないと考えたわたしは「美味しそう」とだけ呟いた。
わたしたちの会話は喫茶店の内装や家具の話題に移り変わり、さらには海外の話題に広がった。彼も飲食店で働いているからか、料理だけでなく店内の雰囲気作りについても話を弾ませた。
そうして話が進むうちに、歩くんは両親のことを話し始めた。歩くんの父親は洋食屋でコックをしており、母親はウェイターをしているのだという。幼い頃は、朝と夜ご飯は両親が経営している店に行き、ご飯を食べていたらしい。
「だからかなぁ、濃い味に慣れちゃってるかも」
「この前、始めて買った豆腐の舌触りがどうとか言っていたのに」
「あぁ、それもそっか」
歩くんは「繊細さをなくしたら、やっていく自信なくなるもんなー」と言いながら、コンビニで買って来たというプリンをスプーンで掬って口に入れた。
テレビには、到底食べきれない量のご飯が映し出され、スタジオの演者が笑ったり、驚いたりしていた。
「うちの父親は寡黙でさ、怒っても大声を出したりするようなことはないけど、凄まれると怖いんだよね。圧が増すというか」
父親の真似をしているのか、歩くんは顔を顰めた。しかし、そんな表情も直ぐに緩み「でも、優しいんだよね」と続けた。
「学校のテストで良い点が取れたって話すと、ココアにホイップクリームを乗せてくれたり、オムライスにいつもより多くウィンナーを入れてくれたりしてさ。相槌だって大してないんだけど、ちゃんと話を聞いてくれてるって、それだけで分かるんだよね」
わたしは自分の分のプリンに視線を落とし、歩くんの幼い姿を思い浮かべた。
彼が話をするのは、お客さんの出入りが少ない時間だろうか? もしかすると、床につかない足をブラブラと揺らして椅子に座っていただろうか。
お店の隅に座る小さな背中を思い浮かべると、わたしの表情も緩んだ。
「お母さんは、おしゃべりな俺の鼻を注意がてらに摘まむんだけど、その後に頭を撫でてくれてさ。常連さんは、その様子を面白そうに見ていて、俺にどんな一日を過ごしたか聞いてくれんの。で、また俺は喋り続けて、その繰り返し」
「楽しそうだね」
「うん。俺がお父さんと同じ職業を志したのは、そういった環境が身近にあったからだと思うんだよね」
彼は、惜しみなく愛情の中で育った話をしてくれた。嬉しい反面、わたしの心は複雑だった。
なんせ、未だその中に弟の話は出てこないのだから。
「友達とは何処に行って遊んだりしたの? やっぱり、海?」
「海はねー、砂浜に出るまでは道のりが長いから、中学生に上がるまでは駄目って言われてたかな。中学生になったら行くこともあったけど」
「交通量が多い道だもんね」
「そうそう」
港町の子供にも、ちゃんとしたルールがあるのか。子供の安全を考えるなど当たり前のことだが、わたしは感心した。
「あ、そうだ。俺も植物を育てていた時期があったんだよ」
パッとこちらを見る気配がして、わたしは視線を上げる。予想通り歩くんはわたしに顔を向けて笑っていた。
「うちの親がやってる店に置いててさ。アイチアカとかゴムの木とか、あと、トラノオとか。ゴムの木は金運が上がるって聞いたから、特に気に掛けてたよ」
「いろいろ育てていたんだね」
「父親の趣味なんだけどね。でも、店番にもならないからって、水やりだけを任されてたの。俺ってお喋りな方だから、煩かったんだろうね。葉の埃を払ったり、丁寧に作業をさせたら、暫くは静かだと思ってたんじゃないかな」
「煩いってわけじゃないでしょ」
「梢ちゃんはそう思ってくれる? でも、親ってそうもいかないでしょ。きっと」
「まあ……そうかも?」
「あ、心当たりある顔してる」
「まぁ、まぁまぁ……仰るとおりで」
よくよく思い返してみると、小学校に上がった頃の自分もまた、ずっと親に一日の出来事を話していた気がする。わたしの母親は、早い段階で「はい、おわり」と聞くのを止めるタイプだったから、お手伝いを課している方が優しく思えるんだけどな。
プリンを食べ終えた歩くんは、ふい、とテレビに顔を戻す。わたしはなんだか気になって、歩くんを見つめる。
「梢ちゃんの家は? どんな感じだった?」
「わたしの家は、お父さんが外に働きに出て、お母さんは家で家事をしていたよ。わたしは中学生になると部活に入ったから、土日も関係なく学校に行っていたし、よくよく考えたら大学に進学して家を出るまで、あっさりとした会話しかしていなかったかも」
「部活って何してたの?」
「バレーだよ。万年補欠。でも、練習は欠かさず行かなきゃいけないからね」
「そっかー」
あっさりとした会話しかないと言ったけれど、それでもわたしたちは仲が良い家族だと思う。小学生の頃は、よくキャンプに連れて行ってもらったり、プラネタリウムや動物園、水族館、海にも連れて行ってもらった。特に水族館で買った光るクリオネのキーホルダーを、実家にあるわたしの学習机に仕舞い込んでいるのを思い出すと、当時のわたしは本当に楽しかったのだと思う。そして小さなキーホルダーを整理することもせずに取っておいているわたしは、今でも、家族との思い出を大切にしているのかもしれない。
けれども、こうして歩くんと話すまで、しみじみと家族との思い出を振り返るようなことはなかった。それは、変わらない時間が実家にはあると、わたし自身が信じて疑わないからなのだろう。
「ねぇ、歩くんは家族のこと好き?」
「……え、家族?」
歩くんが再びわたしを振り向くと、その目はまんまるに丸められていた。ふとした瞬間に、彼が照れる様子や、話をはぐらかす可能性を考えてしまう。男性にとって、家族の話題は避けがちなこともあるだろう。だから、彼の反応に期待を抱きながら、わたしは質問を投げかけた。
「うん、好きだよ」
彼の顔には「当たり前でしょ?」と言いたげな表情が浮かぶ。その光景に、わたしは口を噤む。彼の真摯な性格が、ここでも現れていた。
しかし、思わず口を滑らせそうになったのは、なぜ弟さんの話が出てこないのか、という疑問だった。その問いを、わたしは静かに頷きながら内に抑える。
「梢ちゃんは、家族が好き?」
「うん。わたしも、家族が好きだよ」
「そっか。なんか、それを知れただけで、安心したかも」
へへ、と笑う歩くんを見て、わたしは、ふいにテレビに顔を向けた彼の行動が気になったことに合点が付いた。
彼はわたしの危ない行動の原因を家庭環境にあるかもしれないと考えていたのだろう。残念ということはないだろうが、それは違う。
もし、わたしの行動に家族が関係していたのなら、もう少し焦点を絞って悩むことができたかもしれない。しかし、わたしの行動にはそのような筋道立てた理由はない。あんな場所にいた理由を簡単にいってしまえば、天候が悪かったから遠出したくなった、というだけ。
「好きな理由も、嫌いな理由も、聞かれたなら答えられるよ。――なんだってね」
それでは『聞かれていないことは話さない』と言っているようなものかもしれない。別に、そういうわけでもないが、わたしのこれまでの態度や行動は、似たようなものだったかもしれない。
歩くんは、わたしに『海に来た本当の理由』を聞かない。
他人からしたら陳腐な理由ではあるが、わたしにとって言葉にするにはあまりにも複雑だった。だから、わたしは話を切り出すことを躊躇い続けている。
「……わたしは、勝手に納得する癖があるんだと思う」
「たとえば、どんな感じに?」
わたしは手元にあるプリンに視線を落とす。二口ほどしか食べていないから、カラメルソースは未だ見えない。
「起こった物事に関して、理由は必ずあるんだよ。それが理に適っていなくても、理由を聞けば、理解が及ばないことでも納得できるの。誰かが思う好きも、嫌いも、嬉しいも、悲しいも……なんでも」
「理由を見つけられないときは、モヤモヤする?」
「そう」
「じゃあ、梢ちゃんの行動にも理由があるんだね」
彼の言葉に、わたしはハッと息を飲む。しまった、と思った。これでは、わたしが海に来た理由にも、きちんとした説明がついてしまうではないか。
歩くんは、とうとうわたしの行動の意味を知りたくなったのだろうか。ずいぶんと遅い気もするが、そのおかげでわたしの心が開きつつあるのも事実である。
ここまで世話になったのだ。彼には話すべきか……。しかし、彼に話して何になるというのだろう。
わたしが心の内を明かしたところで、彼が共感してくれるなんて期待していない。ましてや、わたしは誰かに共感して欲しいわけではない。
その上で、わたしの行動の説明をするとなると、彼が理解してくれない部分まで説明しなくてはいけなくなる。
それは避けたい。
「ごめん。ちょっと立ち入りすぎた」
「え……?」
「俺も、人の行動には意味があると思ってるよ。たとえ矛盾があったとしても、行動を起こすまでに頭はよく回って、心は色々なことを感じてるって、そう思ってる」
わたしがグルグルと思考にとらわれていると、歩くんは肯定を示した。
「歩くんは……」
どうして、そうやってなんでも受け入れようとするのか――。問いただしたくなったが、わたしは口を結び我慢した。彼を問い詰めれば、わたしは話さなくてはいけなくなる。
折角、歩くんが話題を切り替えるチャンスをくれたのに、言い渋るわたしがそれを無下にする理由はない。
変な空気を作ってしまったことの罪悪感もある。さっきまで楽しい話をしていたというのにね。
わたしは顔をあげて、彼に笑みを作って見せる。
「大袈裟に捉えないでよ」
わたしが話した余計な言葉は、冗談めいた話と思ってくれたらいい。ただの思い付きで、それこそ無意味な会話だったって。 困惑していてもいい。ただ、少しでも笑ってくれたらいいよ。
しかし、わたしの期待とは逆に、歩くんは寂しげな顔をしていた。
きっと、わたしは間違えたのだろう。
翌日になっても、歩くんの表情が頭から離れなかった。
彼は人と真剣に向き合おうとする人だ。だから、相手が誤魔化そうとすると、悲しそうな顔をする。
それって、もしかして自分勝手なんじゃないだろうか? そんなことを考えてしまうわたしがいる。
本当にそうだろうか。人が他者を思いやれなくなったら、それこそ生きづらい世の中になってしまう。それなのに、わたしは彼のそのお人よしな一面を、どこか疑問視してしまうのだ。
モンステラの葉の表面を拭きながら、わたしは自身の振る舞いを反省していた。
優しい人を見ると、自分が情けなくなった。
優しい言葉を投げられたら、自分が惨めに思えた。
他人の自分に対する関心に、わたしは酷く怯えていた。だから、何もない存在でいたいと――。
「バカみたい」
大きな溜息をついても、誰もいない部屋では気を使うことはなかった。
何もない存在でいたいなんて、それこそ矛盾した考えだ。もし本当に何もなくなってしまいたいと思っているのなら、今頃、冷たい海に身を投げていただろうに。
しかし、その矛盾があるからこそ、わたしは生きている。存在したいという欲求が、己には残っているのだ。
わたしはグッと眉間を寄せると、気持ちを切り替える。
これまで、自分とは嫌というほど向き合ってきた。しかし、いま気がかりなのは、歩くんのことだ。
「歩くんにとって、彼との思い出話はしたくないことなのかな……」
彼というのは、喫茶店で会った歩くんの弟さんのことだ。
歩くんは、話したくないというよりも、兄弟であるからこそ、他人に何でもかんでも話してはいけないと考えているのだろうか。
ふとした仕草が歩くんと似ていた、名も知らぬ彼。仕草が似るということは、それだけ同じ時間を過ごしたということ。しかし、似ていると感じる一方で、冷ややかにも感じた弟さんの視線を思い出すと、歩くんとは似ても似つかない存在にも感じた。
似ているが、似ていない。当たり前だ。彼と歩くんは別の人間なのだから。
わたしは、歩くんと弟さんのことを整理しようとして、どうしたいのだろうか。他人の関係に口を出す気もないくせに、なんて無駄な思考だろうか。
「君たちは分かりやすくいいよね。水が足りないと、他の葉を切り捨てて、葉の先から干からびていくんだもの。限界に向かってることなんて、目に見えて分かる」
それに比べて、人間というのは、なんて分かりにくいんだろう。
些細な表情の変化を見過ごせば、相手は普通に笑って見えるのだ。それでは、次にどんな話をするべきか、分からないじゃない。
鈍感さを身に付けたいとは思っても、他人に対しては鈍感で在りたくない。
彼が愛情を与え過ぎて、相手を傷つけることを恐れている心情を知りたいと思った。それだけだった筈なのに、わたしは歩くんを安易に傷つけてしまったのかもしれない。
「自分は何も言わないくせに……自分は、何も語らないくせに」
わたしは、彼からの厚意を受けるに値する人間なのだろうか? 未だ、ここにやって来たことを曖昧な言葉に隠し、大きな貢献をもたらすような働きも見せられない。わたしは、不誠実だ。
家まで提供してくれる彼に対して、あまりにも誠意の欠片もないのではないだろうか。
「このままじゃ嫌だな」
このままじゃ、ダメだ――。わたし自身が駄目になってしまう。
ちっぽけであることに安心することがあっても、誠実さが失われることには耐えがたい。わたしが考えるちっぽけとは、手酷く投げ捨てるような感情のことをいうのではない。
ただ在るだけで、肯定も否定もされない。そんなことをちっぽけだと考えているのだ。