最終話 未来回廊
整形外科から退院してきた妻を見て、僕は青磁陶器を連想した。
青白い光を放つ、完璧で優美な陶器。
古代中国で生まれた、その陶器に失敗作は許されず、徹底的に完全な美と技巧が駆使された。
前にも同じようなことを連想した記憶がある。
「綺麗だな」
僕は彼女を眺めて、そう言った。
このソファに座るのも久しぶりだ。
お気に入りだったセーターを着ている。
良い香りのコーヒーを愉しみながら飲んだ。
「は? 今、なんて?」
「ああ。君は綺麗だって言ったんだ」
「なんなの? 気持ち悪い……」
「うん。それじゃあ別れようか」
僕は笑顔で切り出した。
☆☆☆
2021年から先に進んだことがないので恐怖もある。
ともかく、十年戻る度に、生活水準の不便さを痛感していた日々は終わりを告げた。
今度は、四年先に飛んだので、その分のアップデートにここ数ヶ月間は、四苦八苦していた。
ネットで”オカルト教授”なる者を検索して出てきた画像は、まったく知らないオジさんだった。
僕は、その時、やっと心の底から笑えたように思う。
ネットを掘り返して見付けた彼女の名前は、地下アイドルの小さな引退記事だけだった。
しかも、何年も前の話である。
別れた妻は、前回の彼女と同じく完璧な外見をした怪物だった。
怪物に別れを告げるのは簡単だったが、実際に別れるのは大変だった。
しかし、僕が浮気していたということもないし、幸か不幸か子供もいない。
金と手続きだけで、別れることができるのなら、それほど簡単なことはない。
むしろ、不倫していたのは彼女の方で、僕が慰謝料まで貰うことになってしまった。
なんにしろ、断崖絶壁から飛び降りることを思えば、どうということもない話であある。
☆☆☆
この店に入るのも久しぶりだ。
いつも通りにハンバーグ定食を注文する。
食後、店のおばちゃんに挨拶すると、彼女はちょっと待つように言ってきた。
また、なにか手紙でも渡されるのではあるまいな、と気が気ではない。
「ああ。来た来た――」とおばちゃんが言った。
「先生」
僕は、その人のことを知っている。
彼女に手を差し出すと、暖かさを思い出した。
冷たい陶器ではない。人の手だ。
そう感じると僕は泣きそうになる。
彼女は僕の泣き顔を見ると、戯けた調子で笑わせてくれた。
きっと、僕はこの手を離すことはないだろう。
ずっとずっと。
世界が終わりを告げるまで。
☆☆☆
~エピローグ~
コンサートホールは熱気に包まれていた。
観客席は満員で、興奮と期待の入り混じった空気が漂う。
ネットで話題になった彼女は、瞬く間に音楽業界を席巻し、ついにそのベールを脱いだ。
先生――お父さんは、始まる前に楽屋へ挨拶に来たらしい。
彼女より緊張しているのがおかしくて笑ってしまった、と連絡が入った。
彼女がマイクを手に取ると、会場が水を打ったように静まり返る。
デビュー曲『未来回廊』は、小説を元にして書かれたと言われていた。
難解で、繊細で、狂気と混乱に満ちた――僕らの物語。
先生が紡ぎ出した物語は、彼女へと受け継がれていく。
その歌詞とメロディーは不思議な魅力を持ち、聴く者を引き込んでいった。
☆☆☆
僕は花束を手にして、彼女の楽屋を尋ねていく。
いつかのループの中で、彼女が僕の心を静かにこじ開けてくれたように。
そして、今、僕は未来をノックした。
了




