3 歩の部屋
この物語はもともと縦読み形式で執筆していましたが、現在、横書きでも読みやすいように編集を進めています。
現在は第3話まで改稿済みです。以降も順次更新予定ですので、お楽しみいただければ嬉しいです。
歩の部屋
浜辺で青年に拾われてから、もう三日が経った。言い換えれば、わたしは彼の家に居候してから三日目になる。
わたしを拾った青年の名前は『水野歩』。うら若い青年かと思いきや、わたしよりも何歳か年上なのだという。
この町で生まれ育ち、調理の学校を卒業してからは、親が運営している洋食屋さんのコックをしていると話していた。
わたしは、彼を「歩くん」と呼ぶことにした。
健康そのものの見た目から、もっと力仕事をしているのかと思っていたが、彼は「コックも力仕事だし、ケガも多いんだよ」と眉尻を下げて笑った。
歩くんは朝早くに家を出て、夜遅くに帰ってくる。開店前にやらなくてはいけないことが、たくさんあるのだという。
わたしは、あまり片付ける必要もない家主不在の部屋を掃除し、自分の昼ご飯を作り、彼の部屋にある本を読んだ。料理に関する本がたくさんあり、コックをしているのは本当なんだなと実感した。
自転車は、わたしが歩くんに拾われた翌日、彼が取りに行ってくれたものだ。今は輪行袋に入れて、玄関に置いてある。
昨晩、歩くんは「梢ちゃんが作ったご飯、食べたいなー」と唐突に言った。
プロに振る舞えるほどのものは作れないが、お世話になっている人の頼みを断るわけにはいかない。わたしは焼きそばを作って、彼と一緒に夕食をとった。
会話もそこそこに、わたしはテレビを見ながら呟く。
「そろそろ帰ろうかな」
「急だね」
焼きそばを頬張りながら、歩くんは上目遣いでこちらを見た。キャベツを大きく切りすぎたかもしれない。少し食べにくそうだった。
「植物、家で育てているんだけどさ……枯らす前には帰らないとって思ってたんだよね」
「ふうん」
歩くんは、穿った見方をせず、細かく詮索もしてこない。それが心地よい。けれど、自分が素性を隠しているようで、どこか落ち着かない。
「何を育ててるの?」
「……モンステラとか、パキラかな。あとサボテン」
「へえ」
テレビではお笑い芸人が司会者に頭を叩かれていた。
「花とか咲く?」
「サボテンは咲くよ」
「いいね」
歩くんは、小さなガラスコップを片手に水を飲み、ぐびっと喉を鳴らした。コップは、おばあちゃんの家にありそうな、レトロなデザインだった。
「梢ちゃんはさ、元通りになりそう?」
元通り――それは、何を指しているのだろう。
心? まさか、そんなこと。たぶん、元の暮らしのことを言っているのかもしれない。
「……そうかもね」
適当に相槌を打ちながらも、今の生活と前の生活の違いを考える。
前の暮らし――いつもの生活といえば、部屋を掃除し、洗濯をし、ご飯を作る。鉢の土の表面が乾いたら植物に水をやり、休日に暇を感じたら図書館に行ったり、お気に入りの本を持って好きなカフェに出かけたりする。
この町での暮らしと違うのは、わたしが仕事をしていないこと。植物がないこと。
そして、この部屋に来てから、一度も外に出ていないことだ。
「あのさ、仕事のこと聞いていい?」
歩くんは紅ショウガを皿に取りながら、改まった調子で尋ねた。
「なに?」
「今って休みなの?」
今さら、と思った。初めて会った日から三日が経つというのに、彼はわたしのことを何ひとつ聞いてこなかった。たとえ、わたしの存在を受け入れてくれているとはいえ、心のどこかで気にしていたに違いない。
見ず知らずの人間が家にいる状況は、落ち着かないに決まっている。あなたは毎日忙しそうに働いているというのに、わたしはこの有様だ。
彼はもっと早く、わたしのことを知るべきだったのかもしれない。
「一か月まるまる休ませてもらってる」
「それなら遠くに行きたくもなるわなー」
麺を啜りながら「うんうん」と肯定する彼の姿を見て、呑気なものだなと思った。一か月もまとめて休める職場なんて、どんなところか気にならないのだろうか。
とはいえ、その呑気さが妙に心地よくて、気がつけばもう三日もこの部屋にいる。わたしが呆れるのは、少し筋違いかもしれない。
「もしかして、帰りたい理由ってそれだけ?」
「わたしにとっては重大なことだよ」
「じゃあさ、その植物をうちに持ってきたら?」
思いがけない提案に、手に持っていた箸を皿の縁に置き、彼を見つめた。
だけど、歩くんは何事もなかったように、テレビの中の笑い声に合わせて「んはは」と小さく笑っている。その無頓着さが、かえって胸に響いた。
「あのさ、わたしがここにいるの、邪魔じゃない?」
「ん~? 別に。俺、あんまり家にいないし。そんなもんで、梢ちゃんに気を使っているとかもないんだよね」
「でも、友達と遊びたいとか、そういうことはないの? わたしがいると気にならない?」
すると、歩くんはまた「別に」と答えた。しかし、テレビに視線を向けたままだが、わたしの困惑を察しているのか口角を上げた。
「梢ちゃんは好きにしていたらいーよ」
「……わたし、知らない人なんだよ? 少し不用心なんじゃない?」
「でも、梢ちゃんって悪いことできなそうだし」
それは嬉しいようで、少し複雑な返答だった。まるで悪いこともできない意気地なしだと言われている気になったのだ。
きっと、そんなことはないのに、どこかで身構えてしまう癖があるみたい。
「コーヒー牛乳を奢られるのに、あんな身構えられちゃあ、そう思うでしょ」
「……それは、そうかもしれないけど」
「不用心というなら梢ちゃんの方がそうでしょ。部屋に招いた俺が言うもんじゃないけどさ」
「歩くんが、わたしに何かする可能性……?」
「考えはしなかったの?」
「会ったその日には、そんな考えはなくなっちゃったよ」
そういった危険性は至る所に潜んでいる。
こんなわたしだけど、危機感は至って普通に持っていると思う。
でも彼を前にすると、そんな疑念すら現実味を失っていった。