2 出会い
この物語はもともと縦読み形式で執筆していましたが、現在、横書きでも読みやすいように編集を進めています。
現在は第3話まで改稿済みです。以降も順次更新予定ですので、お楽しみいただければ嬉しいです。
出会い
浦風が顔の上で渦を巻き、細かな砂粒が肌を打った。
息苦しさに耐えきれず顔を背けると、湿った髪が頬にべったりと貼りつく。
海は大荒れだった。泡立つ白波が、幾度となく形を変えては岸へと押し寄せてくる。
ねずみ色の空が垂れ込める陰鬱な光景――わたしは、そんな暗い海を見るのが好きだった。
荒々しく波が立ち上がるのを見ていると、胸の奥がざわめき、気分が高ぶるのだ。
波の縁を踏んだ刹那、冷たい水が足首に絡みつき、闇の中へと引きずり込もうとする気配が漂った。
靄に包まれ、輪郭の曖昧な水平線を見つめながら、わたしは空想を膨らませた。
今日のような海の中では、漂流物も泡も、すべてがもみくちゃにされて濁っている。
頭を押さえつけられ、もがきながら見るその景色は、いったいどんな色で、どんな形なのか。
もし、自分もそのひとつになって荒波に呑まれ、翻弄されても――渦の中で、四方八方に手足を引かれながら、それでもわたしはきっと、海面を見上げてしまうだろう。
遠くの空はまだ白く輝いている気がするから。
「アンタ! 何やってんだ!」
不意に耳を打つような声が飛び込んできた。咄嗟に振り向くと、青年がいて、彼の手がわたしの腕を掴んでいた。
「だ、だれ……?」
白いTシャツの袖をまくった青年が、困惑した面持ちで立っていた。海風に煽られた髪が額に張りつき、濡れた前髪が揺れている。
「こんな天気の日に、海にいたらあぶねぇって!」
「そんなことは分かってる」
だから放っておいてほしい――そう言いかけたが、雨の音にかき消され、言葉は届かなかった。
青年は迷いのない手つきで、わたしの腕をさらに強く引いた。
抗う間もなく、体がふわりと浮く。次の瞬間には、彼の肩に担がれていた。
思わず悲鳴を上げて身を捩ったが、がっちりと足を押さえられ、どうにもならない。
彼の進む先に、点滅するハザードランプが見えた。
白い軽トラックが、雨の帳の中にぼんやりと姿を現していた。
ドアが開く音がして、わたしはその助手席に放り込まれる。
胸がきゅっと縮んだ。
とっさに彼を押し退けて逃げようとしたが、手足は言うことを聞かない。
青年は容赦なくわたしの体をシートに押しつけ、シートベルトを締めた。
落ち着けと、自分に言い聞かせる。
どうせ、彼は次に運転席へ移るはずだ。
そのとき、ドアを開けて飛び出せばいい――そう思っていた。
だがそれを見越していたかのように、彼は助手席側からすばやく体を差し入れ、ドアを閉めると、すぐに反対側の運転席へ回り込んだ。
そしてギアを入れ、車を滑らせる。
このまま、どこか知らない場所へ。
もう戻れない――そんな速さで進んでいく。
いっそ、走る車から転げ落ちてしまおうか。
怪我をしても構わない。最悪、死んでしまったっていい。
自分の意志で選んだことなら、それでいい。
わたしはそんな短絡的な覚悟を胸に、シートベルトに手を掛けた。
次の瞬間、内側のカギに指を伸ばし、ドアノブにそっと手をかける。
「変なことは絶対にしないから、降りないで!」
ドアを開けかけたわたしに気づいた青年が、慌てて声を上げた。
その声に手が止まり、わたしはゆっくりと運転席の彼に顔を向ける。
じわじわと、恐怖が体の奥に染み込んでくる。
彼はずぶ濡れだった。
あの豪雨の中、わたしを抱えて外に出たのだから、当然といえば当然だ。
前を見据える横顔は険しく、まったく動かない。
善意だけで、ここまでする人がいるだろうか。
そんな疑念が、胸の奥に静かに沈んでいく。
張り詰めた空気が、肌をじりじりと刺すようだった。
試しにドアノブに手をかけると、カチリと自動ロックの音がした。彼が運転席から操作したのだろう。
「……分かった。ごめん。もうしない」
わたしはそう言って、そっとドアノブから手を離す。
拍子抜けするほど冷静な自分に気づいて、肩の力がふっと抜けた。
「……自転車があるの」
ぽつりと呟くと、彼は少し間を置いて答えた。
「明日でも、取りに行ってやるから……今は諦めて」
明日という言葉が、どこからともなく不安を呼び寄せる。
盗まれてしまわないだろうか。
放っておけば、錆びてしまうかもしれない。
――それより、彼は今どこへ向かっているのだろう。
疑問がいくつも浮かんだけれど、わたしは口をつぐんだ。
車内には、小さな音でボサノヴァが流れている。
ワイパーの音だけが、仲間外れのメトロノームのように、ずれたリズムを刻んでいた。
「寒くない?」
青年のほうがよほど寒そうに見えたけれど、わたしは正直に「寒い」と答えた。
すると彼は、無言のまま温度調整のダイヤルに手を伸ばし、車内をじわりと温める。
「おねえさん、どこから来たの?」
「……少し、遠い場所から」
「自転車で?」
「疲れたから、途中でバスに乗ったけどね」
「自転車って乗せてもらえるんだっけ」
「専用のケースに入れたら、だいたい乗れるよ。確認は必要だけど」
「へえー、知らなかった。じゃあ、バス停からあそこまでは自転車に乗ってきたんだ」
――どうだったかな。
バスを降りたのは覚えている。
自転車にも乗った。
でも、こんな天気だもん。強風に負けて、押して歩いていたのかもしれない。
そもそも、どんな道を進んできたのか分からなかった。
一瞬、会話が途切れる。
車内には、ボサノヴァの旋律がゆったりと流れていた。
「宿は取ってる?」
わたしは答えず、代わりにそっと音量を上げた。
それだけで察したのか、青年は「取ってないのか」と小さくつぶやく。
わたしはシートベルトの長さを直し、そっと背凭れに体を預けた。
すると彼も、肩掛けカバンを胸に回す。
ほんの少し、安心したような仕草だった。
どれくらい走っただろうか。
音楽とワイパーの音が、窓越しの景色と一緒に流れていく。
身を縮めて座っていると、その沈黙を破ったのは、彼だった。
「会話はしてくれるんだね」
探るような、どこか控えめな声だった。
「そう言われると、答えなきゃよかったって思うよ」
「あ、ごめん……んーと、嫌味じゃなくって」
彼の片手が視界を横切る。
運転席でハンドルを握ったまま、もう一方の手を軽く振った。謝罪のつもりなのだろう。
その不用意な動きに、とっさに口をついて出た。
「視界が悪いんだから、ハンドルはちゃんと両手で握りなよ」
「ごめん」
また、すぐに謝る。どうしてこんな女の言葉に、いちいち素直に返せるんだろう。
やっぱり、この人もどこか変だ。
車に乗せられたときから感じていた不信感が、ここにきて一気に膨れ上がった。
「……警察に話すためでしょ?」
「え?」
「自殺志願者を発見したんだし。ま、通りがかりってことにすれば、すぐ帰れるよ」
彼は少し間を置いて、静かに告げた。
「俺、交番には向かってないよ?」
「……え?」
「もう少しで、温泉施設に着くから。まずは温まりなよ」
温泉――。
そういえば、途中でそれらしい看板を見た気がする。
でも、なぜ温泉なんだろう。
理由を聞いたわけではなかったけれど、彼は静かに、まるで独り言のように続けた。
「濡れたままだとさ、なんか……余計に気持ちが沈むことってない? もともと元気ない時とかさ」
言葉を手探りするように前を見つめる青年。
その横顔を、わたしはそっと見つめ返す。
さっきまでの投げやりで、楽しかった気分を台無しにされたような不貞腐れた気持ちも、車に押し込まれて混乱していた気持ちも、幾分か落ち着いていた。
わたしは青年から視線を外し、窓の外に目を向ける。
キュッキュと音を立てながら左右に動くワイパーを目で追っていると、その視線は次第にその先に広がる景色へと移っていった。
やがて、車はトンネルの入り口へと差し掛かる。
道の縁を、オレンジの灯りが静かになぞっていく。
その光は、雨に濡れた路面にぼんやりと反射していた。
「……気分が沈む、ね」
「ない?」
「あるかもね」
柑橘の香りが、ほんのりと漂っている。
その冷えた匂いが、新車特有の人工的な匂いと混じり合って、ちぐはぐな空気が車内に広がっていた。
わたしの肌寒さが、よりいっそう鋭く感じられる。
何となく手持無沙汰で、膝の上の服に指をかける。
握ったところから、水がじんわりとにじんだ。
「あのさ、勘違いしないで欲しいんだけど、わたしは死にたいわけじゃないから」
「そうなの? なら良かった」
「……強引に乗せた割には、あっさりしてんね」
「うーん、何か言葉にして欲しいタイプ?」
彼のその言葉に、わたしの中で何かがざらついた。
まるでわたしのことを『構ってちゃん』だとでも言いたげに聞こえたのだ。
しかし、あんな場所にいた自分が悪いことは分かっていた。
わたしは、溜息まじりに深呼吸をひとつ。
こみ上げる苛立ちを、なんとか押し沈める。
「別に。……ただ、海に沈んでもいいかなって、そんな気がしただけ。ほんとうに、死ぬつもりだったわけじゃない。それに、ああしたことは迷惑行為だってことも……ちゃんと分かってるよ」
この言葉に、彼が怒り出したらどうしよう。
命を大事にしろって、そんなこと言って。
――それは正論だけど、そんなの聞き飽きた。
どうせまた、わたしのことを何も知らずに、勝手に決めつけるんだ。
うまく言葉にできない自分がもどかしいし、そうやって理解しようともしない他人にも、苛立ちが募る。
もし彼が説教を始めたら、車のハンドルでも引っ張ってやろうか――そんなことまで頭をよぎる。
けれど実際には、わたしは何もできない。
ただ身を強張らせて、次に来る言葉を待つしかない。
助手席に流れる空気が、じわじわと重たくなった。
トンネルを抜けた瞬間、オレンジ色の灯りが後ろへ流れていく。
視界に飛び込んできた白い光が、目の奥を焼いた。
やがて、見慣れたねずみ色の空と、雨に濡れた道路が現れる。
赤と青の標識がなければ、車窓に映るのはまるでモノクロの映像だ。
何を考えているのか分からない声色で、彼は淡々と口を開いた。
「今日みたいな海に近づいたら危ないって、分かっていたわけね。なら、何もいうことはないか。……でも、まあ、万が一おねえさんが死んだとしても、謝らなくていいんだろうね。気を重くする必要はないのかも」
わたしは、思わず眉をひそめる。
彼の言葉は、叱責でも同情でもない、その淡々とした口調が、逆にわたしの心を揺さぶった。
ただまっすぐに投げかけられた事実。
それだけの言葉なのに、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
そこには評価も指導もなかった。
ただ『現実』が、静かに置かれていた――そんな受け止め方をされたのは、久しぶりだった。
「……変な話をしてもいい?」
少しくらいなら、自分の中のものをこぼしても平気な気がした。
それくらいには、車内の空気が落ち着いていた。
シートベルトの紐を、わたしは両手でそっと握った。
「聞かせて」
彼の声に押されるように、わたしは口を開いた。
「わたしね、何を見てもがっかりするの。たとえば、窓を伝う水滴を眺めてるだけで、多くの人が死ぬイメージが浮かんできたり……。暗いでしょ? でも、わたしもその一粒なんだと思えば、少しだけ楽になるの」
「がっかりするけど、気が楽になるんだ?」
「うん、そう。……おかしいでしょ」
フロントガラスの先、道端に『波多見温泉まであと1キロ』と書かれた看板が視界をかすめた。
そのまま、わたしは言葉を継いだ。
「でもね、そういう感情を見ないふりできる人のほうが立派なんだって……」
心の弱さや曇りを認めることさえ、怠慢とみなされるような空気。
誰かに、心を明かすことが怖い。
だから、こんなふうに話している自分が、今はとても不自然に思える――。
それ以上、何も言えなかった。
きっと、彼はわたしを変な女だと思ったに違いない。
それで車から降ろされても構わない。
わたしはまた、自転車を取りに海へ戻るだけのことだから。
けれど、わたしを乗せた車は、何事もなかったように、温泉施設の前にたどり着いた。
車はゆるやかに駐車場へと滑り込み、建物の近くで止まった。
彼は手際よくシフトをパーキングに入れ、ひと息置くようにして、サイドブレーキを踏み込む。
ブレーキが「ギッ」と短く鳴った。
「ここ、雨の日でも露天風呂やってんだよ。雷鳴ってる今日みたいな日でもさ」
「……へえ」
「湯に浸かりながら雨に打たれるってさ、なんか変な感じ。気持ちいいんだけど、ちょっと……不思議で」
そう呟きながら、彼はわたしのシートベルトに手を伸ばし、軽い手つきで外す。
そのまま、自分の肩から掛けたままだった小さなカバンを開け、中身を確認していた。
「どうせ濡れるなら、風邪ひかないほうがいいっしょ」
わたしの顔を覗きこむようにしながら、彼はニカッと笑った。
その笑顔を見て、ようやく彼の顔を、正面から見た気がした。
館内に入ると、わたしは青年に言われるまま、靴箱のカギをカウンターの女性に渡した。
すると、その代わりに『13』と『9』の番号が書かれた木の札が差し出される。
青年は慣れた手つきで二人分の入浴料を支払い、ついでに貸しタオルの手配も済ませて、わたしに『9』の札と清潔なタオルを手渡した。
目を離した隙に逃げられるかもしれない――そんな考えは、この人にはないのだろうか。
「それじゃ、好きなだけ温まっちゃって。あ、さっき言ったけど、雷鳴ってるし、のんびりして感電しないようにね」
わたしが札を見つめているのも気にせず、青年は軽く冗談を飛ばして、男湯の暖簾をくぐっていった。
ふかふかのタオルを手にしたまま立ち尽くしていると、近くの高齢の女性が怪訝そうにこちらを見ていた。びしょ濡れの衣服から滴る水で、床を濡らしてしまっていたらしい。
人に迷惑をかけるのは苦手――なんて、あんな場所にいたわたしが言えることじゃない。
濡れた手で清潔なタオルに触れるのもためらわれる。ともかく、早く浴場に入ってしまおう。
水を吸って重くなった服に足を引かれながら、わたしはようやく暖簾をくぐった。
脱衣所に入ると、まず周囲を見渡した。中途半端な時間帯のせいか、棚に置かれた衣類カゴの多くが空いている。
浴場の出入り口に近い棚を選び、濡れて肌に張り付く衣服を一枚ずつ脱いでいくと、長いあいだまとわりついていた湿った布の不快感から、ようやく解放された気がした。
その衣服を手にして洗面所へ向かうと、人気のない静寂に思わずほっとする。
「今ばかりは、誰もいなくて助かった」と心の中でつぶやきながら、洗面台で服の水を絞った。
できるだけ水気を落とし、くしゃくしゃのままカゴの奥に押し込む。湿り気を帯びた布の感触が、指先にじっとりと残る。
そのときになって初めて、指先の皮膚がしわしわになっているのに気がついた。
浴場の戸をスライドして一歩踏み入れると、白い湯気が視界を覆った。目を凝らしながら慎重に洗い場へと進む。濡れたタイルの感触が足裏に伝わり、少し不快だった。
風呂椅子にシャワーの水をかけてから腰を下ろし、ひと息つく。伏せられていた桶を手に取り、シャワーヘッドでお湯の温度を確かめる。冷えた体にはやや熱く感じたが、温度が安定すると、肩にお湯を流し、片手で肩や鎖骨を撫でた。
さっきまで荒れ狂う海を前にしていたのに、今はすっかり日常に戻ってしまった……。
少し離れた場所から、シャンプーのポンプを押す音が聞こえる。わたしもそれに倣い、顔を伏せてシャワーのお湯を頭にかけた。家のシャワーとは違い、温泉のシャワーは勢いがあり、『洗ってる感』があって好きだ。
手探りでシャンプーのポンプを探し、手に当たったそれらしきものを押す。出てきた液体を髪につけた瞬間、ああ、失敗した、と残念な気持ちになった。これはコンディショナーだ。
気を取り直し、髪を洗い流してから顔を上げ、シャンプーとコンディショナーの位置を確認する。シャンプーを手に取り、髪で泡立て、地肌を指の腹でよく擦った。潮風に晒されていた髪は指に絡み、軋んでいた。それを解くために念入りに頭皮を掻いたあと、顔を伏せて泡をお湯で流す。
再び顔を伏せたままコンディショナーを探り、手に当たったボトルの位置を確認してから、手の平に出す。今頃、あの青年も髪を洗っているのだろうか。いや、わたしよりも先に入って行ったのだから、既に湯船に浸かっているのかもしれない。そんなことを思いながら、コンディショナーを髪に塗り、少し時間を置いてから洗い流した。
次にボディーソープを手に取り、体を撫で回し、お湯で流す。これで全てを洗い終えた。
ようやく湯船に入る準備が整ったわたしは、使わなかった桶と座っていた椅子にシャワーを当てる。ガラスの前に置いていたフェイスタオルを絞り、それで髪を巻き終えると、一番大きな湯船に身を沈めた。
湯船に浸かりながら見える外は相変わらず荒れ模様で、分厚い雲の奥でチカチカと光る雷は鳴りやむ気配がない。あの人、こんな天気でも露天風呂に入れるとか言っていたっけ。こんな天気の時に露天風呂に入ったら、いろんなものが湯船に浮いているだろう。想像するだけで、入りたい気分になれない。
しかし、風呂を出たら、またあの濡れて汚れた衣服を着なくてはいけない。それなら、この綺麗で穏やかな湯船に浸かり続けていたいんだけれど……。まあ、体がふやける頃には、そんな気持ちも消えてるだろうけど。
ああ、もう。本当にくだらないことばかり考えてる。自分に呆れながら、鼻の下まで顔を湯船に沈めて、目を閉じた。
体の芯まで温まり、すっかりほぐれたわたしは、脱衣所へ戻った。浴場の熱気が蒸気とともにゆっくりと薄れていく中、バスタオルを手に取ると、タオル地のTシャツと七分丈のズボンがセットだったことに気づく。
清潔になった体に、また汚れた服を着る必要がないとわかり、ほっとした気持ちが広がる。
まだ温かい蒸気が残る脱衣所で、籐の椅子に腰を下ろす。温泉のドライヤーは少し重いが、髪を丁寧に乾かす。
洗面台のそばに置かれたカゴから個包装のヘアゴムを見つけ、手早く袋を破って取り出す。低い位置で髪を一つに束ねると、顔に髪が貼りつく心配もなくなり、気分が軽くなった。
共有のオールインワン化粧水を手に取り、手のひらで顔になじませる。
鏡に映る自分の顔は、思ったより元気そうだった。
脱衣所を出ると、自販機の前の椅子に、見覚えのある青年が座り、牛乳を飲んでいた。戸惑いながらも近づいて「上がった」と声をかける。
「露天風呂に入った?」
第一声がそれかと思ったが、楽しげに笑いかける青年の表情が可愛くて、思わずこちらも笑ってしまう。すると彼は言った。
「意外と元気そうだね」
「もともと元気だったんだよ」
「そうなの? 俺も台風の日ってテンション上がって外に出たくなるんだけど、そういうのと似てる?」
「ああ、そうかもね……」
台風の日に外へ出たい衝動は、心配や迷惑をかけるかもしれない。けれど、彼のその欲求は、自分が海にいた理由とどこか通じる気がした。だが、芽生えかけた親近感をすぐに打ち消す。
似ているようで、きっと違う。そう思うと、少し寂しさが胸をよぎった。
「おねえさんは何飲む?」
「お金持ってるから自分で買う」
「いいからいいから。こういうときは『ラッキー』って思ってよ」
ニコニコ笑う彼を前に、あまり頑なに断るのも気が引けて、「コーヒー牛乳」と答えた。
青年は小銭をジャラジャラと入れ、数字をポチポチ押す。
「瓶の自販機って、ゲーセンのクレーンゲームみたいで面白いよね」
「そうかも」
ガコン、と大きな音を立ててコーヒー牛乳が落ちる。彼はそれを手に取り、「はい、どーぞ」と渡してきた。
「……ありがとう」
「どーいたしまして。あ、今ってプラスチックの蓋だから、残しておけるよ」
「知ってる」
「そっか」
お節介な青年に、また笑みがこぼれる。彼もつられるように笑い、休憩所の方を指差した。
「あっちに座ろ」
歩き出した彼の後ろをついていき、隣に少し距離を空けてソファに座る。
レモン色のソファは丸みのあるフォルムでレトロで可愛い。隣のソファとの間にはユッカの鉢が置かれ、温かい空間が演出されていた。
「おねえさん、奢られるの苦手でしょ?」
「……ここに来るまでにも親切にされたし」
「仲の良いおいちゃんに奢って貰う時も、そんな感じになるの?」
「え? いや、……どうかな」
顔をゆっくり上げ、「アンタとは仲良くないし、状況が違う」と言いかけて口をつぐむ。それは余計なひと言だ。
青年は「ふぅん」とだけつぶやき、乾ききらない前髪をつまんでいた。なんだか掴みどころがない。
「おねえさんって、このあとも暇でしょ?」
「……おねえさんじゃなくて、梢でいい」
「じゃあ、梢ちゃんね。俺は歩っていうの。よろしく」
大げさに『よろしく』と言うほどの関係でもないけれど、そのときのわたしは、曖昧に頷いた。